刑務所
また、歌声が聞こえる。今度は呉林にも聞こえたようで、顔に緊張が走った。
「他にも人がいるのね。早くここから出ないといけないわ。連れていって協力をしてもらいましょ」
呉林はそういうと、真剣な顔のまま一番奥の囚人房へとスタスタと歩き出す。
「どうして、また感じるとか」
私は呉林を追いかけながら問いかけた。
今は胡散臭い気持ちよりも、強い不安な気持ちが勝り呉林の言うことを信じることにしていた。
「そう、でも今度のはもっと悪い……胸騒ぎがするわ」
私はそれを聞いて、情けないことに震えを隠せられなくなった。どうしても、あの普通列車より恐ろしい体験は御免だった。矛盾してしまうが、呉林のいうことが違っていればと本気で祈る。こんな悪い夢の様な世界でなければ、美人の呉林とゆっくり出来るのだが……。
「早くここから出ないと。そういえば、安浦は?」
頭を軽く振って、自然に力が込もった私の質問に呉林は首を振り、
「解らないわ。ここにはいないのかも知れない。それとも、いるのかも知れない、もうこうなったら、訳が解らなくても前に進みましょ」
呉林は背筋に力を入れ、まったく動じていないかのように言いだした。
「怖いけど開けてみましょうよ。赤羽さん」
呉林は歌の聞こえる囚人房の前に立つと私に顔を向けた。
「解った」
高校時代の一年間が思い出される。剣道の基礎を学んだ。
こんな場所では何も学んでないよりはいい。
私は頑丈そうな扉に鍵を差し込んだ。取っ手を回す。重々しい音に続いて、耳に入る歌声が一際大きくなった。
部屋には、左側には砂嵐を映したテレビと看守用だろうか丸椅子があり、右側には3つの鉄格子の牢屋がある。一番奥に歌を歌っている寝間着姿の青年が入っていた。そして、真中の牢屋にはこれも同じく寝間着姿の中年男性がいた。手前の牢屋は空っぽだった。
「どうしたんですか。大丈夫ですか?」
歌うのを止めた青年に、呉林が声をかけていた。
「あなたたちは?僕は何か悪いことでもしたんですか。寝た時までは覚えているんですが」
青年は努めて落ち着いているような口調だったが、だいぶ混乱しているはずだ。若者らしい薄い青い色の上下の寝巻き姿だ。
それに、看守用のジャンパーを着ている私を当然、看守と間違えているようだった。
「君達、俺は夜からの記憶がないんだ。俺は何かしちまったのか?」
中年の男は真剣な眼差しで、私の方を見つめる。その顔は現実的な衝撃を思わす緊張と不安で青冷めていた。オーソドックスな黒の上下の寝巻き姿だ。
「大丈夫です。ここは特別なところですが、私たちが何とかするのでご安心ください」
呉林が珍しく敬語を使う。呪い師の不思議な雰囲気はこの時、効果を発した。誰でも安心しそうな説得力があるのだ。
「特別! 特別って何だ!」
中年の男が鉄格子を掴んで、呉林に噛みつくように吠える。
「夢の世界のようなものよ! 信じる信じないは別だけど!」
呉林は敬語を突然やめて、地をだし強く説得した。普段と違うのは呪い師の雰囲気を纏ったところだ。
「夢の世界って、本当なんですか?」
青年は少々驚いた顔をしているが、呉林の言葉に半信半疑だ。
「夢。そんな話は聞いてない! 何でここに俺は入れられたんだ!」
ビジネスマン風の中年の男はまったく信じていないようだ。無理もない。私も未だに信じてはいない。いや、信じたくはない。けれど、現実ならば受け入れないとどうにもならないこともある。
「落ち着いて聞いて、きっとここから出られるわ。だから私の言うことを信じて。それに、もしここが現実の刑務所なら、私たちが入って来られる事自体可笑しいことでしょ? それに看守どころか誰もいない。そうでしょ。あ、それに赤羽さんは看守じゃいわよ」
敬語をやめた呉林は真摯に呪い師の雰囲気のままで説得をし続け、何とかこの不可思議な世界を理解してもらおうとした。私は心拍数が気になる心臓をしながら、呉林の奇抜な説得力に脱帽していた。
しばらく中年の男は力いっぱい鉄格子を掴んでいたが、急に力を抜いて溜め息を吐いた。
「ここが何所だっていい、ここから出られればそれでいい。あんたの言う通りにするよ。俺には仕事がある」
「僕は出来るだけ信じます。早くここから出たいので」
青年の方は急に青い顔になる。ここが不可解で非現実的な場所なのではないかと考えだしたようだ。
私はジャンパーのポケットにある鍵束を出して、全部の鍵を青年の牢屋に差し込んだ。
鍵穴は新品のようで、キラキラ光っていた。けれど、どれも違う。中年男性の牢屋にも試したが開かなかった。ふと、呉林と目を合せる。
「問題は鍵ね」
呉林は私の意図を汲み取ってくれた。
「鍵を探してくれませんか。お願いです。どこにあるのか解りませんが」
