赤い月
無限の女子トイレを出て、洋服店から顔を出した頃には、空の巨大な赤い月は北の方へと沈みかけていた。
道路の目の辺りが暗い人々は決して、動いていなかった。何十人と私と渡部が叩きのめした人たちも、倒れたきり身動き一つしない。
「どう。七番目へと覚醒した?」
霧画は高級車の助手席を開けて呉林に尋ねる。
「ええ。凄かったわよ。本当に夢みたい。……でも、現実なのよね。いろんな意味で」
呉林はぶつぶつとした独り言を止めて、満面の笑みで霧画に強い眼差しを向けている。
「いいなー。私も見たかったわ。あ、でも怪我の治療が先ね。渡部くんは病院に運んだわ。次はあなたよ。わ、凄い。怪我が治っているようね。安浦さんも私の車で休んでね」
霧画は私たち三人に車に乗るよう手招きした。助手席に私、後部座席に霧画の後ろに呉林、私の後ろに安浦が乗った。霧画の甘い香水の匂いは心を落ち着かせる。まるで子供の時、甘い食べ物に優しく包まれている感じだ。安浦は極度の疲労のためにすぐに眠りについたようだ。
夜のドライブ。静寂の道路を車は走る。行き交う人々は無表情で微動だにせず、また無言である。全員、目の辺りが暗くなっていた。
私はキラーって?
「霧画さん」
私が言おうとしたら、
「そうよ。キラーは夢の世界のものよ。キラーは異界のものでもあって殺し屋として雇われているの」
まるで、いや、確かに心を読んでいるのでは?
「夢の世界と現実?」
「そう。もう現実が大部分夢の世界に沈没しているの」
「……俺のことを七番目の者っていいますが、一体? 七番目って」
「簡単に言うと、七番目の者は、狂気と神秘の狭間。でね、古代の宗教ではしばしば太陽化される頂点で、狂気すれすれの危機的な体験でもあるの」
「え??」
「赤羽さん。残念だけど、あなたはとても危険な体験をしているの」
「……気分はとてもすっきりしているんだ……幸運なのかな? 目が覚めた感じだ……頭では理解出来ないが」
運転席で霧画はふーっと、細い息を吐いてから、
「昨日、調べた夢の世界に関する古い文献の話なのだけど。また、ウロボロスの話ね。太古の大勢のシャーマンは強すぎる夢の力を抑えるために、ウロボロスの背に大樹を植えたの。大樹は世界の中心とされ、それに登ることによって、神々の世界へ儀礼的に上昇をすることが出来るの。その儀礼的上昇の力で、夢の力を抑えるようよ。そうね、蛇と木は不思議と親近性がとてもあるの」
「はあ。儀礼的って何ですか?」
蛇と木に親近感?
「簡単にいうと、儀礼的とは形式的のこと。つまり、神々の元で形だけの力を得るの。その力と、そしてウロボロスを眠らすことで夢の世界を抑えるわけ。それと、古代からの絵には、蛇の上に木が生えているものがあるのよ。私の読んだ本にもあるわ。大樹が世界の中心にあるのは、この世界が始った時、ウロボロスを封印するのにもっとも適していたからなの。つまり、その頃は南米が世界の中心だったの」
呉林が私の頭を助けてくれる。
「そして、ウロボロスをそのまま眠らせたのよ。でも、その蛇には意志があって、それで、今は悪いシャーマンがその意志を利用して(起こして)世界を滅ぼそうとしている。と、考えられるわ」
霧画は右折するために話を一旦止めて、
「ウロボロスの大樹は今でも南米にあるんですか?」
私は確認をしようとした。
「そうだと思うわ。ウロボロスの大樹は古い文献で、今でも南米にあるって示唆されているの。悪いシャーマンはウロボロスの大樹に何かしたのじゃないかしら。それと、南米のコーヒー豆もあるわ」
「姉さん。その話、メルクリウスの蛇とも関係しているのね?」
難しい話を楽に話している呉林である。
「そうよ。私も本で読んだだけだけど、それと同時にメルクリウスの蛇とも言うわ。そう両性具有の神よ」
霧画の話に、
「メルクリウスの蛇……?」
