知らない人
ベッドから起き上がる。窓から射し込む朝日に目を細くする。
ただそれだけのことに、どうして涙が出るのだろう。
「あら、弘人……どうしたの、その目。真っ赤じゃない。アレルギーか何か?」
「……具合悪いから学校休む。」
「え。ちょっと、弘人?」
部屋に戻り、再びベッドに潜り込む。なんでこんなに涙が出るのだろう。
ただなんとなく生きていることが、あの人にとっては喉から手が出るほどに欲していることだったんだ。
……『あの人』って、誰だっけ。
『サトシくん。』
知らない声がする。彼女は誰だ。わからない。でも、会いに行かなくちゃいけない。そんな気がする。
「弘人? 買い物行ってくるけど、買ってきてほしいものある?」
「……ない。」
「熱は?」
「ない。」
「食欲は?」
「ない。」
「具合悪く?」
「ない。……あ。」
「母さんの勝ち~。じゃあ、掃除機かけておいてね。」
母は寛大な人だ。だから、兄も姉も自由に夢を追いかけることができたのだろう。
頼まれた掃除機をかけようと部屋を出ると、玄関ドアが開く音がした。忘れ物でもしたのか。
しかし、リビングにいたのは仕事中のはずの姉だった。引き出しを漁って何かを探している。時々聞こえる鼻をすする音。もしかして、泣いている?
「姉ちゃん?」
驚きながら顔を向けた姉は、やはり目を真っ赤にして涙を流していた。
「な、何よ、びっくりさせないでよ。あんた学校は?」
「……休んだ。姉ちゃんこそ、なんで帰ってきてそんなに泣いてるの?」
「友だちが、危ないって。もしかしたらもうすぐかもって……。」
そこまで言うと、糸が切れたように崩れ落ち、堰を切ったように泣き出した。俺は黙って背中をさすることしかできなかった。
「……行かなきゃ。」
「どこに?」
「あの子がいる病院。車借りに帰ってきたの。鍵どこ? いつものとこにないんだけど。」
「……あ、玄関に置場所変えたみたい。」
「……私が言ったんだった……。ありがとう。急ぐから。」
「うん。あ、ちゃんと安全運転してよ。」
「わかってるわよ。」
姉を見送ると、頬にいくつも水が流れた。
今日はどうかしている。聞いたこともない声が頭に残っているし、悲しいわけでもないのに涙が溢れてくる。
『サトシくん。』
知らない。あなたは誰だ。だいたい俺の名前サトシじゃないし。
何もわからないのに、ただただ会いに行くことばかり考えてしまう。早く行かなければ、もう二度と会えないような気がする。
そんなことを考えていたら、強烈な眠気が襲ってきた。夜から泣き続けたせいか、体が疲れてしまったようだ。行かなくちゃいけないのに。
力が入らなくなり、廊下に座り込んだ。目を閉じるとすぐに深い闇へ吸い込まれていった。