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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

イデア

作者:

 俺は静かに深呼吸をした。もうこれで終わるのだ。この一歩で、全て終了。万里の道も一歩から。いやこの一歩を進むと死ぬのだから万里の道はもう……


「何してんの」

「話しかけんな。俺は今現在宇宙と更新中だ」

「……馬鹿みてー」


 ぺらり、と雑誌を捲る音がする。ほのかに漂う薬草が焼けたような匂いは、彼が愛用しているマルボロ(煙草)の匂いだろう。俺はもう一度深呼吸をしてから地面を見る。見慣れたグラウンドが広がり、白いラインが引かれたそこを走り回る小さなそれは人間。屋上から見たらどれもこれもがミニマムサイズ。下の人間は恐らくサッカーをしているのだろう。小さいながらにもボールのようなものが見えた。

 今自分がここから飛び降りたら……。間違いなく大惨事になるに違いない。人間は高度十メートル以上上の所から飛び降りると途中で首が折れて死ぬらしい。この学校は五階建てだし完全に十メートルを越している。首が折れた姿も酷いだろうが、着地後が潰れたトマトのようになるのも嫌だ。

 走り回る人間を見詰めるのと風に吹かれる前髪を鬱陶(うっとう)しいと思うので精一杯だった俺は、すぐに頭が真っ白になる。誰か俺のアイデンティティーにシンパシーを。駄目だこんなんじゃ出来損ないの文しか出来上がらない。掴めない空気を掴むようにして手を握ると、自分の空虚が更に広まったような気がした。


「お前のせいで更新途切れた。もう面倒(めんど)いからやめる」


 屋上の柵をまた乗り越えて、今度は生きている世界へと戻る。こっちは一歩踏み出すと地面に一気に墜落残念でしたアーメン。な事にはならない。安全に満ちた優しい世界だ。

 先ほどまで自分の背中を見ていたはずの男は地面に胡坐を掻いている。手元にあるファッション雑誌はまだ真新しいもので、つやつやとした印刷面が太陽の光を反射して眩しかった。男はすっかり短くなってしまった煙草を地面に擦り付けると伸びをした。


「ナンセンスなこと大好きだよなーお前って」

「ナンセンス? ああ、意味のない事ね。お前は逆に英語が大好きだな。特に人を愚弄するやつ」

「人には何かと穴があるもんだろ。しかし人はそれに気付かない。俺はそれを教えてやってんだから親切なもんさ。自分の事否定されて切れるのは、ナルシスト。ナルキッソスって知ってるか」


 男は胡坐を掻いたままそう言った。火が消えた煙草を屋上から地面へと投げる。煙草自体が軽いせいか、着地音はしなかった。俺もその隣に座り、男が読んでいたファッション雑誌を奪い取る。煙草の匂いが少し移ってしまった事が残念だ。


「知らねーよ。俺は自分の言葉と、あとお偉いさんの文章にしか興味がねーんだ」

「それなら聞いた方がいい。俺は将来金持ちになる」

「へー。何、それで俺を養ってくれんの? ははっ、うれしーね」

「俺はゲイだけどお前には興味ねーよ。最後にはイデアに従って女の嫁さんと人生暮らす」


 その一言を聞いた俺は何故か虚しくなった。男が好きな男っていう時点で人生迫害され気味なのに……まあ、自分が同性が好きだという事は誰にも言った事がないのだが。ゲイは必ずどこかで迫害されているという事は知っている。

 一応形式上は恋人を気取っている男は自分を置いていく気満々なのだ。いつどんな時に自分が離れても、きっとこの男は笑顔で俺に手を振ってこう言うだろう。「じゃーな、petrel(疫病神)!」しかし俺は彼の疫病神になった覚えは無い。まあ何だ、何か疫病神なんだろう。


