赤い月
何本も歯が折れたようだ。腹の中の蕎麦はとっくに吐いた。血を吐くまでのリンチが止まった。何十人と戦ったのだろうか。渡部は数分前に蹲った。私は血だらけの体をコンクリートから引き剥がして、立ち上がり、ボコボコになった顔で、安浦の入った洋服店を見つめていた。
安浦は無事だろうか……。
口の中が鉄臭い。体の到る所がズキズキする。けれども、歩きだす。安浦の入った洋服店へ。
洋服店が突如明々とし、炎上する。建物の到るところから炎が顔を出した。
私は茫然と立ち尽くした。
「安浦……」
私はぱつりと言った。涙が滲みでる。頭の中が真っ白になる。
「赤羽さん。……諦めないで下さい」
蹲った渡部の弱い声が耳に入る。
「きっと、安浦さんは無事です……」
渡部はそういうと、力なく血を吐く。
「解った」
私は最後の力を振り絞り、安浦の入った洋服店へと歩きだした。
煙る店内は広く。店の中央にある受付を中心に洋服が所狭しと、陳列されていて、奥の方にコンクリート製の階段が二階と地下に繋がっている。炎が散りばめられて、煙が視界を遮る。
一度も買ったことのないような高級そうな服が、原型を辛うじて持たせているが燃えている。
私は炎による熱で、汗をかいた。
二階は男子トイレ、地階は女子トイレがあるようで、私は地階にゆっくりと降り出した。
地下は一階と逆に仄暗かった。炎はここまでは来ていないようで、造りは一回とだいたい同じようだ。中央に受付があった。
照明に手を伸ばし何回かスイッチを押すが、点かなかった。女子トイレは奥の方。私は噛みつかれて、出血をしている左手で額の汗を拭う。
ゆっくり、歩く。
一階が騒がしくなった。
女子トイレのドアをやはり一度、ノックする。
「安浦?いるのか?大丈夫か?」
私は酷い痛みの右手は避けて、左手でドアを開ける。
女子トイレは真っ暗だった。私はそれでも奥へと歩きだした。さすがに使用中ということはないはずだ。
何が起きたのか。痛む頭で考えたが、結論はすぐそこ……。
一つ二つとドアを開け、中を緊急時よろしく覗く。多少の罪悪感が募ったが、私は安浦のことだけを考える。
「誰?」
安浦の声がした。もっと奥だ。
打ちっ放しのコンクリートの女子トイレだった。冷たい風にあたるかのように冷やりとしている。
「ご主人様」
安浦の声に応えてやりたいのだが、何故だか怖くなった。
私は一番奥の女子トイレのドアを開け放った。
「きゃあ!」
見ると、暗い一室の中に安浦と同じ格好のマネキン人形が洋式のトイレに座っていた。
「安浦!」
私はさんざ血反吐を吐いた口で叫んだ。
まるで、これはたちの悪すぎる悪戯のように思えた。
「赤羽さん! 聞こえる! 返事して!」
呉林の声がコンクリートに響く。
「呉林! 頼むから安浦の居場所を教えてくれ!」
私は返事をする変わりに叫んだ。
走りだす足音がすると、呉林らしい人物がやってきた。
「恵ちゃんがどうしたの。あ、いないのね」
私は今度こそ本物の呉林だと思い。力いっぱい振り返る。
そこには、地味なスーツ姿の呉林が立っていた。どうやら、銀座で仕事をしていたようだ。
「怪我が酷い。体がボロボロよ、本当に大丈夫?」
呉林の心配そうな声はコンクリートに吸収されそうだった。私の顔を覗き込む。
「渡部は? 無事か?」
「ええ。私と同じく仕事をほっぽりだしたお姉さんの車の中よ。外の人たちも動かなくなったようよ。恵ちゃんはどこか遠いところにいるみたいね」
「え、なんで?」
私は全身に張り巡らせた痛みを感じなくなるほど驚いた。
「そう。その窓の向こう」
