夢のままの方が良かった
私を化け物から引き離して抱きしめてくれた手は、殺されると混乱していた私を一瞬で宥めてくれた。
その手はハルトのものだって思った。
だから、気が緩んだそこで私は意識を手放してしまったのだろう。
塩素の臭いが充満する水の中で、私の意識は真っ暗となった。
ぴぴぴぴぴぴ。
聞きなれた生命維持装置の音を耳にして、嗅ぎなれた消毒薬の臭いを嗅いでしまったことで、私が深いプールの底で溺死などはしてもおらず、首から下が麻痺しているという現実に戻ってしまったのかと思ってぞっとした。
それで、ぞっとしたそのまま、悲鳴のような喘ぎ声を上げていた。
「大丈夫か!ミュゼ!」
大きく安堵の息を吐いた。
聞きなれた声が自分を呼びかけた事で、私は安心して目を開けた。
私は簡易ベッドらしきものに横にされていて、口には酸素マスク?なるものが装着されている。
どうやら私は救急車に乗せられていて、病院に搬送されている途中らしい。
良かった。
ハルトがいる世界だわ。
安堵できたからか、私の瞼は再び下がり始めた。
「ミュゼ!しっかりしろ。」
私の右手が強く握りしめられて、私は再び瞼を開けた。
すると、私の足元の方、救急隊員の処置の邪魔にならないようにしてその手を握っていた男性と目が合った。
「じゅ……じゅーるず。」
不良そう、なんて形容詞は今のジュールズには一つもつけられないだろう。
ペリドット色の瞳を涙で潤ませ、これ以上ないぐらいの真摯な表情で私をひたすらに見つめているのだ。
そんなジュールズは、私と目が合った事がこれ以上ない宝物を贈られたぐらいの喜びだという風にして、素晴らしい笑顔を顔に浮かべてくれた。
私の心が罪悪感で締め付けられるぐらいに、だ。
私をプールの底から救ってくれたのがハルトではなく、目の前のジュールズであったという事実に、私の心はハルトに助けて欲しかったとがっかりしたのだ。
きっと、ジュールズは命懸けで、私を化け物から助け出してくれただろうに。
私の右手の甲に温かく柔らかいものが触れた。
ジュールズが私の手の甲にキスをしたのだ。
私は反射的に、いや、と叫びそうになった。
溺死しかけて体力が一ミリも無くて助かった。
嫌と言って手を振り払っていたら、命の恩人の心を傷つける所だ。
でも、そこはハルトがキスしてくれた場所なのだと、私の目尻からぽろっと涙が零れてしまった。
「ああ、怖かったか。怖かったよな。俺も寿命が数十年分は縮んだよ。いいか、あんな化け物がいる学校だ。あんなのがいる学校にはもう通わなくていいよ。隣町の学校に転校しよう。隣町には俺達のデボラ叔母が住んでいるだろう。」
ジュールズは私の右手を彼の額に当てた。
「すぐにでも結婚しよう。結婚は君が卒業した二年後、あるいは俺が船長を任されるようになったその時と思ったけれど、君の安全の為だ。」
「あなたと、け、結婚して、別々の町に、住むの?」
彼は私の手を自分の額から降ろすと、顔を上げて私に再び目線を合わせた。
大丈夫だ、という、誰もが安心できる笑顔だったが、私は足元が砂地のように覚束なくなっただけだった。
怖い、とも思った。
「いいや。親父の船に乗って修行するつもりだったが、母の薦めに従って隣町の海洋大学に進むよ。一緒に叔母の家に下宿しよう。」
「大学に?伯母様は凄く喜ばれるわね。」
伯母はどこにでもいる母親の様にして、学力の高い息子には高校で終わらずにその先の進学をしてほしいと望んでいたのである。
「ああ。可愛い娘ができるって、それもきっと嬉しいと思うよ。」
大事な息子が大学に進学してくれる。
そんな伯母の夢が叶うのならば、きっとこの結婚は伯母こそ先陣を切って確かなものとなるように動くだろう。
私は結婚から逃げられない?
私は再び瞼を瞑った。
あんなに戻りたくはないと願った、前世の寝たきりの自分に戻れたらいいなと思いながら。
だって、寝たきりだったら、ハルトとの夢を紡いではいられるでしょう。
ごめんなさい、ジュールズ。
あなたは私を命がけで助けてくれたし、私を常に思いやって気にしてくれるでしょうけれど、あなたと結婚は出来ないの。
助けてもらえなくても、私の事を一欠けらも気にしていなくても、でも、私はハルトじゃ無いと嫌なの。
「結婚式はしたいよな。ドレスを考えれば、八月の末か?いや、婚約者として隣町に一緒に行って、十月ぐらいに式をしようか。」
私は、十月は素敵ね、と答えていた。
十月まで猶予があれば、皆が納得する良い道を探せるかもしれない。
前世みたいにして、ハルトの事を妄想するだけの喪女になる道だって。
そう、私はモブだ。
でも、モブでしかないからこそ、私自身として生きていける道を模索するべきなのだ。