「イデア論、聞いた事あると思えば……。それ、次の中間テストの範囲のやつだ」

「大変だな、高校一年生ってのは」

「あんたは高校三年生だろ。いいのかよ、卒業の準備とか受験とかしなくて」

「受験は推薦で取った。煙草だって誰も気付かない」

「見て見ぬ振りしてんじゃねーの。お前って物凄く頭良いんだろ。学校も手放したくないんだろうな」


 カチッ、という火打石が弾けるような音がした。俺は隣を見る。真新しい煙草に、小さな火が灯されているのが目に入った。世の中不条理だと思う。


「俺の前で煙草吸わないで」

「女みてーな事言うなよ。あ、お前そういえばスポーツマンだっけか」

「そう。俺は剣道部エースだぞ」

「でももう一つの顔は将来小説家希望ってか。いやあ、か細い夢だねー」


 点けたばかりでまだロクに煙さえ出ていない煙草を男はまた地面に擦り付けた。コンクリートの地面には黒く焦げたような跡が小さく残る。男はまたそれを投げ捨てた。俺は(あえ)て何も言わない。もしもそれがお前の煙草だとばれたらどうするんだ。と言っても彼はそ知らぬ顔をして「俺は特別な存在だから、退学も停学もないだろうよ」と言うに違いない。まあ確かに東大に受かるだけのIQがあるのは凄いと思うが。やはり頭脳がどんなに明晰でもモラルがなければいけないと俺は思った。だってこの男の根性は心底捻じ曲がっている。ああ神様、俺は素直に生きていくから、どうかこいつの脳味噌を俺に下さい。でも知ってる、神様は猫被りしてる奴が好きなんだ。学校の先生みたいに。だから俺の事を嫌っているのだろう。神様、こいつは俺よりも性格最低ですよー。聞こえてますかー。……聞こえていないようだ。


「イデアって言うのは価値判断の基準。俺は頭が良いし見た目も良い。だからイデア論からすれば俺は最高の人間ってなる」

「モラルは最低だけどな」

「道徳だの何だのについて構ってたら人間出世しない。今の社会はそういうもんだ」

「……。不条理だよなー。世の中って」


 のんびりと表層だけ眺めていたファッション雑誌の途中のページでめぼしいものを見つけた。俺は男の会話を別の脳内で交わしながら、胸ポケットに刺していたボールペンでぐりぐりとその服の周りを囲んだ。オーソドックスな黒で囲んだから、結構目立つ。あとはこのページをドックイアーするだけだ。


「お前何人の雑誌にドックイアーしようとしてんの」

「いいだろ。大体これは俺の金で買った」

「そうそう。ドックイアーで思い出した。イアーゴって知ってるか」

「……お前は本当にそういう話好きだよな」

「イアーゴってのはシェークスピアの作品に出てくる登場人物だ。作品はオセロ。悲劇な」

「俺の話は無視ですか」


 俺はファッション雑誌を閉じると座っている足元の横に置いた。男はズボンのポケットに仕舞っていた携帯を抜いてから、俺の顎を掴んで顔を引き寄せて、唇が触れるだけの可愛いキスをした。至ってクールな俺は別に顔を赤らめる事もなく、彼の胸板を静かに押し退けた。


「イアーゴってのは虚偽・利己・冷酷・嫉妬を人物として表した姿だ」

「……煙草の匂いひでーよ。キスの時に苦いって女にモテねーぞ」

「お前の女ってのは間違ってるらしい」


 男は携帯を静かに開いて俺に見せた。メールの内容の一部だろうか。女からだというのは間違いない。俺はそれを静かに読み上げるとくすくす笑った。馬鹿っぽい文章。雰囲気のことを「ふいんき」と言っている時点で馬鹿だ。妙に漢字を平仮名に直そうとするし、「あいうえおやゆよわ」を全部「ぁぃぅぇぉゃゅょゎ」に直してやがる。


