仄暗い奈落の底から
私がエルヴァイラに迎え撃つ宣言をするや、大きなぱちぱちという拍手が観客席から起きた。
大きく足を崩して立てた右膝に右肘を乗せ、左手をその右手に叩きつけるという酔っぱらいの様な適当な仕草で、アストルフォが嬉しそうに手を叩いているのである。
そんな酔っぱらいは酔っ払いそのものな野次を舞台に飛ばした。
「よっし、ぶらぼぉ。じゃあ、猛獣を檻から出そう。さあ、うさぎちゃん、全身全霊籠めて頑張ろうか。うさぎの戦いをみせるんだ!」
彼は私の注目を浴びたと嬉しそうに微笑むと、叩いていた手を掲げ、そのままゆっくりと両腕を左右に大きく開いて手を下ろした。
まるで蓮の葉の上に乗った観音みたいなポーズをとり、両手の指先を同時にぱちんと鳴らした。
すると、それを合図に時間が止まっていたエルヴァイラが動き出した。
同時にぱちんと糸が切れた音も聞こえ、私はその時にエルヴァイラを拘束していたらしき光の糸が舞台の上に縦横無尽に張り巡らされていた事を知った。
光の糸はドミノが倒れるようにして次々と千切れ、エルヴァイラが宙に浮かせていた木片の数個が、急に解放された反動で制御不能となり床に突き刺さったり、近くの柱や機材にぶち当たって破壊音を立てた。
「拘束が出来るならずっとしていてよ!」
「これは君が自分を取り戻せるかの実験だったんじゃないのか?俺は君を観察して成り行きを見届けるだけだよ?」
「この糞男!」
怒鳴った私の目の前に木片が飛んできて、それは私の鼻の頭を抉る寸前だった。
「ばか、頑張るんじゃなかったのか。初っ端から何をしているんだ。」
ハルトが私を後ろから肩を掴んで引っ張ってくれたのだ。
「ありがとう。でももう私に触っちゃ駄目。呪いがまたあなたにうつる。」
「ミュゼ。」
「さあ、エルヴァイラ、羨ましいでしょう!あなたの理想がここにいるわよ!」
「お前に何ができる?あたしはエルヴァイラ、お前はただの、その他大勢の、ミュゼだ。何の力もない一般学生のミュゼだろう!大嘘つきのミュゼだ!」
「うれしいわ!そうよ、その通り!私はあなたに言ったわよね。エルヴァイラになりたいなんて思った事は無いって。」
そこで私は口をつぐみ、大きく息を吸った。
大丈夫、こんな痛みぐらい。
「わたしは!一度だってエルヴァイラになりたいなんて思った事など無いの!ほら、だって、エルヴァイラになったあなたはこんなにも不幸で醜悪だわ!」
私は呪いに塗れた左腕をエルヴァイラに向けて差し出した。
そして、体から力を振り絞って叫んだ。
「さあ!私から全部を奪っていきなさい!私が灰色のミュゼに戻れるように!」
宙に浮いた木片は、私に目掛けて全てが一時に投げつけられた。
私は舞台下に仕掛けていた怨霊体を呼び出そうと口を開けたが、大穴がそこらじゅうに開いた舞台の下が見えた。
奈落に光がさしている事で、奈落の底が見えたと息を飲んだのである。
「ミュゼ避けろ!」
私は自分が奈落の底で見た風景に頭が一杯で、ダレンの叫びを聞くや、呼び出す怨霊体のことなどすっかり忘れて、渾身の願いを込めて叫んでいた。
「ニッケ!助けて!」
私の足元にぐるっと丸い輪っかの軌跡が走り,その後すぐにそこから沢山の水が噴き出した。
全ての木片はその水の柱を突き破ることは無く、ただし、水の柱の中の私は次々に刺さる木片の水しぶきによってびしょびしょに濡れた。
構わない。
ニッケが呼んだ水の柱が海の臭いと塩辛さしか無くても構わない。
じゅううう。
ほら、海水が私に降り注ぎ、私が受けた呪いの痛みを少しだけ冷やして癒してくれたりもしたじゃないか。
ああ、ニッケありがとう。
親友のあなたが私を常に見守っていてくれた事が嬉しいわ。
あなたを見つけちゃったのが奈落の底って所が怖いけど。




