後編
俺は山田の手を取って、何も無い方向へ1歩踏み入れた。
視界いっぱいに波紋のようなものが広がる。
一瞬後、季節外れの桜が目に入った。
奥に見えるのは屋敷的なアレだろうか。
立派な黒い屋根からして、とても大きいことが伺える。
屋敷までは石畳が敷かれ、両サイドには満開の桜並木が花びらを吹雪かせている。
「え、今夏だよな?」
「山の神に春が来ているからかな。シャワー、浴びたいんだろ? いい所がある。案内してやる」
「ええ、さすがに他人の家?に入るのは……」
「礼儀正しい奴だな。安心しろ、あれは私の親戚の家だ。そうだな、気になるなら、一般に公開されている施設を借りようか」
「ひじょーに助かります」
石畳を横断し、桜並木の間から土手を登って、池のようなものが見えた。
池の周りには木製のベンチがある。
近くにはてらてらと光る木の板の道があって、廊下に続いているのが見えた。
「足湯だ。少し深いから、温泉として入っても問題ないだろう」
「問題しかない」
「まあ、そう言わずに。つべこべ言っていると突き落とすぞ」
「殺す気か!? 入ればいいんだろう、入れば」
「殺すのも吝かではないな。代わりの服は持ってきてやる。先に入ってろ」
山田は勝手知ったる土地なのか、すぐに見えなくなってしまった。
俺はと言えば、見知らぬ地で全裸になるのは少し恥ずかしくて、きょろきょろと見渡したあと、ゆっくり脱ぎ始めた。
そういえば、あの屋敷は山田の親戚のものらしいけど、どんな人が住んでいるんだろう?
山田の両親の話も聞かないし……まあ、事情があるんだろうし、わざわざ聞かないけど。
そんなことを思いながら、湯にちゃぽんと入った。
「服、持ってきたぞ。ああ、もう入ってたのか。湯加減は、いい塩梅か?」
「山田も早く入れよー」
「そう急かすな。今行く」
山田は俺の目の前に立って、何の恥じらいもなく全裸になった。
異様に白い体躯が妙にえっちに感じるのは気のせいか。
「欲情してくれても構わんが?」
「それもやばいと思う」
「残念だ。まあ、ここは風呂場だから勘弁してやろう」
「な、何を?」
「内緒だ」
口元に指を当てる。
慌てる俺をよそに、山田はさっさと上がってしまって、浴衣のような薄物を羽織る。
テキパキと紐を操って、あっという間に着付けてしまった。
俺は着れないからどうしようかとお湯の中に沈んでいると、山田が脇に手を突っ込んで持ち上げてきた。
意外と力持ちだな、と思う間もなく、地面に立たされ同じように薄物を羽織らされる。
「のぼせたお前も見たいが、今日はまだ帰らせる気はないからな」
「いや、でも着れないし……」
「ああ! それで沈んでいたのか。愛い者だな。私が着せてやる。こういうのも悪くないな」
「なんだか悪いな」
「好きでやっているのだ、好きにさせろ」
「あ、はい……」
あっという間に着付けられた俺は、素足でペタペタ廊下を歩いた。
この先に御神体があるのだそう。
部屋をいくつも通り過ぎ、ふいに山田がくるりと振り向いた。
僅かに緑がかった白い髪がふわりと風に舞う。
ほぼ黒に見える濃い緑色の瞳が、じっとこちらを見ている。
なんだか逃げ出したい気持ちになったが、同年代の、それも自分より背の低い男に気圧されたなんて恥ずかしいので踏みとどまった。
「ふ、この先だ。現在の山の神の満足度は80%だ。さて、どうする?」
「え、頂上に来てから特に何もしてないはずなんだけど」
「山の神は青春が好きだからな。さあ、入る? 入らない?」
「どうせ突き飛ばすとか言うんだろ……入りますよ」
そう言ったら、一瞬の暗転ののち、俺は既に部屋の中にいた。
大きな部屋の中には布団が1つと、その上に小さな木造の像が落ちている。
山田は布団を挟んで向かい側に立っていて、なんとも言えない、しかし嬉しそうに笑んでいた。
何もかも異様だったが、とりあえず御神体を20%分撫でれば、帰して貰えるはずである。
この際、一生彼女なんてできなくていいから、五体満足で家に帰りたかった。
外は暗く、その暗さが透けて見える障子は、絶対に開かない気がした。
「よ、よーし。なでなでするぞ」
「もう少しこちらに」
「え、けど布団……」
「いい。その像を落とした時の緩衝材も兼ねているんだ」
緩衝材とな?
そういうことなら布団を踏まざるを得まい。
でも、掛け布団をぐちゃぐちゃにするのは、何となく許せなかったので、それだけ剥いで、横に畳んで置いた。
布団の下半分にあぐらを組み、木彫りの像を拾い上げて撫で回す。
10回撫でてみた。
山田は嫣然と笑っている。
20回撫でてみた。
山田はニコニコしている。
50回撫でてみた。
山田は――。
すぐ近くにいた。
鼻がくっつきそうな至近距離。
感情を読み取れない昏い瞳が、舌なめずりをしながら俺に迫っていた。
ああ、食べられてしまうのだと死を悟る俺に、山田はこう言った。
「そろそろ私も撫でてくれないか?」
「え、頭を? こう?」
「うん、悪くない。あとは……肩とか腰とか」
「え、こってるの? 大丈夫? マッサージする?」
「マッサージか、やったことあるのか?」
「いや、初めてだけど……」
「じゃあ、やめておくか。あとは……ここ、とか、ここ、とか」
山田が指さした先を触ったかどうかは、俺と山田を名乗る者だけの秘密である。
ともあれこの日、俺は山の神に食われ……いや、行為的には俺が山の神を食べて?か。
俺は無事に家に帰ることができた。
しかも昼前には。
あの暗闇なんだったの? 異界?
次の日、山の頂上まで登ってみたが、当然屋敷なんてあるはずもなく、古ぼけた祠があるだけだった。
せっかく祠まで来たので、祟られないように、ちょっとだけ掃除をしておいた。
夏休み明け、山田の存在は初めから無かったことになっていた。
同級生も、先生も、夏休みのあの日、玄関先で対応したはずの母親も。
俺以外の誰一人も山田を知らない状況で、夏は終わった。
夏の怪談、怪奇現象ってやつだろうかと、どこかに相談しようかとも思ったが、あっという間にその事は忘れ、翌年の夏休みが来た。
「今日は山の日……か。山の日、……そういえば去年」
瞬きの間に山田との会話が蘇ってきた。
同時にこの一年間、彼女がいないことにも気が付く。
悔しい気持ちそのままに、去年と同じように佇む裏山に足をかけ、頂上の祠まで登りきった。
祠のそばに山田はいた。
気だるげに目を閉じて、祠にもたれかかって、隠しもしない和服姿で。
「呼びに行く前に来るとは、殊勝なことだ。待っていたぞ」
「山田ァー!!! 約束が違うぞ! この一年、彼女ができなかったんですけど!?」
「ふふ、仕方があるまい。この私、山の神を完全に慰撫することが叶わなかったのだからな。祟られたというやつだ」
「え、あれだけヤッて、満足度100%行ってないのかよ!?」
「残念、98%だった。さて、今年分のと、去年分の残りを、これから支払ってもらおうかな」
哀れ、山の神に気に入られた人間が、残りの人生をどう過ごしたか。
彼女はできたのか。
両親に孫を見せられたのか。
それは、山の神のみぞ知る……。