「俺こういう女、嫌いだ」

「負け犬の遠吠えはなしな。女がいる俺の方が勝ち組だ。例えそれがどんな女であっても」

「本気のお付き合いで?」

「いいや、言っただろ? 俺はゲイだって。女と付き合う最初の軽いジャブみてーなもん。キスはやっと出来たけどまだセックスはしてない」

「……うわ、そういう言葉平気で使うとか気持ち悪」

「でもゲイが何で迫害されてるかっつーと人間としての本能なんだよ。動物の本当の目的はのんびり暮らす事でもねーし勉強する事でもねー。簡単に言っちまえば子孫が残せるかどーかなんだよ。それが生き物としての使命……生き物の理由。俺等はそこからして違ってる訳」


 チャイムが鳴ると同時に色んな教室がざわめき始める音がし始める。多分今のは授業終了のチャイムだ。あと、自分がサボったのが三時間目からだと考えれば、今は昼休みの時間。青空弁当でも(たしな)もうとしている女子生徒が弁当片手に走ってくるまであと数分。


「…………」

「まあ安心しな。俺は女が好きになれない内はお前を傍に置いておくから」

「大学に行ったら」

「それまでには女を好きになっておく練習をする」

「…………」


 男は重い腰をゆっくりと上げて、校内へと戻る鉄の扉を開けた。ここの学校の屋上への扉の鍵は壊れており、そのせいで俺を始めとした多くの生徒がこの屋上をリフレッシュするための空間として利用している。……それと同時に、屋上(ここ)から自殺しようとする生徒の数も絶えない。


「そうそう」


 扉を閉めようとしていたその小さな隙間が、また再び開いた。そこから男の顔が覗く。


「小説のネタのために屋上で自殺する一歩手前の事すんのはやめろよ。あとリスカすんのも」

「……生と死の狭間を視ると、良い案が浮かぶ気がすんだ」


「死なれたら困るんだよ」


「…………」



 ガタン。扉が閉まった。

 男は俺の事が好きだろう。それとも俺を失いたくないか。……だってそうだろう? そんな感情を抱かないと少なくとも今みたいな言葉は言わない。しかも同性に。



「捨てるくせに」


 もしも、女が好きになったら俺の事、捨てるくせに。




 空はムカつく程に晴天なり。




 イアーゴもこんな気持ちだったのかな、と思いつつ、横に置いていたファッション雑誌をまた捲り直す。

 そういえばさっき自分がめぼしいと思っていた服は、俺よりもあの男の方が似合う服だった。

 俺はそのページを破ると、粉々にして、屋上から下へとばら撒いた。一部の馬鹿な生徒の声が耳を打つ。



「何、雪?」



 十月中旬。俺は携帯のあの男のメモリを消した。でも恐らく明日あたりにはまた保存し直しているだろう。

 だって、俺はあの男の事が好きだから。

 明日は何の話をしてくれるんだろうか。

 そうそう、ナルキッソスの話を聞こう。



 空はムカつく程に晴天なり。



 今度は雑誌ごと投げ捨てた。空虚が満たされたような気がしたけど、すぐにそれは消えた。

 心にはぽっかりと穴が開くばかり。ああ俺も女を好きになろうかなあ。

 お目汚しすみませんでした。読んでくださってありがとうございます。


 初の短編がBL……!? と内心びびり中ですが、書きたかったものが書けて満足しています。しかし衝動的に書きたくなった雰囲気をそのまま形に表してしまったようなものなので、中身の保障は一切いたしません。本当にごめんなさい。あとキャラクターにはお名前がありません。でもあった方が良いんでしょうかやっぱり^^;


 至らぬ所、本当にたくさんあったと思いますが、最後まで目を通していただけでも本当に嬉しいです。ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 拝読させていただきました。読み進めるうちに、主人公に感情移入してしまい「もうそんな男とは別れちゃいなさい!」などとおばさんのようなことを思ってしまいました。ですので、はじめは大学進学を決めて…
[良い点] 俺?の感情が楽しかった [一言] おもしろいですね。  ボーイズラブwて、いうよりも私からすれば仲のよすぎる二人組みですねww  楽しかったですw
2009/10/09 18:44 退会済み
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