呉林が指差したところは、女子トイレの奥にぽっかりと開いた、普通はあるはずの無い窓だった。ここは地下だ。
「ここは地下のはずじゃ」
「でも、これがねじ曲がっているけど、現実なのよ」
私は呉林のどんなことにも物怖じしない冷静な人格に顔が火照りそうになる。こんな世界でもやっぱり頼りになる。
「この窓の向こうに行くしかないか」
私は照れ隠しに真面目な顔を意識して作った。
私は左手で打ちっ放しのコンクリートを触る。ヒンヤリとした感触は紛れもなく現実だった。
「待って、怪我の治療をしてから行きましょ。多分、それからでも遅くはないわ」
呉林の親友をも思う気持ち、そして冷静な判断には眩暈がするほどだが、
「いや、今すぐ行こう。大丈夫だ」
「無理よ! この先も危険よ! 私の姉さんは応急処置ができるのよ。後、私も。大学で資格を持っているの」
呉林は私の肩に手を置いた。
私は頭を振って、
「そんなことをしても、絶対落ち着けないさ! 今はこの興奮と怒りが体を勝手に動かすのを黙って見ているしかない!」
私は呉林の手を振り払い。窓を潜る。
窓の向こうは、相変わらずの打ちっ放しのコンクリートで、延々と続く通路となっていた。50メートル間隔で、女子トイレと同じく木製のドアが左側に幾つもある。まるで、女子トイレの延長線だった。
「待って、赤羽さん」
呉林もやってきた。スーツのポケットから何かを取り出した。手には赤い色の手紙が握られていた。
「私も行くわ」
しばらくして、呉林は何かを決心したように言い放つ。
「あのね。赤羽さん。これ、姉さんからの手紙。これからあなたは信じられない事をするの」
「なんだそれ。俺が信じられないことって……?」
私は呉林から手紙を受け取った。
しかし、暗くて読めない。壁や床のコンクリートは外からの光をかなり遮断している。天井には蛍光灯もない。
「ここは。女子トイレの延長線のようよ。でも、照明は無いみたい。手紙は読めなくても、赤羽さんのお守りにしてね。きっと、役に立つわ」
呉林は私の疑問の眼差しをにっこり笑って無視した。この手紙の内容を知っていないようだが、例の不思議な直観でこれからの事を知っているようだった。
「これから、何が起きるんだ」
私は暗い通路の終わりが見えてきて、
「更に地階があるようだ。見てくれ、下に行く階段があった」
「……何か感じる。とても凄いことが起きるわ」
私たちは地階へと続く階段を降りて行った。
地階へ、更に地階へ。
殺風景な女子トイレの延長。連続する木製のドア。この世界の恐ろしいところだ。
「あ、天井が」
呉林の言う通り、天井がなくなり、代わりに赤い、巨大な満月が顔をだした。もうここが地の底の深くとは思わない方がいいようだ。
相変らずコンクリートは前方へと続いていて、木製のドアも無数にある。変わったのは天井がない吹き抜けになったこと。
「あれは?」
私は前方の一つの木製のドアが開いているのを、発見。近ずこうとすると呉林が私の痛む右手を引っ張った。
「待って。何か変よ」
「変って……。何がさ。中に安浦がいるかも知れない」
私は呉林の手をしかめた顔で振り払い。開いているドアへと歩きだした。
「あ、待って赤羽さん! ……信じられない、これは罠よ!」
呉林がそういうが早いか、二メートルはある大きな巨体が前方の開いている木製のドアを破壊して現れた。
私は驚いて腰を抜かした。
見ると、その巨体は溶接用の面を付け、右手が給油ノズルになっている。鉄製のエプロン。背中に何かの液体が入ったタンクを背負っていた。
「赤羽さん! そいつはキラーよ! つまり、殺し屋!」
