楽園の歌
俺の目の前では俺の愛する女が、たった一人で戦おうとしていた。
それも仕方が無いのだろうか。
彼女が水着の上に勇ましく銀色のマント羽織って出て来た所は、幼い子供がヒーローものの真似をしているようで思わず俺は吹き出した。
俺の大好きなお婆ちゃんの水着も、全身タイツのヒーローの風貌でしかない。
ただし、彼女が一歩前に出た時に、マントが真ん中から割れて彼女の体の線を俺に見せつけたことで俺は笑っていられなくなった。
形の良い小ぶりな胸に歩くのが好きらしい絞まった細いウェスト。
小鹿みたいに真っ直ぐできれいな足。
顔形が変わってしまったが、その肉体はミュゼでしかない。
何度も俺が大好きだと騒いで抱き締めた彼女自身なのである。
俺は彼女と目が合う前に目をそらしてしまった。
最後の記憶が死んでしまった彼女の顔でしかなくとも、俺は最期までミュゼの顔を記憶に抱いていたいのだ。
そう、最期。
悪趣味な権力者たちが用意したこの舞台。
舞台の上に俺は乗ることが出来たが、この舞台は彼女と彼女の敵を戦わせるための闘技場でしかなく、俺の出る幕など最初から用意などされていなかった。
「ハルト、俺達は舞台を降りるぞ。エルヴァイラが俺達の能力をどの距離まで干渉出来るかわからないが、他の出場者だけでも避難させなきゃな。」
ダレンはあのバーンズワースに脳波へのガードをして貰っているらしい。
それでも万が一、エルヴァイラに俺達の能力を使われて悲劇が起きないようにと、彼は俺の腕を引いてきたのだ。
結局は俺は単なる足手まといか?
舞台上に対して観客たちの罵声やヤジは大きくなっている。
それらは全てミュゼに対するシュプレヒコールであり、観客たちは口々だろうが、決まりきった単語しか叫んでいない。
不正女。
卑怯な魔女。
そして、醜い勘違い女。
俺は舞台の真ん中で立つ女、金色の水着にレースとフリルが飾られているベビードールを上に重ねた服装をしている女を見つめた。
彼女はそんな観客達の叫びなど自分のあずかり知らぬところだ、そんな涼しい顔をしているが、時々口元を歪めて笑うのは、いじめを傍観して喜ぶ奴らが見せる醜悪な表情そのものだった。
自分は正義だと言い張るけどね、今の君は人が罵倒されている状況を楽しんでいる悪人としか思えないよ。
この罵りの台詞は、全部君の頭の中にある言葉なんだよね?
一目では美しいと錯覚する左右対称な整った顔。
だけどね、エルヴァイラ。
この世界において、完璧な左右対称は虫ぐらいなものなんだよ?
俺が君に気味の悪さを感じるのは、そんな外見と、一生絶対に理解できない君の思考回路によるものだろうな。
どうして君は自分の醜悪な表情や振る舞いこそを、絶対に顧みようとしないのだろうね。
「ハルト!」
「わかった。一般人の避難が先、だな。」
俺はダレンの言う通りに動こうとした。
しかし動けなかった。
俺の動きを封じたのは俺の愛する女だった。
彼女は両手に持った金の箒?(と彼女は言うが)を大きく振り回し、大声で歌にもならない叫び声をあげたのだ。
「あ~、あなたが戻って来てくれて嬉しいわぁ~。」
どおおん、どおおおおおん、ぶふぉおおおおおおお。
ミュゼの声に呼応するように床が下から打ち上げられる衝撃に大音と俺達をほんの少しぐらつかせ、さらに舞台の床から驚く俺達の周囲で真っ白い煙がそこかしこで吹き出し立ち昇った。
「うお!」
「わあ、ダレン!お前は何て仕掛けを!」
「バカ!ミュゼだろ。畜生、本気であの怨霊体を仕掛けやがったのか。」
「なんの怨霊体?」
「バス事故で全員死んだジャズバンドの奴らだよ!」
ダレンの答えが正しいという風に、舞台に吹き出した白い煙は人型を次々に取り出した。
それから、真っ白い舞台衣装のスーツを着込んだ幽霊たちは、なんと、当り前のようにして自分達の担当の楽器を奏で始めたのだ。
「あいする~あなた~。戻ってくれてうれしいわぁ~。」
ミュゼの大声に演奏の音、それも大きなトランペットが怒りを込めたかのような音を出し、他の楽器だってリズムを失ってしまった。
それらが重なって音程も曲調も支離滅裂となり、それは単なる不協和音の騒音となった。
俺もダレンもその騒音にびくりと猫背になったぐらいだが、そんな俺達の目の前で、紺色の呪いらしき紺色の靄が観客達から吹き出したのだ。
「すごいな、お前が言っていた紺色の呪いが噴き出して抜けている!」
「ああ、凄いな!俺だって今までは聞くだけで見えていなかったがこれがそうなのか!でも、そうか、そういうことか!」
ダレンは掴んでいた俺の腕を放ると、舞台真ん中に走って行った。
そこで何をするのかと見守れば、ミュゼとは違って絶対音感のある男は、ミュゼが歌おうとしていたらしき歌の本当の音程をミュゼの歌に重ねたのだ。
「~あなたが戻ってくれて嬉しいわ
青い空に青い海
あなたがいなければ空虚なだけ
あなたは私が望む全てなのだから~」
すると幽霊バンドは一斉にダレンの伴奏に曲調を変えた。
しかし、観客のヤジは大きくなる。
紺色の呪いの渦巻きは再び力を取り戻していく。
しかし、ダレンはさらに一層声を上げて歌い上げて行った。
「冬には冷たく輝く北の空の星を見つめ~。」
ダレンの素晴らしいテノールは紺色の呪いを動きを再び止めた。
今までエルヴァイラと同じ醜悪な表情に顔を歪めていた観客が、一人、また一人と、ダレンの声と幽霊達の演奏に耳を傾け始めたのだ。
俺はこんな平和的な方法を編み出した恋人を誇らしい思いで見つめた。
君の勝利の為に俺こそやるよ。
ダレンは紺色の魔法の防御壁となるべく歌い続けなければいけない。
俺は彼がしようとしていた事をする。
まずは、罪もなく舞台にあげられた一般人の避難誘導だ。
あなたが戻ってくれて嬉しいわ
青い空に青い海
あなたがいなければ空虚なだけ
あなたは私が望む全てなのだから
冬には冷たく輝く北の空の星を見つめ
夏には真っ赤に花開くハイビスカスの花を摘み
あなたの帰りだけをひたすら待つの
あなたが戻ってくれたら
いつだって私の世界が楽園になるもの
ああ、愛するあなた
あなたが戻ってくれて嬉しいわ
選曲は完璧だよ、ミュゼ。
ミュゼとダレンが歌う曲は、ジャズでは有名な「You'd be so nice to come home to」が元ネタです。メロディはこれを想像していただけると嬉しいです。
※紺色の呪いの設定:魔法使いでも見える人と見えない人がいる。
ハルトには見えていたが、初めて見た様な事を叫ぶのは、紺色が見えたのが初めてではなく、ミュゼが鏡もなく追い払ってしまえることに驚いて。
ダレンの台詞はハルトの言葉を曲解してですが、わかりづらいので台詞部分を修正し、ダレンは曲解ではなくハルトの言葉を受けて対処法が分かったという風にしました。2021/5/4




