七話 その人物の名は-罪と罰-
国立医療ウイルスセンター・ゼロに現れる環波は、自分の彼氏である葉生と見知らぬ少女がキスをしている所を目撃してしまった。いや、その爽やかで大きな目のツインテールの美少女としか言えない女を環波は知っている。この美少女については、十代の少年少女ならば知っていて当たり前レベルの存在だからだ。
「葉生。これ、お父さんに渡す荷物」
「あ……おじさんへの荷物って今日だったのか。しかも、何でゼロエリアまで入れるんだよ」
「お父さんが許可したからに決まってるでしょ?」
キスをしていた事に関して何も言わない環波はこのゼロエリアに来れた説明をする。しかし、その目は葉生を見てはおらず浜本美奈だけを見ていた。それを察する葉生はこれから起こる事に対応出来る自信も経験も無い。ただ頭の中で本物の浜本美奈と、浜本美奈にしか見えない環波が無数に浮かんで来てパニックになっている。
(時夫おじさんはここに本物の浜本美奈がいるのに、何で環波を入れるんだよ! これじゃ、俺はどうすれば――)
環波から荷物を渡されたまま何も出来ない葉生は、偽物である自分の彼女の言葉を聞く。
「浜本美奈。まさか貴女も新型コロナに感染してるの?」
新型コロナへの抵抗感か、自分の彼氏とキスをしていた不信感からか少し後ずさる環波は言う。
「コロナは陽性だったけど、今は陰性だし完治したの。だから仕事もしてるし、このゼロエリアにも入れる。そもそも、貴女誰なの?」
「私は橋辺環波。春野葉生と同じ中学校で、葉生は私の彼氏なの」
「ふーん。そうなんだ」
興味が無いような返事をする美奈に環波は続ける。
「それなのに、葉生とキスをした。イケメン俳優と交際してた大人気アイドルだからって、許されないわよ」
「そもそも彼に彼女がいるなんて知らないし。ナオヤはナオヤでいい男だと思うけど、私は自分を愛してくれないとダメだから。ギブだけじゃやってられないのよ」
「は? まだナオヤに気があるのに葉生といるっていうの? 葉生はナオヤに似てる要素は無いし、そもそも芸能人なら芸能人と付き合ってればいいじゃん。無敵のアイドル浜本美奈も、恋愛無双は出来ないのね」
「そもそも貴女はキープでしょ? 浜本美奈が好きな葉生君は貴女みたいな平凡な女は選ばないわよ。負け犬の遠吠えは遠くでしてくれる?」
冷たい美奈の視線は環波の心を突き刺していた。動いた環波は感情のままに手を振り上げた。あっ……と思った美奈は身体が硬直して、その平手打ちを回避出来ない。自分には手を上げる人間なんていないと薄々思っていた美奈は自分に迫る手を待ち構えるように見た。
『――』
バチン……という音が自販機コーナーに響き渡る。床に尻もちをついている美奈は、自分の目の前の人物を見た。その人物の名を美奈は呟いた。
「……葉生君」
「葉生。何で?」
「キスをしたのは俺が悪い。だが、ここで暴力に訴えるのはダメだ。罰を受けるのは俺だけでいい」
環波は美奈に手を上げるが、葉生が守ってしまう。頬を叩かれた葉生に対して、環波は何も言えなくなった。そして、手をあげられそうになった美奈は流石に怒り出した。
「……そもそもラブラビットじゃない人間が何でここにいるのよ! 主任の娘だか何だか知らないけど、早く消えてよ! もう、この男を離すわけにはいかないの!」
「ラブラビット? 何の話?」
不意に出たラブラビットという単語に環波は反応した。これ以上の会話はマズいと思った葉生は動く。
「環波。それは後で話す。この荷物は時夫おじさんに渡しておいてくれ美奈ちゃん。いいね?」
「……わかったわ」
じっ……と葉生の顔を見た美奈は、了承する。環波の手を引いた葉生は言う。
「環波。上に行こう」
「わかったわよ」
と、葉生の手を振り解いた環波はチラッと美奈の方を見てから葉生の後を歩く。ゼロエリアからエレベーターで地上へ出てから、外の院内公園のベンチに座る。
『……』
少しの沈黙の後、葉生は彼女である幼なじみの環波に声をかけた。
「すまんな環波。実はゼロで出会った本物の浜本美奈を見て舞い上がってたんだ。キスをしたのも、全ては俺のせいだ」
「いや、あれは私も悪い。まさか自分が恋愛であんな事をするとは思わなかった。水泳部の恋愛でダメになる選手をバカにしてたのに……」
自分を責めるような環波に、葉生はかけてやれる言葉も無い。気まずい雰囲気が漂う中、環波は一つの事に気付いていた。
「ねぇ、何で葉生の目はそんなに赤いの? それがさっき言ってたラブラビットというのと関係あるの?」
