ニッケさま様
「ご存じ?ライトさんはセンダンさんと婚約している仲なんですって。」
エルヴァイラは寮の食堂で俺の耳に毒を囁いた。
「だから?俺達は友達だよ。単なるね。」
そう、気心が知れた友人だ、まだね。
俺が先走りしていただけで、そう、ミュゼは俺に恋している素振りなんて無かっただろう。
……たぶん。
いや、俺が誤解してしまうぐらいには、ミュゼにはそんな素振りがあった。
いや、だが、昨日のヒヨコとミュゼには、そんな婚約者めいた雰囲気など一欠けらも無かったはずだ。
「あらそうなの?あたしは応援しようと思ったのよ。ほら、センダンさんと言えばこの町の有力者一族じゃない?その息子と、その親戚筋のお嬢さんであるライトさんじゃないの。良い家柄では親が決めた許嫁ってよくある話じゃない。婚約破棄なんてしたらライトさんが親に勘当されるでしょうけど、でも、好き合っているなら諦める必要はないわよって。」
「そうだね。余計なおせっかいをありがとう。話はそれだけだったら、いいかな。俺は一人で飯を喰いたいんだ。」
エルヴァイラは俺の向かい合わせに自分の朝食が乗ったトレーを置いたところだったが、俺の言葉を聞くや俺をひと睨みしてトレーを再び持ち上げた。
「あなたはもう少し皆に心を開くべきだと思うわ。」
俺が心を閉ざしているのは君に対してだけだよ、そう言いたいところだったが、俺は黙って自分のトレーのスクランブルエッグをフォークですくった。
「う。」
情けなく叫び声をあげる所だった。
俺のスクランブルエッグに大きな蠅がめり込んでいた。
「情けない。幻術に完全に嵌るなんてさ、なあ。」
俺が見つめている黒蠅が、少女の声と共に魔法のようにパッと消えた。
「……魔法、なんだな。」
蠅は幻覚だと分かっても、俺は食欲が完全に失せたとフォークを置いた。
俺を助けてくれた恩人は俺の真向かいに偉そうに座っており、俺よりどころか、小学生並みに小さな少女のくせに、百歳の年よりのような目つきで俺を小馬鹿にしたように見返して来た。
「ハハん。気を付けろ。エルヴァイラを傷つけると、ジュリアが反射的に幻術を送ってくる。あれは怖いぐらいの仲だよな、なあ。」
俺はニッケから目を逸らし、俺に追い払われたエルヴァイラが食堂の隅でジュリアと一緒に座っている姿を視線だけで確認した。
彼女達は額を寄せ合い、そして、同時に俺に振り返って笑顔を見せた。
チョー怖え。
俺はさっさと視線を怖い女達から剥がして、ミュゼと違い癒しにはならない偉い人の方へと動かしたが、偉い人はやっぱり偉そうににやっと笑った。
「モテる男は辛いな。」
「モテないよ。」
「ナハハ。ミュゼに婚約者ががが、ってか。好きなら奪えばいいじゃないか、なあ。親が決めた婚約者でしかないんだろう?」
「……ミュゼは親ととっても仲がいいよ。奪うんじゃなくてさ、彼女の選択に任せたいよ。俺は友人として、彼女の選択を受け入れる。」
「うわあ。わしはお前に頼みごとをしたかったのじゃが、駄目だな、このヘタレは。全く。なあ。」
ニッケの最後の呼びかけは俺ではなく、俺達のテーブルに辿り着いたばかりのダレンに向けられたものだった。
そして、ダレンは、見るからに自分の三分の一くらいの大きさのニッケに脅えて、手に持っているトレーをぐらつかせた。
「ダレン、君もニッケ様に何か?」
彼は真っ赤になると踵を返し、俺達のテーブルではなく、別のテーブルの方へと行ってしまった。
「どうしたんだ、あいつ?」
「なに。いけないことでも思い出したのだろ。なあ。」
さて、そんな朝の風景を思い出していたからか、俺は一歩も二歩も出遅れた。
いや、ミュゼを出迎えようとエントランスで彼女を待っていたその目の前で、彼女がヒヨコの高級車から飛び降りたところを目撃したのだ。
真っ赤になってエントランスに駆け込んでくるミュゼ。
そんな彼女を恋人のようにして笑いながら追いかけて来るヒヨコ野郎。
俺は一瞬でむかっ腹が立ち、そのまま教室に戻ろうと踵を返した。
背を向けたがために、俺は彼女を守れなかった。
ミュゼの悲鳴で後ろを振り向けば、彼女は何もない所で、地面に打ち付けられるようにして転んだ、という場面であったのだ。
彼女が手放して転がったのは、彼女の鞄と、彼女の家の店のマークが大きく入った大き目の紙袋。
紙袋の中から現れたのは、かっての同級生を思い出すピンクのドレスだ。
「ほほう。あれがエルヴァイラが盗まれたらしいドレスじゃな。」
「神出鬼没のニッケ様。詳しく教えていただけませんか?」
「なに。朝食の席ではドレスのドの字も無かったくせに、校舎に入るや取り巻き連中にドレスが無いと泣いていたのはなぜかな、と興味を持っただけじゃよ。で、そうかそうか。こういう仕掛けになるという事か。」
俺はニッケの言葉を聞きながら、エントランスで起きている騒ぎを見つめた。
「はっ。なんだこれは!」
ミュゼが放ってしまったピンクのドレスから紺色の靄が立ち昇り、それがグルグルと回りながら次々と紺色の小さな蛇を生み出していくのだ。
生み出された小さな蛇は、次々とエントランスに溢れている生徒たちの頭に潜り込んで行く。
ミュゼを蹴ろうと足を振り上げた奴が!
「ああ、畜生!」
しかし俺は飛び出せなかった。
ヒヨコがミュゼを庇ったのだ。
そして、そのヒヨコまでも、頭の中に蛇を受け入れてしまった。
「ミュゼが危ない!」
「大丈夫じゃろ。すごいな。あいつは気概があるぞ、なあ。」
ニッケの言う通り、ミュゼは孤軍奮闘しているじゃないか。
「すごいな。」
「ああ、凄いから、わしは加勢してやるよ。お前はそこで見ていな。」
「俺は役立たずか?」
「あほか。わしが一か所に幻術を集めるからな、それをお前が吹き飛ばせ。できるだろ、なあ。」
「ああ。一番格好良くトリを務めさせて頂きますよ。」
「いや。目立つのはわしじゃ。」
俺は腰を抜かせかけた。
ニッケの後ろには、大きくて派手な触覚やヒレがあるナメクジが、いつのまにやら聳え立っていたのである。
「何だこれは!」
ニッケはヒヒっと笑うと、ずんずんとミュゼの方へと歩いて行った。




