白い化け物
大きく叫んだ私は水の中にいた。
大きく開いてしまった口の中に大量の水が流れ込み、叫んでしまったがために、私の肺の中にあった空気はその時に殆ど排出してしまっていた。
「あご、ぶく、おご。」
私は水の中で苦しさに喘いだ。
私を抱き締めて鏡の中に引き込んで来た白い腕は今はなく、その代わりとして、塩素の匂いが染みついた透明な水の中にいるのである。
プールの底には誰かが寝ていた。
女子トイレにいたはずの私が、なぜか一瞬で校内のプールの中、それも飛び込み専用の深い深いプールの底に沈んでいるのだ。
こんな自分に起きた事こそ非現実的だからか、紺色の警備員の制服を着た男がプールの底に横たわっている事に私はあまり恐怖を感じなかった。
いや、他者の死に恐怖を感じる余裕なんて残っていなかっただけだ。
苦しい、苦しい、ああ、水の上に出なければ!
水面を目掛けて腕を動かしたが、私は水面に向かってまっすぐに立っただけで、目指す水上に浮かび上がることができやしない!
ああ!右足首には白い腕が絡みついている!
「あぐあああ!」
私は再びごぼりと肺の中の空気を吐きだした。
空気なんてほとんど残っていない肺こそ悲鳴を上げていて、私が吐いたあぶくには薄っらと私の赤い血が混じっていた。
窒息によって酸素を失い、苦しいともがく体が力を込めて捩じれるからか、私の体中の毛細血管がプチプチと音を立てて千切れていく。
それは私の目の中にこそ最初に起こった。
黒いオーブがチラチラと染みみたいに次々と出現して、透明な青い世界を炎で写真が燃えていく様にして黒い穴をあけていく、のだ。
苦しさに水を掻きつづけた私の両腕はいつしか力を失い、水に揺れるだけとなった腕には、あるはずのない何本もの透明な管が纏わりついていた。
これは、動けないけれど死んでいく私が見た私の夢だったの?
病室で一人死んでいく私に与えられた、命を諦めるために神様が見せてくれた、幸せな夢、だったの?
私の右足首に爪が刺さった。
「お前も苦しみ抜いて死ぬんだよ。」
!!
私の意識を完全に包みかけた黒い靄が少し消えた。
ああ!私はまだこの世界にいる!
大好きなハルトと生きていられる世界にいるではないか!
私は私を捕えて離さない白い化け物を見つめた。
それは私の最期、ただ諦めて意識を失うのでは無くて、死の寸前まで足掻き苦しめてやるぞという風にニヤリと顔を歪めた。
白い体はぶよぶよと膨らんでいるが、太っているのではなく、水死体だから彼女は膨らんでいるのだ。
私を見つめる両目は、ふやけてしまったのか白く濁っている。
奴は私の足をさらに引き寄せた。
私はそいつに引っ張られながら、そいつに向かって水を掻いた。
暴漢に捕まって引っ張られたら、反対方向に逃げてはいけない。
引っ張られたその方向に全体重を乗せてぶつかってやれと、私は大学の体育(空手を選択しました。)の授業で教わったじゃないか。
水の中でボディアタックなど出来ないが、目つぶしぐらいは出来る!
私は右手を白い化け物の目玉に思いっきり突っ込んだ。
ぐちゃあ。
うう、吐きそう!
化け物が私の足から手を離した!
私はその隙に、出来る限り急いで水面を目指した。
ひと息だけでも空気を吸わなきゃ!
ざばん。
「うげほっ!」
水を飲み過ぎた私は空気を吸い込むどころかむせ返った。
「ぎゃぶ!」
ああ、再び私は水の中に沈められた。
もう駄目だ!
ざん!
白い化け物と沈んでいく私のすぐ横に、神の雷のようにして、大きな何かが飛び込んで来た。
ハルト!
私はそう思った。
そうであればよいと願った。
私はその大きな影に手を伸ばし、その影は私を助けに来たのだと強い意志を持って私をその胸に抱きしめた。




