復活と生贄
俺は一緒に逃げようと彼女に囁いた。
ミュゼが俺と逃げると言わないと分かっていたから、俺は有無を言わさずに彼女を連れ去ろうと考えていた。
情けない事に、彼女の家族が全員殺されても、俺は構わないとまで思っていた。
いや、自分の両親が殺されるかもしれない、そんな可能性までも俺は受け入れていたのだ。
どうしてここまで彼女を望むのか分からないが、俺はミュゼだけいればいい。
世界がどうなっても、俺はミュゼだけいればいい。
だから、ミュゼを連れて逃げようと思った。
「行くよ、ミュゼ。」
彼女は俺に顔をあげかけ、そこで思いっきり背中をそり返した。
「うわあああ!」
俺も彼女が受けた衝撃のいくらかを浴びており、俺はミュゼを抱き締めたまま、監獄の檻の柵に体をしたたかに打ち付けていた。
気を失いそうなほどの衝撃だ。
だが、俺の腕には守らなければいけないミュゼがいるんだ。
俺は痛みに喘ぎながらも息を吸い、ぼんやりとしてきた風景の中、それでも安全そうな床へと行こうと柵を蹴りつけた。
ずる。
俺の足は完全に萎えていて、俺はそこから飛び上がるどころか、ミュゼを抱いたまま柵のすぐ下の床へと……落ちた。
彼女を腕に抱え、床にぶつかる寸前に、俺は自分の身体こそ打ち付けるようにして身を捩った。
「だ、大丈夫か、ミュゼ。逃げよう。俺と逃げよう。」
俺は起き上がろうとしたが、俺の足は完全に萎えていて、床を爪先でひっかくしか出来なかった。
腕だってどんどんと力が抜けていく。
「逃げようミュゼ、逃げよう。」
俺の腕が抱きしめる、俺の恋人で最愛の人は気を失ったままだ。
このままでは彼女を守るどころではない。
俺は彼女を連れて逃げなければいけないのに。
「せっかくだからさ、二人一緒って考えたのにね。俺の恩情も君に通じなかったか。いや、ミュゼちゃんが全部持っていってくれたのかな。」
床に横たわる俺の顔の直ぐそばに黒い革靴の爪先があり、その爪先を持つ男は俺の上に身を屈めた。
俺は奴から大事なミュゼを守るために彼女をさらに自分に抱き寄せたが、彼女は俺の意に反して俺の腕から逃げてしまった。
ハハハハ、逃げるわけ無いじゃないか。
意識も力も失ったミュゼを、アストルフォが俺の腕から奪い取ったのだ。
俺の役立たずの腕には彼女を掴んでいられる力もなく、俺は大事なミュゼを敵に奪われるに任せてしまった。
「かえ、返してくれ。」
「貰うね。死体は専用の処理をしなければいけないからさ。」
アストルフォの腕の中のミュゼは、がくっと首を傾けて俺の方へ顔を向けた。
これで最後だから俺の顔が見たいという風に、ミュゼの意識のない顔が俺の方を向いた。
柔らかい唇は俺にキスをされたすぐ後みたいにほんの少しだけ開き、両目は驚いたようにぱっちりと瞼を開けている。
黒々とした瞳は空虚で、俺を映し込んでいるだけだ。
「かえ、か、返して。」
「そうだね。一緒に死にたかったね。死んでしまえば一緒かもね。」
俺の額に柔らかいものが当たった。
俺のミュゼを腕に抱いたまま、俺の横にしゃがみ込んだアストルフォが、俺の額にキスをしたのだ。
「ころ、せ。」
「いいよ。王子様。君を殺そう。」
アストルフォは俺にさらに屈みこんだ。
彼は俺を殺さなかった。
俺の耳に俺が簡単に死ねる方法を囁いただけだったが、アストルフォが屈んだために彼の抱くミュゼの頭が俺の胸の上にトンと乗った。
ミュゼの髪は俺の胸の上に広がり、俺は思わず彼女の髪の毛をひと房掴んだ。
「ごめん。ミュゼ。」
「いいよ。これは君達が永遠になるための選択だ。ミュゼちゃんだって許してくれると思うよ。」
アストルフォは俺こそ死んだ遺体の様にして俺の頬を撫でて、それから俺の瞼を彼の手によって塞いだ。
「しばらくすれば体は動く。係留場に行けばモータボートが君を待っている。」
「ハハハっは。俺の生気を吸い取ってエルヴァイラが復活か。あれはどんな化け物なんだよ。」
アストルフォは何も答えず、そして、無情にも再び俺からミュゼの存在を奪い取るようにして立ち上がった。
処理予定だった子供の遺骸でしか無いのに、アストルフォのミュゼを抱く腕は優しいと、俺はぼんやりと考えた。
ああ、ぼんやりだ。
そんな事はもうどうでもいい。
ミュゼは殺されたのだ。
俺の腕の中で。
俺が抱きしめていたその腕の中で。
俺の手に残されたのは、無力でしかない俺がミュゼから奪った彼女のひと握りの髪の毛だけ。
俺は愛する女の形見を握りしめながら、これから愛してもいない女に口づける。




