明晰夢
暗い。星が見える。夜だ。左には森、右にはネオンライトの町が見える。しかも、夢の中。
あ、夢ってわかってる。明晰夢、だったか?
「あなた誰?」
声がした方を振り向くと、俺と同い年ほどの女の人がいた。ブレザーの学生服に茶色のダッフルコートを羽織っている。これが明晰夢か、面白い。顔もはっきりとわかる。
「俺は……。」
答えようとして言葉に詰まった。俺は誰だ? ぼんやりとしか思い出せない。夢だからなのか。
「あんたこそ誰だ。」
質問を質問で返す。
「誰でしょう。」
質問で返された。会ったことなどないと思っていたが、いつかの同級生なのかもしれない。もしくは先輩か後輩か。そう思うと、どこかで見たことがあるような気がする。
彼女はにやりと口を歪ませ、自慢気な顔をした。
「正解は……魔法を使う魔女さんなのです。」
……はい?
彼女は腰に手を当てて仁王立ちになった。夢だとわかっていてもわけがわからない。
「信じてないでしょう。見せてあげる。」
そう言うと、両手を祈るように組み合わせて一言。
「飛べ。」
すると、感じたことのない浮遊感に襲われ、俺の足は地面から離れていた。浮いている。引っ張られているわけではなく、風で飛ばされているわけでもない。彼女も同じように浮いている。
夢だとわかっているが、地面に足がつかないことがとても怖い。体感では10mほど浮いている。
「アラジンみたいに魔法の絨毯で世界を巡る?」
先ほどと同じように彼女は手を組んだ。
「出でよ、絨毯。」
俺達の下には赤い絨毯が現れた。足がつく。絨毯の下には何も無い。浮いている。
「いいね、その表情。私の魔法は無限大だよ。町の方に行ってみる?」
絨毯がゆっくりと動き始める。徐々にスピードを上げ、車に乗っている時のような疾走感に恐怖が芽生える。周りの景色が一瞬で通りすぎていく。
「は、速くない?」
夢とはいえ、どこかに掴まっていないと振り落とされてしまいそうな、心許ない絨毯はとても怖い。
縮こまっている俺を見た彼女はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、もっとスピード上げようか。」
「えっ。」
素っ頓狂な声に彼女は声を出して笑った。
「冗談。この町のこと教えてあげる。」
すーっと高度と速度を落とし、ゆっくりと町中を見て回る。遠目で見た光輝く町は、ただ光があるだけで人気は全くない。ハリボテだ。
それでも彼女は嬉々として案内を続ける。
「電車はないけど駅もあるんだよ。駅近の優良物件、見ていきますか?」
芝居がかった言い方に、テーマパークのアトラクションを思い出した。わけのわからない夢が少し楽しい夢になった。
「最後はここ、満天の星が見える草原です。」
寝転がるように促されて言われたとおりにすると、さっきまで乗っていた絨毯は消え、若草の匂いがする草原になった。目の前に広がるのはテレビでしか見たことがない満天の星。とても綺麗だが、どこか寂しい。
「あなたは誰?」
星空から目を離すことなく、彼女はさっきと同じ質問をした。今度は質問を質問で返すような意地悪な真似はしない。
「わからない。ここが夢だってことはわかるけど、現実のことは思い出せない。」
彼女は相当驚いたのか、上半身を起こしてぐいぐい近づいてきた。顔には興味の二文字が張り付いている。
「夢ってわかるんだ。もしかして、実際にいる人なのかな。それとも私が作り出した幻? ねぇ、今は何が流行っているの?」
「だから、思い出せないって言っただろ。」
こいつは馬鹿なのか。ついさっき言ったことだぞ。
「あ、そっか。ちょっと残念。」
はぁーっと大きなため息をつきながら、大の字に寝転がった。俺は元々しゃべる方ではないらしく、彼女が黙ると静寂が訪れる。風も虫の鳴き声も聞こえない。静かすぎる。
