朝を
そこは暗い闇だった。彼女はずっとここにいた。たった1人で。
「あ、サトシくんだ。もう来ないかと思った。」
やつれた顔で、彼女は静かに立ち上がった。
「ごめん。さっきは八つ当たりであんなこと言ったけど、本当はあんたのおかげで生きたいって思えるようになったんだ。……少しだけ。」
「あなたは正直だね。大丈夫、もう気にしてないよ。私も酷いこと言ったし、おあいこだね。それより、サトシくんに言うべきことがあるの。」
嫌な予感がした。
「言うべきこと?」
「うん。私、たぶん、もうすぐ消える。だからお礼を言いたくて。」
なんでもないことのように、ごく当たり前のことのように、さらりと言い放った。
「消えるって、どういうことだよ。目が覚めるのか?」
「そうだったらよかったのにね。家族や友だち、私と一緒にいてくれたこの世界、私が生きていたあの世界、それからサトシくん、きみともお別れだよ。私の時間はもうすぐ終わる。でも、いつからかサトシくんが来てくれて、私とっても楽しかった。だから、ありがとう。」
「それは、違うだろ。そんなわけないだろ。」
「そんなわけあるよ。だって、すごく眠たいもん。今までこの世界で眠たくなることなんてなかった。現実ではずっと寝てるからね。それに……主治医の先生が言ってた。私、もう治らないんだ。回復の見込みがないってさ。これ以上家族に迷惑かけられないし、大人しく眠ることにするよ。」
「駄目だ。なんで諦めてんだよ。あんた魔女なんだろ? いつもみたいに手を組んで、目が覚める魔法とかかければいいだろ。」
諦めてほしくない。彼女は生きるべき人なんだ。
俺なんかよりもずっと生きることに対して真剣で、しがみついているのに……消えるなんてことあっていいはずがない。
「とっくの昔に試したよ。でも無理だった。そもそも魔女じゃないし。想像の中であれこれすることはできても、現実に私の想いは届かない。本当に魔女だったらよかったのにね。」
「あんた1人で無理でも、今は俺がいる。俺も一緒に願うから、だから、消えるとか終わるとか、悲しいこと言うなよ。」
「私がいなくなったら、この場所も無くなっちゃうもんね。」
「場所なんかどうでもいい。俺はあんたに生きててほしいんだ。たとえこの先会えなくなっても、どこかで笑って、朝を迎えて、生きていてほしい。」
彼女の目には涙が溜まっていた。
「……じゃあ、一緒に願ってくれる?」
「あぁ、願うよ。」
「朝を。」
「朝を。」
彼女と手を握り、朝だけを願った。
どれくらい経ったか。彼女の体はふらふらだった。
暗い闇にほんの少しの光が見えた。
「おい、あれ。」
光はどんどん大きくなる。まるで朝日のように闇を追い払いながら。
「……私にも見える……。懐かしいなぁ。朝だ。」
白くぼやけていく視界の中、涙を流しながら笑う彼女の横顔を見ていた。
「ありがとう。」
「弘人!」
「っ!」
深く眠り込んでいた。廊下で眠ったはずが、リビングのソファにいる。目の前には父と母が眉をハの字にしている。
「……ごめん、寝てた。」
外はもう真っ暗だ。
「寝てた、じゃないわよ……。何回起こしても無反応。全然動かないし、かと思ったら泣いてるんだから。」
母が目元を拭ってくれた。しかし、いくら拭いても溢れてくる。
「……どうしたの?」
「わかんないけど、よかったってすごく安心してる。」
2人は顔を見合わせた。言ってる意味がわからないのだろう。俺もだ。
「何ともないんだな?」
「うん。」
「母さんも安心だわ。」
「姉ちゃんは?」
「明菜がどうした? 帰ってきたのか?」
「今日は病院に泊まるって連絡来たわよ。お友達の容態が回復したんだって。言ってなかったかしら。」
「涼子さん……。」
翌日、友達が目を覚ましたと大喜びしながら帰ってきた。
人生何が起こるかわからない。
プロのサッカー選手になると息巻いていたあいつは、何に影響されたか、弁護士を目指して法学部のある大学へ進学。専門学校か大学か迷っていたあいつは、お笑い芸人を目指して大阪へ。
俺はというと、未だに道に迷いながらも大学へ進学。とりあえずで文学部へ入った。文学部にした理由は、なんとなく面白そうだったから。
「隣いいですか?」
声がした方を振り返ると、松葉杖をついた女性がいた。何度か見かけたことがある。
「どうぞ。」
鞄を反対側に移して席を空けた。よく見てみると、足を怪我しているわけではなさそうだ。
「足じゃなくて、頭なんです。」
「え?」
「事故で頭打っちゃって、それで右足が動かなくなって。でも、それ以外は何ともなかったんですよ。すごくないですか。」
「え、そ、そうですね……。」
押しが強い。
「私、津守美奈って言います。あなたは?」
「あ、山口弘人です。」
「……18歳くらいだよね? もしかして、第一高校出身? 山口明菜の弟くん?」
「姉ちゃん……姉を知ってるんですか?」
「わぁ、本当に弟くんなんだ! 私ね、高校の時、明菜と同級生だったの。だからかな。弟くんと初めて会った気がしない。どこかで会ってたかもね。」
「俺も、懐かしい感じがする。」
泣きたくなるほど、懐かしい。何故だろう。
「ね、この後お昼一緒に食べない? 初めてのお友達記念ということで!」
「いいけど……。」
「やったぁ! 弟くんはお弁当? 学食?」
「学食……っていうか、その弟くんって呼び方嫌なんだけど……。」
「えぇー……じゃあ、私の知ってるアニメの主人公に似てるから、サトシくんね。」
「弘人って名前があるんだけど……。なら、あんたは……魔女だな。」
すると、津守の目から涙がぽつりとこぼれ落ちた。
「え……あ、いや! ご、ごめんっ! 配慮が足りなかったっていうか……ほ、本当に、ごめんなさい……」
「ううん、違う……。なんかね、すごく嬉しかったの。あなたに魔女って呼んでもらえるのを待っていたみたい。すごく変だけど」
そう言って、津守はふわりと笑った。
ふいに津守は窓の外を眺めた。
「いい朝だね。」
「もう昼だけど。」
「細かいことは気にしなぁい。」
俺も同じように外を眺めた。
「確かに、いい朝だな。」
明日もこんな朝が訪れることを願う。