私は壮大なスケールで、頭がどうかした。さっきの不思議な力もあまり理解が出来ないので尚更だった。取り合えす南米に行って、悪いシャーマンを何とかして、夢の世界の反乱を止めれば良いだけのこと。至極単純に私はそう考えることにした。
「つまり、メルクリウスは錬金術でいう両性具有の神のこと、太陽と月の両性具有でもあるの。そう夢と現実の神。メルクリウスの蛇(ウロボロスの蛇)は地球と同じぐらいの大きな蛇で、何十億年と自分の尾を呑み込んでいて、今では小さい輪のようになっているの。それをシャーマンはその蛇を起こしてから、尾を全部丸飲みさせてしまうはず。最後に頭を殺害してしまうなどするんじゃないかしら。そうすると、当然、夢の世界と現実の世界が崩壊してしまうの。これは大変なことよ」
「……」
霧画の有難い説明は……チンプンカンプンだった。
「つ・ま・り、ウロボロスの蛇とは、メルクリウスの蛇のことを言っていて、ウロボロスは永遠回帰。そして、連続性を表しているのよ。それを崩壊させると、世界が終ると言われているわ。具体的には、その蛇が自分の尾を飲み込み終わって頭を殺すと、それは太陽と月の両性具有の神でもあるのだから、この世界は現実でもなく夢でも無くなってしまうのよ……多分だけどね。……気楽に聞いてね」
呉林が噛み砕いて説明してくれた。
私は何となく……解ったことにした。現代文の授業をもっとしていれば……。
「あ、それと現実の力って一体何ですか?」
私はチンプンカンプンの頭で再度、突入した。
「夢の世界は強力だけど、あなたの力と現実の世界も強いようよ。それは、あなたしか出来ないと思うわ。あなたは二度寝が苦手なのはそういうことなの。残念だけどみんなが出来るわけじゃないわ。そして、その私たちが普段生活している現実の世界は、実は強力な力があって、それは車にはねられたら死んでしまったりと、当たり前の力を神の力で生じさせているの。それは、簡単に言うと神の現実の行使力によって私たちは夢の世界から守られているの」
霧画の重大発言。
つまり、この世界の現実と言われているものは、神の力でそうなっていて、本当は起こり得ないものだというのだ。私は頭が……どうにかなりそうだった。
「それと、私たちの他にももう一人赤レンガの喫茶店で、コーヒーを飲んだ仲間がいると思うわ。それであなたは、恐らく七番目の人でもある」
「はあ?七番目……。俺たち以外……つまり、霧画さんも含め渡部や呉林たち以外の人もオリジナルコーヒーを飲んだんですか?」
私はこんがらがる頭で質問をした。
「そうね。私たち以外にもいるわ。そう世界中に。呪術を施されたコーヒー豆は大量にあるの」
「その中で俺が七番目……」
「そうよ。恐らく笹井さんが一番最初にコーヒー豆を貰って、今になるまで長い間温存していたのよ」
隣の席の霧画は重大なことを落ち着いて話してくれた。けれど、霧画の話はよく解らず。今度も呉林先生にお願いするべく眼差しを向ける。
「簡単に言うと、私と恵ちゃん。そして、姉さんと角田さんたちと、もう一人誰かがいて、あなたがとても危険な七番目のオリジナルコーヒーを飲んだ。そう……世界中の人たちも含めてもあなたが七番目なの」
呉林は緊張した面持ちで私を見つめながら話してくれている。
「七番目のコーヒーには、危機的な呪術が施されているわ。それは非常に危険な異界の者になってしまうということ。でも、そうはならなかった。あなたはすでに悪夢を変容する力があるのよ。つまりは、あなたは強引にこの夢の世界から起きることができる性質も持った人なの。そして、私たちが普段暮らしている現実の世界というのも不思議な力が在って、私たちが普通に暮らせられるのはその力のお陰。そして、あなたの持つ現実(太陽)の力は夢の世界を変えることが出来るの。簡単にいうと太陽神の加護を受けて助かっているというわけ」
そこまで話すと呉林はニッコリして、
「気楽に考えましょ。難しいことなのは私にもよく解るから」
「うん」
まとめると、太陽から力を授けられ、とても危険な異界の者にもなってしまうオリジナルコーヒーを克服した。