「え!? なんだって!?」
巨体が私の方へとゆっくりと歩く。私は力の抜けた腰を痛む足で何とか立てるようにしていた。呉林が私を起こそうと奮闘する。
「お願い立って赤羽さん!」
私は事態を飲み込む前にすでに恐怖を味わっているので、体は不都合の方へと反応してしまう。呉林と私の奮闘の結果、何とか立ち上がった。
キラーが給油口ノズルから何かの液体を吹っかけてきた。こちらに浴びせられるのを私たちは必死で交わした。
辺りにガソリンの臭いが広がる。
私たちは元来たところへと走りだす。
「赤羽さん! 早くお姉さんの手紙を読んで! お願い! 今は月の明かりで読めるはずよ!」
呉林は茶色いソフトソバージュを振り乱し懇願した。
「ひっ!」
私は手紙を読めるほど、精神が安定していない。勿論、原因は言葉に表せられない恐怖だ。滅茶苦茶に走っていると、階段が現れた。
「上へ行きましょ!」
呉林の声に悲鳴をあげる体で上を見た拍子に、走っていたので、階段の段差で私は派手に転んだ。
「痛ってて! 早く逃げないと!」
少し上の段にいた呉林が駆けてくる。
「赤羽さん!」
呉林の方を見るより、私は後ろを振り向いた。
キラーが走って近づいて来ていた。
何も言わないキラーは、再度ガソリンをぶちまける。今度は、除けられずに嫌と言うほどガソリンを二人で浴びる。
キラーは給油口ノズルとは反対の手をポケットに突っ込んだ。ライターが出る。
「赤羽さん!」
呉林は蹲った私に体当たりをして、私を1メートル近く横に弾き飛ばす。
私は勢いよく飛ばされたが何とか力一杯立ち上がる。精神の高揚の成せる業だった。
「そんな! ……呉林!」
このままでは呉林がやられる。私は意識を極力束ねて霧画の手紙を開けようとした。
キラーの給油口ノズルに近づいたライターから、炎がでる。ノズルから出る液体は炎をまとい呉林に浴びせられた。
「きゃあ!」
肉の焼ける臭いがしそうな光景を目の当たりにして、私は手紙の内容を頭の中で絶叫し
た。
「起きて、赤羽さん! あなたなら出来るはずよ! この世界は夢の世界! つまり虚構の世界なのよ! あなたならこの世界でも覚醒できるはず!」
私の頭はその言葉を理解できなかった。
頭に何か響いてくる。それは、誰かの声か?それとも叫びか?いや違う、自分の声が体の中から聞こえる。それは叫び?
「…………」
何も解らない。けれど、自然と体が動く。
痛みが遠くなった片手を上げ、炎で燃え上がる呉林に向ける。
炎が突風に当たったように吹っ飛んだ。
キラーは傷ついたような反応をした。私は呉林のところへ駆け込み、体を両手で抱える。
「大丈夫そうだ。少し黒くなっているだけ」
私はそう自分に言い聞かせる。呉林はピクリともしていなかった。
「お前は絶対に殺す!」
私は呉林を地面に横たえる。キラーとの距離は、せいぜい2メートル半だ。キラーがノズルを私に向ける。
私は再度、自然に片手を相手に向けた。キラーのノズルから出たガソリンは見えない壁にぶち当たったかのように、キラーに向かう。
キラーはそれでもガソリンをぶちまけるので、体をガソリンでびしょびしょにしている。そして、鼻を覆いたくなるような揮発臭が通路全体に広がった。
ライターを取り出したキラーは何も考えていないのか、ノズルに点火した。
キラーが火だるまになり、辺りは轟々と赤い明るさで照らされる。
溶接用の面に赤い月が映った……。
私は呉林を再度、両手で抱え、炎に包まれているキラーを除けて、奥へと歩きだした。不思議と痣だらけの体からの痛みは無い。