急に怖くなって自ら口を開いた。
「あんたは誰なんだよ。」
「気になる? 私はねぇ、白馬の王子様を待つ囚われのお姫様。王子様のキッスで、この長い長い眠りから目覚めるのよ。」
目を閉じて、空に向けて変に口を突き出している。何をしているんだ、この女は。
返答に戸惑っていると彼女は目を開けてこちらを向いた。
「ちょっとくらい乗っかってくれてもいいんじゃない? ノリだよ、ノリ。」
ノリ、ということはボケたのか。ツッコんでほしかったのか。あの状態のツッコミなら、『王子様とかいつの時代ー?』とかだろうか。待てよ。ツッコむのではなく、ボケる方か。『王子様が来ましたでー!』とか? ……絶対間違ってる。
彼女を見ると期待のまなざしを向けている。目がキラキラしている。何か、言わなければ……。
「な、なんでやねーん……。」
一瞬呆けた顔になった後、彼女は腹を抱えて笑い出した。
「へったくそだね! なんでやねんって、なんでやねんって!」
満天の星の中、過呼吸になりそうなくらいの笑い声だけが響いている。楽しそうな彼女の横で、俺はこの夢が一秒でも早く覚めることを願っていた。
「久しぶりにこんなに笑ったよ。あー、面白かった。」
「そりゃ、どうも。」
こっちは笑える精神状態ではない。
「……なんか、変な音しない?」
耳を澄ますと、確かに鈴のような小さな音が聞こえてきた。だんだん大きくなっていき、スマホのアラーム音だと気づいた。体を起こして周りを確認する。空は白みだし、木々の間からまぶしい朝日が顔を出した。
「朝だ。起きないと。」
隣で寝ていた彼女も体を起こした。さっきまでの笑顔が嘘のような寂しそうな顔をした。
「……そっか。あなたは目覚めるんだね。少しの間だけだったけど、久しぶりに楽しかったよ。ありがとう。」
夢はぼやけ始め、やがて真っ白な光に包まれる。彼女に何か、言ってあげればよかったのだろうか。
けたたましいアラームの音で目が覚めた。今までに見たことがないような壮大な夢を見た気がするのだが、ぼんやりとも思い出せない。
「早く起きてよ。その音止めて。」
スマホに手を伸ばしてアラームを止める。と、いるはずのない人物がいることに気付いた。
「姉ちゃん……?」
部屋の入り口にもたれかかっている姉、明菜は眠たそうに大きなあくびをしている。明菜は今年度からリゾートホテルで働くことになっていたはず。もしかして……。
「クビになった?」
眠そうな顔から一瞬にして般若になった。明菜の就職先は何がなんでもそこがいいと意気込んでいた第一志望だ。
「その口、縫ってやろうか。」
顔をわしづかみされた。
「ごめんなひゃい。」
「連休になったから帰ってきたって、昨日言ったじゃん。てか、あんた姉ちゃんに感謝しなさい。昨日のことはいくら払おうが足りないわよ。」
昨日、と言われても何のことだかさっぱりわからない。明菜が帰っていたこと自体忘れていたのだから。
「覚えてないの? 病院行った方がよかったのかな。今から行くか。」
さぁ立って、と腕をつかまれる。
「え、ちょっと待って。何の話?」
「忘れたの? 死にかけたじゃん。」
言われて思い出した。昨日の夜、曲がり角からいきなり現れた車に驚いて、でもいいかと思って……
「学校には連絡しとくから。」
スマホを取り出した明菜を制して立ち上がる。
「いや、いい。思い出したし、小テストあるから。」
「そう? 具合悪くなったら早退するのよ。」
「うん。」
部屋から明菜が出ていき静かになった。昨日のことを思い出しため息をつく。
まだ、生きている。
しばらくぼーっとしていると、今度は母親が部屋に入ってきた。そろそろ起きなければ、学校に間に合わなくなる。体を起こしてリビングへと向かった。
朝だ。今日もまた、一日が始まってしまう。