青い顔の青年はここから早く出たいといった顔をしている。
「鍵を探してくれ。頼む……」
中年男性もそうだった。
無理もない。こんな訳の解らない場所の牢屋になんか入っているなんて、想像出来ないほど不安なはずだ。
私は同情したい気持ちがあるが、この刑務所を調べなければならないという恐怖は到底、隠すことができないものだった。
「わかったわ」
だが、その次に私と呉林は強く頷いた。
外に出て、扉を閉めると、鍵を探しに行くことにした。また歌が聞こえてくる。今度は少し悲しい歌に聞こえる。
「鍵と言っても、この広い刑務所の中。どこにあるのか……。ああ……俺が最初に行った事務所しかないかな」
震える足を叱咤して、私は、ここは一体、地球の何処なのだろう。と考えた。
私たちは事務所の方へと延々と薄暗い通路を歩きだす。天井の裸電球はぶらりとしていた。
重い気分で辺りを見回していると、呉林はいつも通りの顔で歩いていた。
「私、さっきから嫌な感じがしてしょうがないのよ。ここは刑務所だから死刑囚でも出てきそうだわ」
「や、やめてくれよ! 俺だって混乱していて怖いんだからさ! それより、早くあいつらを助けたら、さっさと逃げよう」
私は強く頭を振った。ここが不可解な夢の世界なのかは別として、どうやったら元の世界に戻れるのだろうか。恐怖と混乱でぐちゃぐちゃになりそうな頭で、私はそればかり考えていた。……早く帰りたい。
「きみが占いか呪いだっけ? で、鍵の在り処を調べるっていうのは?」
私は意外性に賭けてみた。
「でも、私あのコーヒーを飲んでから調子がおかしいのよ」
呉林は茶色い長めの髪をかきあげてから考えだした。
「でも、その不思議な感じる力は出来るのか……?」
しばらく歩くと、さっきの誰もいない事務所に辿り着いた。呉林は、さっそく散乱している机の中や奥のロッカールームを探しだす。私もそれに続いた。
この事務所の明かりも、天井に数個しかないやや大きめの裸電球だけであって、薄暗くなっている。震えを抑えた私は小ざっぱりとした机の上にあった懐中電灯片手に机の引き出しを一つ一つ探しだした。
呉林は奥のロッカーを中心に探した。ロッカーの中には刑務官のジャンパーや着替えがあるので、鍵が一番ありそうな場所だった。
しばらく根気よく探したが、やはり無い。一時間以上しただろうか、私はだんだん疲れてきた。
「ここには無いようだし、他を探そう」
「ええ」
呉林も少し応えているようだ。額に浮かんだ汗が物語っている。
私と呉林はまた通路に出ることになった。私は今では鍵のことより、この不可思議な世界から早く出ることだけを考えるようになってきた。
私は、溜め息をついて、
「はあ、どうやったらここから出られるんだ!」
私は未だに極度の恐怖と混乱した頭で吐き捨てた。
「その前に鍵よ」
「あ、うん」
私は気のない生返事を返し、額に浮き出た冷や汗とも疲労の汗ともいえない汗を拭う。
それを聞いた呉林は私の方に怖い顔を向けて来た。
「あなた! さっきの人たちのこと、どうてもいいって思っていない! それじゃあの人たちが可哀想よ!」
呉林が厳しさと悲しさが入り混じった顔をした。
「いい! 強い意志を持たなきゃ駄目よ! でなければ、この不思議な場所からは出られないわ! ここから永久に出られないの! あの人たちの協力が必要不可欠よ!」
呉林は少しだけ怒りを含んだ声で、厳しく捲し立てる。
私は疲れていた。どうでもいいという感情を顔に出し、
「こんな世界じゃ。あいつらがいてもいなくても大して変わらないさ」
「そんな……。今は一人でも多くの仲間がいたほうがいいでしょ。あの人たちだって私たちと同じくこの世界に迷い込んできたのよ。いい、もっと強い意志を……」
呉林が言い終わらないうちに、私に強い感情が迸りそのまま声になった。
「俺はフリーターだ! 強い意志なんて元々持ってないし! 人生の目標なんてあったもんじゃない! 楽な仕事しかしないし! けれど、年金暮らしまで頑張って仕事をするんだ! そんな人生を享受したい人間なんだよ! もう怖いし疲れたし! ここから出たいだけなんだ!」
そう言うと、私は一瞬涙ぐんだ。でも、もうどうでもよかったのだ。自分さえ助かれば、彼らを見捨てても。こんな世界で一時間もいるのは本当に恐ろしい。
感情を爆発させると、こんな異常なところでも頭がキリリと絞られた。
頭がすっきりすると、どうしようもなく、言葉に出来ない恐怖心が湧き上がる。本気で彼らを見捨ててもいいと思うと同時に、何か熱い魂が動いた。と、その時、背後ですさまじい音が鳴り響いた。
「ガアーン! ガァーン!」
と、重い金属で立て続けに鉄格子を殴る破壊的な音だ。
「囚人房の方よ!」
「ひっ!」