生まれつき夢から起きやすい。
ただ単に運が良かったのだろうか……。
ふと、私はサイドミラーを見た。
そこには、サイドミラーに映る遥か遠くの複数のフルフェイスのライダースーツが、土煙を撒き散らし、猛スピードでこちらに走って来るのが見えた。まるで暴走族の集団のようだ。手にはそれぞれ斧などの凶器を持っていた。
「霧画さん! 危ない! 武器を手にしたバイクの群れが近付いてくる!」
「え、この車高いのよ! 赤羽さんダッシュボードを開けて、中に銃があるわ!」
「銃ですか?」
私はダッシュボードを開けると、本当に一丁の小型拳銃があった。それは弾が6発の回転式拳銃だった。違法なものを目の当たりにしてしまった。
私は緊張した体を叱咤して銃を握る。
「赤羽さん。弾倉は三つしかないから気を付けて!」
霧画がスピードを上げて警告してきた。
後方の大勢のバイクが一斉に霧画の車に向かって迫ってくる。
「撃つぞ!」
私は助手席から外へと身を乗り出して、迫りくるフルフェイスに闇雲に撃ちまくった。(銃を撃つのは刑務所以来だ)何台もフルフェイスが倒れ地面に激突するが、相手はフルフェイスのヘルメットなので表情が見えない。弾丸が無くなったら素早くリロードをし、無我夢中で撃つ。
しかし、フルフェイスは多勢だった。
そのうちの一人が猛スピードの車を追い抜き、先頭で牽制をしてしまった。
これでは車が動けそうもない。
車の両脇にもフルフェイスたちが迫り斧やバットを一斉に振り下ろしに来た。
「きゃあ!」
後部座席の両方のガラスがハデに割れて、呉林と霧画が悲鳴を上げた。安浦が目を覚ます。
私は破れかぶれで一人を撃った。私側の一番近い奴だ。
四発も撃った。何とか一発が命中したようだ。フルフェイスは遥か後方へと転がりながら消えて行った。
発砲の轟音で車内の呉林たちが目を白黒させる。安浦は悲鳴を上げた。
もう一人、そいつは安浦側にいる奴だ。再度、斧を振り下ろそうとしているので、私は上半身だけ車の外へと出し、今度は2発打ち込む。
強風で狙いが定まらない。一発が奇跡的にフルフェイスの胸に命中してくれたようだ。フルフェイスはバイクから横倒れになり、アスファルトの地面に激突する。
両脇のフルフェイスはまだ大勢いるのだが、銃の弾を撃ち尽くしてしまった。
私は不思議な力を使おうと銃を車の中へと捨てた。周りを獲物に群がるピラニアのように囲んでいるフルフェイスたちに力を発し続けた。フルフェイスたちのヘルメットが首ごと吹っ飛び全身から血が吹き上がる。
いつしか、前方の車を牽制しているバイクだけになった。
そのフルフェイスは斧ではなくダイナマイトのようなものを片手に持っていた。私は冷や汗を流し不思議な力へと意識を集中して、前方のフルフェイスへと向けようとしたが、正面からくる風圧と猛スピードでの走行の中で狙いが定まらない。霧画が車のスピードを上げる。
すると、霧画が以外な行動をする。更にスピードを上げたのだ。
猛スピードの車体にガシャンという派手な音と衝撃が走る。前を走っているフルフェイスがどこかへと消えた。私はというと、車体に体を必死に固定させていた。ダイナマイトのようなものは遥か後方で大爆発をした。
「ひっどーい。車がおシャカになったわ」
自分でぶつけといて霧画はがっくりした。
「赤羽さん……」
呉林は何分も私の顔を見ていた。
映画のようなカーチェイスのような体験まで私はしてしまった。これは現実なのだろうかと何度も疑問が過るが答えはでない。
赤い月は遥か地平線へと姿を消し、朝日が昇る。その光は渋谷の街を淡く包んだ。こんな体験をした後の朝日は生きているという実感をさせるには、絶好の光だった。悪い悪夢は今のところ消え去ったと思う。
「朝日が奇麗ね。姉さん車の修理費は大丈夫なの……」
呉林が全身の力を抜いて言葉を放つ。
「ええ。それとローンもまだあるわ」
呉林姉妹の受難は続く……。