九月一日 まずは一声
私はとうとうこの日が来たのだと、ウンザリした気持ちで、懐かしいどころではないスーハーバーの校舎を見上げた。
私の肩にしっかりした男性の腕が回された。
「安心するんだ。僕が付いている。」
「ありがとうございます。」
パブロフの犬みたいにして、いやもう反射的にね、私はバーンズワースに答えていた。
これはもう決まり切った挨拶みたいなものだ。
私は隷属者、彼は支配者、この関係で一々言い返そうなんて冒険は出来ない。
「どうしてショーンには言い返すのに、僕にはいつも従順な振りばかりなんだ?君はショーンよりも僕との時間の方が長いのに、僕には懐いてくれないよね。」
それは、あなたが言う通りに、アストルフォよりもあなたと一緒の時間の方が長かったからです。
ついでに言わせてもらえば、現在の私の生殺与奪権は、アストルフォではなくバーンズワース、あなたにあるのですよね!
私はいつものようにバーンズワースを脳内で罵倒すると、バーンズワースの機嫌を損ねないように彼が望みそうな台詞を返した。
「アダムの言葉を信じてお礼を言っただけなのに。」
「あああ!ごめん!僕が悪かった!ああ、僕はね、ショーンに言い返す、元気で生意気な君も好きだから、僕にもそうして欲しいなって、あの、ちょっとばかし思っていただけだから、だから、今夜はスーハーバー名物の魚介のトマトベース煮込みなんだよ、ね?」
私は本気で驚いていた。
男の胃袋を掴めと大昔から言われているが、私はこの殺人鬼の胃袋を掴んで手懐けてしまったというのか、と。
だが、驚いてばかりはいられない。
スーハーバーでの任務を仰せつかっている上に、バーンズワースの食事事情まで請け負うなんて、モブの私には荷が勝ちすぎるではないか!
「え?私は今日から寮じゃないんですか?寮の門限は厳しいと聞いていますよ。私に寮を抜け出て、あなたの住まう部屋に食事を作りに行けと?百メートル走のタイムが十代の全国平均の私に、寮とあなたの部屋を往復しろなんてひどい事を言うつもりですか!」
「ああ、これだ!ショーンの気持ちが分かった!ウサギにモフモフの足で蹴られた感触だ!」
「ああ、言い返しが欲しかっただけですね。安心しました。」
「うん、安心して。君は寮に住まない。僕の妹って事にしたから、アリス・バーンズワースだ。こっちでも一緒に住むからね、ご飯は頼んだよ。ほら、毎日の報連相は必要じゃないか。」
「え?え?え?」
え、アリス?レイラをいつ取りやめたんだ?
ようやくレイラで反応できるようになったばかりですのよ?私は!
そ、それに、一緒に住むなんて、私はエルヴァイラと戦う予定どころか、このスーハーバで、いえ、怨霊体を作り出して来た紺色のひも状の呪いの謎だって解明しなければいけないのでは?
アストルフォだって、その呪いの根源がスーハーバーにあるらしいからって、子供殺しの任務兼怨霊体探し任務兼呪い探索していたのではなかったのか?
「君が紺色の呪いに囚われないようにってのが理由だね。で、アダム。君の部屋は俺が手配した。三人で仲良く住みましょう。」
私達の真後ろに教師みたいな背広姿のアストルフォが出現し、私とバーンズワースは仲良くひょえっと驚きの声をあげてしまった。
だって、気配なんか何も感じなかったもの。
アストルフォは私どころか自分の同僚まで驚かせることが出来たからか、とっても嬉しそうに顔をほころばせると、さあこっちに、なんて教師風に私達に声を掛けて右手をひらひらさせた。
「学校の先生みたい。」
「学校の先生ですよう。今期からね。そして、君のお兄さんもそう。心理学専攻の哲学だって教えられそうな怖いお兄さんだけどね、運動のお兄さんとして子供達と触れ合う予定。君はお兄さん子で物凄い引っ込み思案ちゃんとして、出来る限り他の生徒と触れ合わないでほしい。特に、ハルトムート君とかロラン君とか、ハルト君ね。」
「ハルトと私が触れ合った方がエルヴァイラをバトルフィールドに引き込めるんじゃないの?」
「戦いごっこをするには君の準備がまだまだ足りない。それに、エルヴァイラのお目付け役がハルト君に潰されてしまった。今のエルヴァイラは導火線が出っぱなしの爆弾だよ。気を付けて。って、ちょっと。」
私は前を歩くアストルフォの背広を掴んで引っ張っていた。
だって、聞き捨てならないことを聞いたのだ。
「ハルトはどんな馬鹿な事をしちゃったの!」
「バカな事って、君を殺された復讐に動いただけだよ。いやあ、意外と男気があって嬉しいくらい。俺は元気な男の子の方が好きだ。元気な方が潰した時にいい声で啼いてくれるからね。」
そう、これだ。
私がハルトが私の為に動いたと聞いて、素直に喜べないのは、アストルフォ!あなたがろくでも無さすぎるからよ!
「大丈夫だよ、アリス。エルヴァイラについていたノーマン君が、ロラン財閥の独居房に押し込められているってだけ。僕達はいつでも彼の救出のためにそこを急襲できる。けれどしていないのはね、ノーマンの為にはそこにいた方が良いとの判断だ。だから、このことでロラン家の誰かが殺される事は無いから安心していいよ。」
体操のお兄さんな爽やかな笑顔で、そんなえぐい事を言わないでください。
私ははあと息を吐くと、顎をグッと上げた。
この二人の言葉に一々翻弄されるな。
虫の羽音か幽霊の戯言だと思い込め、そんな風に自分を叱咤したのだ。
二人は私の頑張りに小さな拍手をして私をさらに苛立たせ、それから何事もなかったようにして再び歩き出した。
「……俺の事を好きだって言ったんだ。」
私の足はピタッと止まった。
だって、この囁き声は、聞きたくもない幽霊の戯言そのものじゃないか!