呉林は悲鳴を上げた私に強い瞳を向ける。呉林は私の手を握ると、それと同時に元来た道を駆けだした。私は、何度も呉林の握っている手を振りほどこうかと考えていた。
幾つもの囚人房を通り過ぎ、さすがに息切れをする。運動不足の体で呉林とともに思いきり走った。来たときの半分の時間で囚人房に辿り着いたが、私は額の汗を拭おうして手が止まった。
ここに来る時、閉めたはずの頑丈な扉が開け放たれている。
「ガァーン! ガァーン!」
更に激しく金属で鉄格子を殴る音にくわえ、
「なんだこいつはー!」
中年男性の叫び声が響いた。
中に入ろうとすると、テレビの砂嵐の音が聞こえた。鉄格子を殴る破壊的な音はぱったりと消えている。
囚人房の中には、ハンマーを持った青い上下の作業服の大男がいた。頭には何故かテレビを被っている。こちらを向いているテレビは砂嵐が映っていた。
「気を付けて下さい! そいつはハンマーを持っているし、可笑しいんです!」
ハンマーで殴られて、ぐちゃぐちゃになった扉から、青年は青ざめている顔をして、牢
の中から大男を指差した。
「こいつは人を殺すぞ!」
中年男性が叫ぶ。
呉林はかなり驚いた顔をして、
「異界のもの……」
そう呟いた。
私は緊張したが、現実的に大男に話しかける。
「あの、どうしたんですか?」
すると、大男はハンマーを振り上げた。
それは私の左肩を殴り、骨の折れる音が私の耳に入る。左の手がぶらりとして、鈍い音と同時に鈍い痛みが走った。
私は何が起きたのかさっぱり解らなかった。激痛に顔を歪めていると、呉林は私の右手を掴むと走り出した。
「大丈夫! 逃げるわよ!」
掴まれた呉林の手は汗ばんでいた。
左手がぶらりとしている。呉林は、今度は処刑場の方へと私を連れて全速力で走りだした。
「大丈夫! 肩!」
走りながら私に必死な目を向けていた。
「ああ、なんとかね……。痛みが酷いよ……」
私は青い顔で力なく微笑んだ。全速力なので、次第に私も呉林もさっきよりも息切れしてきた。運動不足の私は、激痛に耐えながら荒い呼吸をし、ヘロヘロな脚を鞭打つ。少し遠くで、大男が追ってきているのか、テレビの砂嵐の音が聞こえる。
「あのテレビ頭は何なんだ。 異界のものって……?」
私は苦しい呼吸と左肩から滲み出る赤い色を極力気にしないようにして、呉林に首を向けた。
「本でしか読んだことがないけど、この世ではない世界に挟まって身動きできない人々のことよ!」
丁字路に差し掛かる。呉林は左奥の処刑場に迷わず向かった。何か考えがあるのだろう。私は怖いが何も言わずに従った。
呉林がかなり暗い処刑場の扉を開ける。処刑場は広くはなく、四畳半くらいの一室だった。中央に罪人を縛る太い棒があり、その周りの四隅に弾を込めたライフルが一丁ずつあった。
「私はここで目を覚ましたの。多分、銃殺刑をするところよ」
彼女は恐ろしい所で目を覚ましたようだ。私だったら震えて動くことも出来ない。
呉林が私に重いライフルを渡した。そして、自分もライフルを持つ。私は片手しか使えなかったが、顔をしかめながら何とかライフルを握った。
大男のテレビ頭が私たちに向かって走ってきた。戸惑う私はこの時初めて死の恐怖を抱いた。
きっと、殺されてしまうだろう。中年男性の叫びが本当なのだと思える。そう思うと……体に緊張が走った。
私はテレビ頭から目を背け、片手でライフルを強く握っていると、隣では呉林がライフルを構えていた。
「撃つわよ!」
呉林はそう叫ぶと、テレビ頭の中心に向かって、撃った。辺りに「パーン」という大量の爆竹が破裂するような轟音が鳴り響く。命中した。けれど、頭のテレビ以外から血が大量に出たが、テレビ頭は何ともなかったように走り続ける。
もう一度、呉林は必死の形相でテレビ頭に向かって撃った。
こんどは、弾は当たらなかったようだ。呉林はさすがに慌てだした。
「赤羽さん! お願い! 撃ってちょうだい!」
私は目の前の迫り来る恐怖に必死に抵抗していた。
「お願い! 当たって!」
呉林はまた撃つ。
今度は命中した。だが、テレビ頭は一瞬よろけただけだった。
テレビ頭が目前に迫っていた。
呉林へ片方の手を伸ばすテレビ頭の動きが酷くゆっくりだった。
「呉林!」
スローモーションの世界で、すぐさま私は震える足を叱咤していた。
呉林を庇うかのように動きだし、呉林の前に出る。
その刹那、テレビ頭の体と私の体が派手にぶつかった。
重い衝撃で後方に吹っ飛んだ私は尻餅をついた。
「ひっ!」
一瞬、このまま逃げ出そうとしたが、私は大声を張り上げて、左手の近くにあったライフルを握った。尻餅の状態から立ち上がり静かに重たいライフルを片手で持ち上げた。こちらに突進してきた目の前のテレビ頭のテレビの真ん中に狙いを定める。