赤い月
ひたすら歩いていると、しばらくして呉林は目を開けた。どうやら気絶をしていたようだ。
「赤羽さん。キラーもやっつけたのね」
呉林の目に涙が浮かぶ。
「ああ。俺っていったい……。なんなんだ。この力は」
「七番目って、確か。古代の宗教で太陽化の体験を意味しているみたい」
「……。七番目?」
「ええ。お姉さんの方が詳しいわ」
「ここは現実なのか?」
私は黒くなっている呉林に聞いた。
「そうよ。でも、違うの。夢に似た世界。あのね、夢の力が強すぎて現実を歪めているのよ。だから、これは夢の反乱……。もう少し経つと世界中の現実が破壊されて大惨事になるわ。でも、あなたがいれば大丈夫のはずよ……」
呉林は私の口にキスをした。
黒くなっている呉林は美人なんだが……生まれて初めてのキスは苦い味だった。
私は顔と頭に体中の血液が集まり、まともに呉林の顔が見えなくなった。
そういえば、安浦を探しているんだった。
「安浦はどこにいるんだ……」
私は血が上った頭で照れ隠しをしようと、すかさず真面目に尋ねる。
「そうね。ええと……」
呉林の黒く煤ぼけた顔がみるみる青くなりだした。
「え、ずっと奥の方で逃げ惑っているわ……?」
「なんだって?」
私たちは数百メートル先で動くものを肉眼で捉えた。
安浦だろうか?
「俺一人で行くから!」
私は自分の不思議な力で何とか出来ると実感していた。当然、自信もつく。
「解ったわ。気を付けて」
私は半ば勇み足で進んで、すぐに駆け足となる。目で捉えたのは安浦だった。
床がなくなり、代わりに濁水が満ち満ちている。水は腰まであり、かなり深いところもありそうだった。
安浦は何かからじゃぶじゃぶと逃げ惑っていた。
私は水面の床にザブンと入り、安浦の元へと急いで歩き出す。水はかなり濁っていて、生ぬるくねっとりと私の足が先に進むのを妨害していた。
「ご主人様! 来ちゃダメ!」
散々、逃げ惑い疲れている顔で私に気付いた安浦は。怯えた目線をこっちに向けている。
「どうしたんだ?」
私は安浦が何から逃げているのか辺りを見回したが、何もない。この水の溢れそうな通路には、可愛らしい外行きの服、上半身もびしょびしょの安浦しかいない。
「水の底にいるの! 変な化け物! だから、来ちゃダメ!」
安浦は涙声で叫んだ。
突然、安浦と私の間に何かが浮き上がった。目を凝らすと赤い血で出来た大きな塊を捉える。巨大なナメクジのようなものだった。
私はこの物体もキラーなのではと思うが早いか、
「この野郎!」
飛蹴りを放った。
ぐっしゃりとした感触ではなく、以外と硬い感触を覚える。次に素手で殴るが今度はぶよぶよとした感触だった。いずれも、巨大なナメクジはビクともせず。安浦へと向かっていく。
「はっ!」
私は巨大なナメクジに左手をかざして、その巨体を宙に浮かした。
何とも言えない。おぞましい姿が宙に浮いた。歯の光る口と目玉だけが到る所に無数にあり、それらが全て動いている。口は開閉を繰り返し目玉はぎょろぎょろとしていた。
「きゃあ! ご主人様逃げてー!」
安浦は私の不思議な力を気付いていない。私に向かって振り絞るような悲鳴をあげた。
私はナメクジをそのまま宙に浮かしておいて、安浦の元へと濁水を搔き分けながら進み、安浦の震える手をしっかりと取った。
安浦はボコボコの私の胸に顔を押し当てながら泣きだした。
「安浦。もう行こう」
泣き崩れそうな安浦の頭を撫でながら、私は水浸しになった安浦と共に呉林のところへと戻る。……巨大なナメクジはその後、恐ろしく肉塊が歪み破裂した。.
