壊れる現実
遠くのスチール製の階段を猛スピードで走る音が、ドアの開いたこの部屋に響く。
私は意を決して傍に来た安浦を押しのけ、ドアへと走る。
私は向こう側へと、開け放たれたドアを閉めようとした。目の辺りが黒い作業員が目の前に迫っていた。
ツルハシが私がドアを閉めようとした手に振り下ろされる。
それは、少し抉るように右手に突き刺さる。信じられない激痛が手から脳に走った。
私はドアを閉められず、片方の手で傘置きから傘を持ち出し応戦する。
安浦は悲鳴を上げる。
高校の時に塙先生から嫌々勧められた剣道が、こんな時に必死に思い出された。
私は剣道のように集中して血が滴る右手と傘を持った左手、ドア付近で正中線を傘で構えて……相手がツルハシを振り上げる。
部屋の奥には震えている安浦がいる。
私は咄嗟に相手の喉笛に突きを放った。
グサッという音が耳に入る。
その傘は399円で買える先端が針のように尖っているタイプだった。相手は喉を押さえて倒れ込んだ。血で喉の辺りが真っ赤だった。
「ご主人様!」
安浦は信じられない。と、いった顔で倒れた作業員のところに行った。
即死のようだ。私の咄嗟の事で恐怖で圧迫された頭に正当防衛という言葉が浮かんだ。
「大丈夫だ。多分、正当防衛ってことになるさ……。呉林に会いに行こう……」
呉林の家は思いの外近くにあるようだ。私の家の四軒隣だ。
それはほとんど緑色の家で、どこにでもありそうな家だった。
ピンポーンと鳴らす。
「赤羽さん。怪我は大丈夫?あ、恵ちゃんに手当してもらったのね。今、旅行から帰ったお姉さんと今後のことを話していたの」
いつもの?呉林に出会って、私と安浦は安心した。
「呉林。あの……ゴルフ場は酷かったな……」
私はさすがにこれ以上なく悪夢が嫌になっていた。
「いいのよ、そんなこと。だって、運命でしょ。それより、ありがとう。みんな助かったのはあなたのお陰よ」
呉林はにっこりした。
「俺は……何もしていない」
「そんなことはないわ。現にみんな生きているじゃない。謙遜と一人で突っ走りすぎだわ」
呉林は頭を下げている私の肩にそっと手を置いた。
「中に入って」
「ありがとう……」
私はどうしようもなく泣きたい気分にり、目が赤くなるのをそのままにした。
呉林の家に上がると、旅行から帰った呉林の姉は、やはり美人だった。茶色い髪は腰までゆったりとしていて、切れ長の目は紫のアイシャドウで彩られている。スラリとしているが、なかなかに立派なバストをしていた。年は私より上のようだ。恐らくは28歳。和服が似会いそうな美人だった。
「あなたが赤羽さんね。私は霧画初めまして」
挨拶を手短にして、居間に通されると、立ったままで対応する。
「初めまして、お疲れのところどうもすいません。お邪魔します」
「あ、座って下さい。真理。お茶を」
あの呉林が、お茶を作りに立ち上がるなんて、私はかなりびっくりした。
居間は和室になっていて、床の間には高価そうな壺がぽつんと置いてある。4人が中央の龍がところどころ掘られた木製のテーブルを囲めるように、それぞれ正座をするかたちになった。
呉林はお茶を人数分持ってくると、
「姉さん。あの赤レンガの喫茶店の店主と知り合いだったのよね。そのことを二人に話して頂戴」
私は驚いた。
「ええ。私の昔の依頼人なの」
「あ。姉さんも呪い師よ。……うちの家族全員呪い師だけど……。両親はやっぱり旅行中なの」
呉林の不思議な力を家族で持っているなんて信じられなかった。私は頭が浮いてくるような感覚に襲われる。
呉林の姉は慎重に言葉を噤む。
「あの店主は笹井さんっていう名なのだけど、昔から世界各地でコーヒー豆を採取しているのよ。それでその頃、私にコーヒー豆で不思議なものを手に入れたからと、相談してきたのよ」
「不思議なコーヒー豆ですか?」
私は一連の夢が治るのではと期待に胸躍る。
