植物状態
植物状態
事故や病気などで植物のように動かなくなってしまう状態。脳死ではないため、ごく稀に回復することもある。
……何故、俺は急にこんなことを調べ出したんだ?
パソコンの画面が読み込み中で暗くなった時、俺の横に男の顔があった。
「植物状態か。」
勢いよくノートパソコンを閉じた。
「うわぁ!?」
兄が部屋に入ってきていたようだ。どうしてここの家族は個人のプライベートスペースに勝手に入り込んでくるんだ。
「知り合いに植物状態の人でもいるのか?」
「いないよ。ただ何となく気になっただけ。」
「そうか。治療法が見つかるといいんだが。」
「え、これって治らない病気なの?」
「そうだな。なんせ大脳の機能が失われるんだ。意思疎通すらできない。」
「……そう、なんだ。」
何故だか胸が苦しくなった。
「植物状態と似たものに最小意識状態というものがあるのだが、これは植物状態とは違って、アイコンタクトや声を出すことで意思疎通ができるんだ。ただ、こちらも完全に回復することはないと言われている。植物状態から改善した患者はこの最小意識状態になるんだ。あと、植物状態には遷延性意識障害という別名があって……」
兄のマシンガントークは止まることを知らない。
初めは植物状態について話していたはずなのに、気づけば全然関係のない、わけのわからない長ったらしい名前と聞いたことのない専門用語のオンパレードになり、頭がおかしくなってくる。
「アメリカの映画で『Awaknings』っていうのがあって、あれでパーキンソン病のことを初めて知ったんだ。弘人も見てみろ。単純な物語としても楽しめるぞ。」
「あの、うん、わかった。よくわかった。」
兄が本当に好きで医者になったことも。
「そ、そろそろ晩飯できる頃じゃない?」
「あぁ、そうだ。弘人を呼びに来たんだった。晩飯できてるぞ。」
もう少し早く思い出してほしかったな。
立ち上がると、兄に背が追いついてきていた。
「大きくなったな。」
素直に嬉しい。
「もう手術はしたのか?」
「俺、内科医だから手術はしないよ。」
俺と父の食事の手が止まった。
「そ、そうなのか? 父さんはてっきり、お前は外科医になったものだと思っていたのだが。」
父さん、俺も同じこと思ってた。
「初めは外科を目指していたんだけど、初期研修で内科を研修した時に直感したんだ。俺は内科医になるべきなんだと。」
たまに、頭がいいはずの兄が馬鹿に見える時がある。
「もちろん、その後ちゃんと考えたよ。でも、やっぱり内科がいいと思ったんだ。母さんには言ったんだけど、伝わってなかった?」
どういうことだと母を見やる。父も全く同じ動きをしていた。そして母はご飯を口に詰め込みながらこう言った。
「あれぇ? 母さんも言ったと思ったんだけどなぁ。」
母さん……
「大輝、そういうのは父さんにも教えてほしかった……。」
「まぁ、いいじゃない。やりたいことをやるのが一番よ。母さんもちょっとやりたいことがあってね……。」
母が持ってきたのは写真集。
「母さん、昔は写真家だったのよ。世界中飛び回っていろんな写真を撮ってたの。お金がなくなったから銀行とかで働きだしたんだけどね。でも、今は余裕があるじゃない。だから、弘人がもう少し大きくなったら、また世界を見に行きたいの。」
男3人は何も答えられない。あまりにも衝撃的だ。
「お金の心配なら大丈夫よ。家のお金は使わない。株で儲けたのを使うから。」
株で儲けたお金……。
「写真で儲けたいとかそういうのじゃないの。今回は個人的な、旅行? みたいな感じかな。危ない国には行かないし、ちゃんとお土産も買ってくる。誰にも心配かけないから。」
この母、何者?
「……涼子さんは何言っても聞かないから仕方ないか。」
「俺も母さんと父さんのおかげでやりたいことできてるし、止める権利はないよ。」
「本当にいいの? 弘人は?」
「え、まぁ、別に、いいんじゃない?」
「ありがとう! パスポート期限切れてないかなぁ。」
「ち、ちなみにいつくらいを予定しているんだ?」
「弘人が成人するまではここにいるわよ。ちゃんと考えてるんだから。少しは成長したでしょう?」
ということは、少なくともあと4年……。
「そ、そうだな。突発的じゃなくなってよかったよ……。」
父よ、あなたの奥さんは大変だな。
「弘人は何かやりたいこととかはないのか?」
兄の何気ない発言。しかし、俺にとっては地雷も同然。
「姉ちゃんとか兄ちゃんみたいに夢とか目標は一個もない。でもさ、そういうのを見つけるために働くっていうのはダメ?」
あれ、何言ってんだ、俺。
「まだ、何も決めてないのか。」
兄だ。どうせ馬鹿にしているんだろう?
「なら、医者になろう。弘人なら絶対なれる。」
「いや、だから、まだ決めれないんだって……。」
「あ、そっか。」
「候補には入れとくけど……。」
兄の笑った顔を久しぶりに見た。
その日は安心して眠ることができた。