壊れる現実
せんべいを一人で食べつくした安浦を家に帰らせてから、一人で帰ることにした。
次の日、その日に起きた作業員の死は……ニュースで何も取り上げられなかった。
何かの儀式の最中のようだった。
「ウロボロスか、長い長い年月。わしは探した。そして生贄を捧げた。だがまだまだじゃな……。何百人と生贄を捧げるも今だに尾が残る。やはり……」
カルダが苦悶の表情で俯いて目を瞬いた。
「もう少しだ。もう少し……」
私の意識が入ったルゥーダーは、そんな母を羨ましく思っていた。
7月?日
翌日、大学を休んでいる安浦が早朝、アパートのチャイムを鳴らしてきた。
「おはようございます! ご主人様!」
寝ぼけ眼でドアを開けると、何やらごっちゃりしている黒の上下の服装の安浦が、勝手に上がり込み、キッチンへと向かう。両手には色々な食材が入った袋を持っていた。
私は南米にどうやったら行けるのかと、考えながら株式会社セレスへと出勤する事にな
っている。谷川さんではないので、二・三週間くらいの休日が取れなくなったのだ。
そして、一連の危険な夢に終止符を打つために、どうしても、はるばる南米まで行かな
ければならなかった。
角田や渡部もだが昨日の夜に呉林が連絡したようだ。
安浦はこれから? 私の身の回りを手伝ってくれるようだが?
「安浦はどうやって、南米に行くか考えたか」
私はキッチンで、この上なくニコニコしている安浦に声を大きくして尋ねた。
「お金を貯めて……飛行機で行くのはどうでしょうか。一緒に頑張りましょう。ご主人様。あたしもバイトをします。家事や洗濯、家の掃除、頑張ります。二人で南米に行きましょう。ご主人様はお仕事、頑張って下さい!」
笑顔でガッツポーズをされても……困るんですけど……。私には呉林がいるのだ。
こうして、私と安浦は仲間二人三脚で、南米に向かうための準備をするのだった。あれ、何か変だぞ……。
セレスに向かう途中、上村に出会った。
「何だかんだ言って、あの日から仕事に来てるね。いったい何で休んでいたんだ」
上村の禿頭が光る。
「いや、ちょっと数日休まなきゃならないことが起きたんだ。理由は御免。話せないんだ。悪いが休暇の理由は聞かないでほしい」
よもや、夢で死にそうになっているなんて、どうしても言えない。信じられる人間は、やはり、同じ体験をした人だけだろう。
「そうか。ま、時には休みたくなる時って、あるからな。明日は祝日で休みだが」
上村の頭が優しく仄かに光った。
セレスでの仕事だけで、何とかなるのだろうか? 南米に一日でも早く行ったほうが……私はペットボトルの最終目視検査をしながら考えていた。
けれど、南米に行って何をすればいいのだろう。コーヒーに呪いか何かをかけているシャーマンに出会って、やめてくれと懇願でもすればいいのだろうか。
「どうしたんだ。顔色が青いぞ。今になって調子が悪いなんて言うなよな」
上村の心配な声色。私は青い顔をしていたようだ。
「いえ、大丈夫」
私はそういうと、色々と考えている不安な自分を頭から追い出した。
その日は残業だった。帰路でとぼとぼと大通りを歩くと。いかにも高級そうな自動車が私の前で停まった。雑誌で見たことがある赤いフェラーリのようだ。
「赤羽さん。大丈夫?」
見ると、呉林の姉の霧画だった。
「安浦さんから連絡がきて、ご主人様の帰りが遅いって聞いて」
霧画はそう言うと目をぱちくりした。
「なんだ残業か何かだったの。でも、あまり根詰めないでね」
私はいらぬ心配をさせてしまったようだ。確かに今のねじ曲がった現実ではいつ襲わ
れるか解らないではないか。
「すいません。いらない心配をかけてしまいました」
「はあ。よかった。あなたはこの現象を何とか出来る力があるのよ。もし何かあったら、世界は崩壊してしまうのよ」
霧画は本当に心配しているようだった。……あの……私が世界を救うと言っているんですけど……。
「乗って」
「はい」
私は逆らわずに車に乗った。呉林姉妹には逆らえない何かがあるようだ。
居心地の良い体に座席の皮がフィットする助手席に座ると、昨日の晩の話をしてくれた。
私の隣、運転席に座っている人は相変わらずの凄い美人だった。
「あの。異界の者って、俺の職場にもいるんですか」
「異界の者はどこにでもいるわ。でも、もっと恐ろしい事があるわ。それは異界の者やコーヒーに呪術を施しているシャーマンも怖くて危険だけど、夢のバランスが崩れる方がもっと恐ろしいのよ。そのせいで現実が侵食されているの」
「夢のバランス?」
車は大通りではなく、人気のない裏道を通る。暗い夜道を前照灯を上向きで駆ける。少し開いている車窓からの夜風がとても気持ちいい。
「ええ。今まで世界が生まれてから人類は夢や無意識と現実を、コンペイセイト(compensate)つまり、シーソーの様にバランスをとっていたけど、人間が意識や理性を近代化する過程で強くしていくにつれ、それが難しくなってきているの。それと……」
霧画は軽くこちらにウインクをして、