「こ、この目は……」
もう、ラブラビットという単語を知られている以上誤魔化しは通じない。同時に、ラブラビットの真相を知ってしまったら環波の心は壊れてしまうかも知れない。ゴクリ……とツバを飲み込んだ葉生は自分を見つめて来る浜本美奈の顔をした橋辺環波に対して口を開いた。
「ラブラビットというのは……」
「ラブラビットというのは?」
中々、葉生の口から次の言葉が出ない。まだシラを切るつもりかと苛立つ環波はにじり寄ろうとすると、背後から聞いた事のある声が聞こえた。
「ラブラビットは他人認識症候群。そうよね? 橋辺主任?」
『――!?』
二人の男女は振り返る。
そこには、ゼロエリアにいた浜本美奈とゼロ主任である時夫が現れた。まさか、こんな形で娘に対してラブラビットの説明をしようとは思わなかった。この説明をしたら、ラブラビットに感染してる葉生が自分を誰と認識していたのかを知ってしまう事になる。
「……環波。落ち着いて聞いてくれ。他人認識症候群のラブラビットとは、現在日本では春野葉生と浜本美奈にしか症状が確認されていないものだ。そして、そのラブラビットとは近い人間を、自分の好きな人間の顔として認識してしまう新型コロナウイルスの後遺症でもある」
そこで、時夫はラブラビットの説明をした。美奈からキスをしている所を目撃され、更にラブラビットの事も知られた。時夫は自分が地上に上がるのが面倒でゼロエリアに呼び寄せた事が、こんな結果になるとは思ってもいなかった。だが、こうなってしまった以上は、実の娘に全て説明するしかない。
『……』
全てを知った環波の目には涙が出ていた。美奈は無表情であり、時夫はベンチに座り項垂れており、葉生も黙ったままだ。涙声の美奈はようやく言葉を紡ぎ出した。
「新型コロナウイルスの後遺症であるラブラビット。感情の高まりからウサギのように目が赤くなり、他人を好きな人間として認識してしまう症状。つまり、葉生は私を好きな誰かとして見ていたのね……橋辺環波ではない女を……」
「……そう……だ。俺は環波を他の誰かとして認識してた。そして、そのまま環波に告白した。
「じゃあ、その人間の名前を聞かせてよ。橋辺環波を誰として認識して、キスまでしたのかを」
環波は近くにいる浜本美奈を一切見る事は無い。真剣に、真っ直ぐ春野葉生を見ていた。美奈も時夫も葉生の言葉を待つ。意を決した葉生は、その人物の名を告げた。
「俺のラブラビットは橋辺環波をアイドルの浜本美奈と認識していた事。ずっと、環波とは浜本美奈としてキスをしていた」
ベンチに座る時夫は頭を抱え、腕組みをする美奈は葉生を無言のまま見ている。真実を話されても、表情を変えない環波はややかすれた声で話す。
「葉生の隣は、私だって勝手に思い込んでたんだよ……ずっと一緒だったし、私は最後には葉生と一緒になると思ってた。それがやけに早くなってしまったけど、葉生も思春期で自分の手の届く人間を見る事が出来たんだなと思った。けど、違った」
「……」
「葉生は私じゃなくて、ずっと彼女を見ていた。彼女と話して、彼女と笑って、彼女とキスをした」
「……」
「初めから私なんか存在してなかった」
瞬間、葉生の全身に衝撃が走った。
葉生は幼なじみである環波の涙を初めて見た。今まで、悔しい事があっても涙は決して流さなかった。子供の頃海で転んで膝を切ってしまった時も、水泳部でレギュラー落ちした時も、肩のケガのリハビリに耐えている時も――。
(環波……俺は環波を……環波だけを――)
その涙は――数多の浜本美奈の幻影を打ち砕いた。
ようやく、葉生は人間として、男として大事なものに気付いた。
それは、ラブラビットの覚醒でもあった。
「ようやく気付けたな。俺は環波が好きだ……けど、もう俺には環波の顔が見れない。見る権利も無い。ゴメンな……これはラブラビットのせいじゃ無い。全て俺の中途半端な欲望が招いた事だ。本当に好きな女に気づいたのに……俺は……」
葉生の中で数多の浜本美奈が存在しており、その中には橋辺環波は存在していない。新たな覚醒をしても、人間は、人類はまだこのラブラビットという他人認識症候群に対して何の対策も打てていない状況だ。
見えない人間を愛するようになれた覚醒は人間に対して罰を与えるように動き出す。
その場にいた人間達は、この少年の変化に驚いた。大粒の涙を流す環波は呟く。
「葉……生……」
目から赤い涙を流す春野葉生は倒れた――。