「ええ。なんでも。南米で呪術に使用されているコーヒー豆を、ただで大量に貰ったそうなの。後、うちは守秘義務が弱いの。依頼人もそれは承知の上よ」
「呪術に使う……」
私は一瞬、訝しんだが現実に身に覚えがありすぎて、呪術をすんなりと受け入れることにした。安浦はテーブルの上のせんべいを吟味していた。
「そうなの。それで、姉さんは危険を察知して、販売はしないほうがいいって」
呉林は青い顔をしていた。
「その呪術に使われているコーヒー豆が、あのオリジナルコーヒーだったって訳ですね」
私は結論を早めた。
「そうね。私も飲んだから間違いはないわ」
「え?」
私は呉林の姉の顔をまじまじと見た。
「だって、飲んでみないと私の能力では解らないのよ」
この人は、間違いなく呉林の姉だった……。
「でも、不思議な体験は一度もしてないわ」
「そうなのよ。姉さんには抗体があるのかも」
呉林姉妹は不思議がったが、
「何時頃飲んだんですか?」
「かなり前、あなたたちが飲む前よ」
私はそれも何らかの不思議な能力のせいなのではと考えることにした。私にも不思議な能力があれば、あんな恐ろしい体験をせずに今でも普通に暮らせられるのに……。
「ぶしつけですが。これから、俺たちはどうしたら、この一連の夢が無くなるんですか」
私は妬みの気持ちを声には出さないようにした。
「恐らく、南米ではコーヒー豆を今でも何かの呪術に使っているわ。そこで、その呪術を取り仕切っているシャーマンをどうにかすれば」
「治るんですね!」
私は自然と喜びを声に出した。
「そうね。きっと、治ると思うわ……」
霧画は頷くようで俯くような感じで答えた。
「あ、それと赤羽さん。異界の者とまた戦って勝ったのね。すごいわ!」
「異界の者? あの作業員のことか?」
私は恐ろしい作業員との激闘を指摘され、恐怖がまざまざと蘇る。
「異界のものは本来は人間だけど、現実の世界と夢の世界で、何らかの事象で挟まってしまって、この世でもあちらでも、とても苦しくて理性を失ってしまっているの。決まって、大抵は危険な行動をしてくるわ。そして、例えどちらかの世界で、死んだとしても、また復活をするの。本体の人間は無事だから」
「本体の人間って、どこにいるの姉さん?私は本でしか読んだことがないのでよく解らないのよ」
呉林は真剣な顔で聞いている。
「解らないわ私でも。でも、何か感じるものがあって、それが言葉では現せられない結論へと私を導いてくれているの。とても強い力よ。……その人たちはどちらでもない世界にいるようよ」
「あの。殺しちゃっても本体は無事なんですよね。人殺しにはならないんですか」
私は半ば血の気の引いた顔で尋ねる。
「ええ。人殺しではないわ、大丈夫よ。でも気を付けて、何度でも蘇るから」
霧画は声のトーンを低くした。
「やったー! 私のご主人様は、犯人にならない! 捕まらない!」
今まで話に加わらなかった安浦は、居間でも反響するくらいの声をだし立ち上がって万歳をしている。
「よかった……」
私はカタカタと震えている手を揉んで、ほっとした。怖さが薄くなりだした。仮にも異界の者でも、人を殺すのは精神的にかなり辛いもののようだ。
「取り合えず。南米に行かなきゃならないのね」
呉林は溜め息まじりに呟いた。
私は「どうやって」という当たり前のことを、口に出そうとしたが飲みこんで、
「飛行機代と何週間の滞在費を稼ぐしかないか」
私はがっくりとした。週払いで薄い私の財布で、南米まで……不可能では?パチンコや競馬でも稼げない。ギャンブルが駄目だとすると……まじめに働くしかないか。でも、どれくらいかかるのだろうか?
「渡部と角田も連れて行った方がいいかな?」
「そうね。その方がいいでしょ。姉さん?」
「ええ。と言っても誰のこと? 私も行こうかしら?」
なんとも大旅行になりそうである。そして、一週間も赤レンガの喫茶店の開店を待つ必要が完全になくなった。