俺は全てを奪われた
俺は直ぐにはミュゼを救急車に運ばなかった。
すぐに救急車に乗せ上げるべきなのに、俺はプール場を囲むフェンスを乗り越えたそこで足元から崩れ落ちてしまったのだ。
腕の中の彼女が冷たくて、息をしていない死体のようだったからではない。
救急車というゴールに辿り着いたそこで、俺が彼女と完全なる決別をしなければいけない、その重さに崩れ落ちたのだ。
そして俺は、地面に膝をついた事を良い事に、ミュゼの唇に口づけた。
出会った時にも施した単なる蘇生術の中のマウストゥマウスだと言い訳しながら、俺は誰にも渡したくはないミュゼの蘇生を今さらに試みていた。
胸を押し、息を吹き込み。
救急隊員に任せた方が確実だろうに、俺は彼女を手放せなかった。
生き返らせるならば俺の手で、そう、彼女が死んでしまうのならば俺の手で。
「ぐふっ。」
初めて会ったあの日のように彼女は口から水を吹き出した。
意識がないままに彼女は咳き込み、俺は咳き込む彼女を抱き上げた。
「ミュゼ!ああ、ミュゼ!」
「まだこんな所にいたのか!」
センダンは俺の真後ろで大声を上げ、俺を突き倒しながら俺の腕の中のミュゼを奪い取った。
俺が化け物からミュゼを奪った時のように、俺を足蹴にしながら俺の腕の中のミュゼを奪って俺から引き離したのだ。
そしてミュゼを奪い取った奴は、数分前の俺の様にして、ミュゼをこの上ないものの様にして抱きしめるや、再び俺に奪われないようにと走り出した。
彼は俺とは違い、救急車へと一直線に向かっている。
彼は俺と違い、あそこがゴールではなく、奴にはスタートになるからだ。
救急隊員達は自分達に向かって駆けてくる青年を当り前のようにして迎え、救急車の後部ハッチを開けて彼とミュゼを乗せ込んだ。
ミュゼは無事に救急車の中の簡易ベッドに横たえられ、センダンは俺の目の前で、彼女の婚約者として力を失った彼女の右手を手に取った。
俺の脳裏に、ミュゼと腕を組ん出歩いたあの日が浮かんだ。
俺は彼女の右手を無理矢理に自分の左腕に絡ませて、そして、俺のその行為に真っ赤になってしまった彼女をさらに照れさせたくて、俺は彼女の右手の甲、軽く握って指の関節が浮き出たその一番高い山にキスをしたのだ。
違う。
大好きな彼女に触れたいそれだけで、俺は彼女の手の甲、右手にも左手にもキスをしたんだ。
そしてあいつは、俺が口づけたその場所に、俺と同じようにしてキスをした!
キスをした後、彼はミュゼの恋人のようにして、ミュゼの右手をひたすらに握りしめた。
俺はそれだけでセンダンに殴りかかりそうだったが、そんな俺に思い知らせるようにして救急車の後部ハッチが閉まり、センダンとミュゼから俺は完全に隔絶されてしまったのである。
「ミュゼ。」
救急車は俺の大事なミュゼを乗せて、俺の目の前から、いや、俺のこれからの人生から彼女を切り離すべく遠ざかって行った。
「大丈夫か?」
肩を叩かれてはっと振り向けば、ダレンが俺の後ろに立っていた。
「ああ、大丈夫だ。ミュゼは絶対に死なないよ。」
「いや、お前こそ。どうしてお前が乗らなかった。ジュールズは親が決めた婚約者かもしれないが、お前達こそ好き合っているんだろう?」
「俺のせいで全校生徒に嫌われて、殺されかけたりもするのに?」
ダレンは俺を咎めるような目をしたが、俺は軽く笑って首を振った。
ミュゼを失った辛さは、こんな状態を引き起こした奴に清算させる。
「なあ、エルヴァイラはどこに行ったのか知っているか?」
「エルヴァイラの不在をな、教師達が見ない振りをしているようなんだよ。」
ダレンは肩をすくめながら俺に答え、俺は先ほどの教室での講師の様子を思い返し、講師が全くの正気であったと自分に認めた。
「ジュリアの幻術にかかっていそうにも無かったな。」
「そう。大体、魔法使いな彼にジュリアの幻術が通じるはずないだろ。では、さて、奴の勝手な行動が特待クラスでは見逃されていると考えると、どうだ?あいつを責めたらお前こそ問題にならないか?」
「ハハハ。構わないって。放校処分?俺はそっちこそ望んでいるよ。俺はさ、魔法使いの軍人になるよりも、親父の会社を継ぎたいからね。」
ダレンはいつもと違う笑い声をあげた。
疲れた大人がするような、そこに嬉しさなんて一欠けらも見えない乾いた笑いだ。
そして彼は自分の右の手の平を翳し、俺に見せつけた。
「どう思う?」
21/2/23
海辺を一緒に歩いて帰宅するシーンでは左手の甲へのキスしか書いてありませんでした。
自分の脳内では、まずハルトはミュゼの右手の甲にキスをしてから自分の左腕に絡ませ、照れるミュゼを揶揄って、ミュゼが叩いて来たその左手の甲にもキスをした、はずでした。
すいません。
修正しました。