ぬかるみの中をさんざん走り回ってずぶ濡れになった安浦と、怪我が自然に回復してきた私は、呉林のところまでやって来た。
「ご主人様? その体の傷はどうしたんですか。心配です」
疲れを隠して安浦が心配してくれている。
「ああ。ちょっとな。でも痛みとかは全然無いんだ。回復しているし……それより安浦は大丈夫か? 俺が抱えようか?」
「あたしは平気です。……もうご主人様が戦うのは嫌! こんな世界は嫌い!」
安浦は心配の籠った泣き声を通路に放つ。
「でも、しょうがないさ。きっと、南米に行けば色々と良くなるさ」
私の体はもう痛みがない上に、ピンピンしている。不思議な感じだった。何か、こう、生まれ変わった感じだった。
煤ぼけた顔をハンカチで拭いた呉林は、疲れてずぶ濡れの安浦と私に、
「二人ともなんとか無事のようね。残念だけど、まだここは危険よ。油断しないで戻りましょう」
呉林は何かに警戒しているように背筋を伸ばして、きびきびと歩きだした。まるでとても警戒している黒豹のようだ。地味なスーツはところどころ煤ぼけていた。
私たち三人は元来た道を歩きながら、
「赤羽さん。精神や体の方の感じはどう。まだ、七番目の者に覚醒したてだから安定してないかもしれないけど。それと、恵ちゃんの方は疲労が心配ね」
呉林は、安浦に心配の眼差しを向けたが、さっきの安浦の救出を超能力的直観で知って
いるかのようだ。今では胸をときめかせて信じられないものを見るような顔で私を見てい
る。
「安定しているかは解らないけれど、悪い感じはしない。それと、七番目の者って何?」
「それは、姉さんの所へ行ったら話すわ。それと、恵ちゃん……疲れているだろうけど、お姉さんの車まで我慢してね」
私は非現実の世界で、自分の中のもっと非現実なことを実感したが、不思議とあまり気にしなかった。普通というか平常心というか……。今でも信じられないが。
「ご主人様。さっきナメクジを宙に浮かせた。どんなことしたの?」
疲労を隠せなくなった安浦は、さっきの事をうまく呑み込めていないが、言葉では絶対に言えない不思議な空気の流れは感知したようだ。
「解らない。体も精神も、まるで俺じゃない別の人間が俺の中にいて、そいつが何か叫んでいるようなんだ。でも、やっぱり悪い感じはしない。それと……怪我がほとんど治ってきているみたいなんだ」
私はその時、安浦は何時間もあのナメクジから逃げ回っていたのだろうかと思った。
「でも、凄いわ。これで世界は救われるはずよ。未だに私でも信じ切れないけれど……。私……あなたが好きよ……」
「え?」
爽やかな風が吹いた。……心の中に。私はこの世界から抜け出せれば、きっと呉林とうまくいくとこの時……確心した。
「駄目―! 真理ちゃん! ご主人様はあたしと結婚するの!」
「それはどうかしら?」
二人は喧嘩しそうだったが、元々仲がとてもいいようで睨めっこをしただけだった。そういえば、安浦はいつも一人ぼっちだと言っていたが、それは過去の話で、呉林に会う前だったのだろう。
「あ、呉林。キラーって確か殺し屋のことだよな? 俺たちを殺すために誰かが雇ったのか?」
私は背筋が冷たくなるのを何とか我慢して、呉林の顔を見る。
「うーん。私たちは何度も夢の世界から生存しているから……。なのかな。ごめんなさい。今は何とも言えないわ」
呉林はそういうと、考えるため。私の視線を避けるように顔を鬱向かせて、ぶつぶつと独り言を言い出した。
「キラーって、あの巨大なナメクジ?あたしたちが誰かに狙われているとしたら……。どうしよう」
安浦はびしょびしょの服装で決して寒さからではない震えをした。
「キラーか……」
私は安浦の肩に手を置いて、自分の不思議な力で、キラーやその雇い主を何とか出来ればと切に思った。