「ここからは私の仮説なのだけど、……ウロボロス。ウロボロスとはこの世界と別の世界……夢の世界ね。それを統括しているいわば怪物で、その姿は、とてつもなく巨大な蛇なの。そしてその蛇は自らの尾を噛んで円になっているわ。同時にメルクリウスの蛇とも呼ばれ、太陽と月の両性具有の神でもあり、簡単に言うと現実の世界と夢の世界を統括しているの。その怪物はこの世界に今も棲息しているはず。何十億年と太古のシャーマンらによって、ウロボロスという怪物の力で夢と現実のバランスを何とかとっていたの。けれど、夢や無意識の力は物凄いのよ。魔法やお伽話の世界のような夢の世界を、恐らく今のシャーマンはその物凄い力を何らかの良くない方法で、解放しようとしているのだと思うわ。そのためシーソーのバランスは甚はなだしく崩れて、夢の世界が現実も歪めてしまっているのだと思うの」
私は正直……何を言っているのか解らなかった。無意識って何。突拍子もなくて現実的ではないので、理解することが難しかった。高校の数学の難解な授業をしていた栗本先生の話の方が遥かに解りやすかった。
「無意識とは、簡単に言うと意識できない世界よ。赤羽さんや他の人、全人類が持っているいわばもう一つの世界ね。誰も知らない世界なの。そう、裏の世界。もう一つの地球ね。それが良くない方法を使っているシャーマンの呪術で力を解放されて……もっと簡単に言うと、私たち、いえ、全人類は今も夢を見ているのかも知れないわ。全人類が眠っていて巨大な夢を見ているのよ」
霧画はしょうがないといった顔で、私のために解りやすく噛み砕いて言ってくれた。
「では、全人類がコーヒーを飲んでいるんですか」
「その通りよ。でも違うわ。呪術入りのコーヒーを飲んでない人も、何かの拍子でこの世界へと迷い込んでいるの。コーヒーを飲んでいない人でも夢を見るでしょ。なので、ベットからこちらの世界へと来ているの。また、夢の世界は宇宙と同じくらい大きいの。それと、そこでコーヒーを飲んだ人と出会ったりするとその夢の世界で住むようになるわ」
私はこの途方もない話を聞いて、とにかく取り返しのつかない事態なのだと単純に考えた。現実感がないと、それが何であれ信じることが難しいというのが現代人なのだろう。
私はこの夢の世界で何をしたらいいのか、途方に暮れる。霧画や呉林が教えてくれることを実際にすればよいのだろう。しかし、混乱し半信半疑のような状態では、力が十分にだせないだろう。それと、現実感がないとどんな判断も出来なくなりそうだった。
対向車がそそくさと通り過ぎた。信号はいずれも青だった。
「赤羽さん。そう深刻にならないで。ようするに南米に行ってシャーマンを何とかすればいいのよ」
「具体的に何をすればいいんですか?」
「そうね。シャーマンを説得したり、後、拷問もいいかも知れないわ」
私は笑った。気持ちを切り替え笑うしかない。
「南米へ何とかして行かないと……」
「その息よ。一緒に頑張りましょう。でも、あまり根詰めて考えないでね。心のバランスに気を付けないと。リラックスも必要よ」
「はい」
私は頭に力が戻ってきた。混乱していた神経回路は、今は生き生きと活動する。
「後、真理をよろしくね。弟さん」
「あ……はい!」
私は神経回路がさらに生き生きと、そして高揚した。
20時15分。
霧画に送ってもらい礼を言った。彼女は依頼がまだあるからとどこかへと車を走らせた。
霧の濃い深夜で、物静かになっている空間にどっぷりして考え事をしていると、
「ご主人様!」
安浦がドアを開けると、飛び出してきた。
「心配しましたよ」
「ああ。悪かった」
私は嬉し恥ずかし……少し鬱陶しい。
「もう。ご主人様に何かあったら、あたし」
安浦は涙目になっている。
「ああ。大丈夫さ。ただ単の残業だったんだ」
その途端、安浦はパッと顔を輝かせ、
「危険な戦いじゃなくて、残業だったのですか?」
「ああ」
「それならそうと……連絡」
「ああ……御免」
夕食はまた豪勢だった。安浦は夕食を待ってくれたようで、一緒に食べることになった。何を隠そう私は霧画に無理を言って、長椅子をもう一つ買って来たのだ。
これで、安浦の件は何とかなった。
「ご主人様。南米で何をするんですか」
安浦は大き目のハンバーグのフォーク片手に尋ねた。
「それが、霧画や呉林も解らないようなんだ。俺もどうなるのか解らない。でも、呉林姉妹の言う通りに南米に行かないといけないんだ。この世界を何とかするために」
安浦は目を輝かせ、
「さっすがご主人様! あたし、ご主人様と結婚する! 世界を救うヒーローと結婚! 結婚! 結婚! 結婚よ!」
「は?」
私はどうしていいかうろたえる。安浦はとても嬉しいのか結婚を力いっぱい言い続ける。けれど、私は呉林が今でも好きだ。
……食事は楽しかった。安浦は終始ご機嫌になり、私は料理の素晴らしさを噛み締める。
「明日はどうするんですか?」
玄関越しに安浦は聞いてきた。
「明日は休みだ」
安浦は大はしゃぎで喜び、
「じゃあ。……デート……お願い」
最後は尻つぼみになる。
「解ったよ。おやすみ安浦」
私は食事のお礼ということで承諾した。