8:黒犬
鈴鹿の何が気に入ったのか、晴縁がたびたび会いに来るようになった。
「陰陽師って、暇なの?」
「暇ではないな。星を読んだり吉凶を占ったり、なにかと忙しい」
「そのわりにしょっちゅう来るけど」
「うむ。一つには主上が女御の様子を知りたいと我儘を言うからだ。二つには、俺がそなたに会いたいからだな」
ぬけぬけと言う。
ようするに帝の用事を口実に仕事をさぼってるだけか、と鈴鹿は判断した。
「そういえば、今度の祈祷には主上も来るんだって」
「そろそろ産み月だ。恋しい女御に会いたくなったのだろうよ」
鈴鹿は膝の上に乗り、じっと一点を見つめている白玉を撫でた。
「最近、白玉が怒りっぽいの。こうしてじっと睨んでいる時は、たいてい蛇がいる」
だが、蛇に向かって威嚇はしないのだ。興奮に目を真ん丸にして尻を振り、大喜びで襲い掛かっている。
「蛇?」
「うん。大きいやつは私が仕留めるけど、気がつくと獲ってるわ」
蛇って首がなくてもしぶといよねぇ。鈴鹿の色気のなさに苦笑した晴縁は、ふと真顔になった。
「蛇か……」
「どうかした?」
「蛇は女の嫉妬の象徴だな。さて、いずれの姫が我が銀の鈴を妬んでいるのやら」
「銀の鈴?」
自分が誰かに嫉妬されているとは思えないが、銀の鈴が自分のことであるのは鈴鹿でもわかる。眉を寄せる鈴鹿に、晴縁はいつもの笑みを向けた。
白玉がとうとう興奮して庭に降りた。
「銀の鈴は魔除けとなる。悪しきものは近づいてこれぬ」
これは陰陽師なりの褒め言葉なのだろうか。鈴鹿は白玉の後を追いかけた。
やはりというか、蛇が桂の木に絡みついている。大興奮の白玉が木を駆け上り、蛇に向かって飛びついた。
ぼとっと地面に落ちた蛇の首を掴み、鈴鹿は腕に絡みつこうとする胴体を木に叩きつけた。弱ったところで頭と胴体を切り離す。
「……流れるような動きだな」
「もう慣れたわ。食べていく?」
晴縁は綺麗に切断された蛇の頭を抓み上げ、袂にしまった。
「うむ。馳走になろう」
それどうするの、と訊こうとした鈴鹿だが、いつまで経っても呪だの式神だのとこじらせている晴縁のことだ、ろくな答えは返ってこないだろうと思い、止めた。
「じゃ、焼いてくる」
獲物を取られて不満そうな白玉の頭を一撫でして、鈴鹿は厨に走った。
残された晴縁は蛇の頭を入れた袂を揺すると、瞼を閉じ、鈴鹿の後を追う白玉の目に目を合せる。
「やれ、女は怖いな」
ふふふ、と笑うその顔は、言葉と合致しなかった。
鈴鹿が厨に着くと、料理番がまたかという顔で振り返った。
「こんにちは。ちょっと使わせてくださいね」
「鈴鹿ちゃん、また蛇かい」
「今日のは大物だよ」
慣れた手つきで鱗を取って皮を剥ぎ、捌いていく鈴鹿に料理番はやれやれと首を振った。料理番も慣れたが、まったく嬉しくない。
「よく飽きないねぇ」
「鰻みたいなものじゃない?」
「そうか?」
開いて串に刺し、塩を振って火で炙る。じゅわ、と脂が溶け出し肉の焼ける匂いが漂った。
蛇だから鈴鹿以外は食べないが、実は肉はごちそうである。僧侶か熱心な仏教徒でもない限り、わりと食べられている。ただし、女性の間では生理的な嫌悪感から食べない者が多かった。代わりに食べられているのは蘇や、醍醐といった乳製品だ。
猟師は忌み職であり、穢れているとされている。鈴鹿のように自分で仕留めた獲物は自分で食べる、という女は他にいないと断言できた。料理番は蛇でさえなければご相伴にあずかりたいと思っている。
「白玉?」
鈴鹿の足元に擦り寄り分けてくれとおねだりしていた白玉が、何かに威嚇している。
鈴鹿は串を皿に置き、窓から外を警戒した。
「鈴鹿ちゃん?」
「これ、借ります」
鈴鹿は蛇を捌くのに使った小刀をソレに向かって投擲した。同時に白玉が飛び出す。
「せぃっ」
外に出た鈴鹿は白玉が威嚇している先に向かって残りの串を投げた。いつもの倍ほどにまで毛を逆立てた白玉が、逃げるソレを追いかけていく。
「鈴鹿、どうした」
ただならぬ気配に晴縁がやってきた。が、かまっている場合ではない。
「犬だ! 晴縁殿!」
「犬!?」
鈴鹿の視線の先、白玉に追いかけられ女御のいる対屋に向かって、黒い犬が走っていた。時折挑発するように振り返り、鈴鹿を見て笑っている。
「……っ、こんちくしょぉぉおっ!!」
鈴鹿が袂から何かを取り出して、渾身の力で投げた。
ギャン!?
白玉に命じて犬を捉えようとした晴縁の目が点になる。
黒い犬は怯えたように尻尾を丸め、萎んで消えていった。
「ちっ、犬だけあって逃げ足が速い」
とにかく女御の元へ行くのを阻止しただけでも良しとしよう。目の前で消えたというのに、鈴鹿はいっさいかまわずに舌打ちした。
「す、鈴鹿や。あの犬は……。いや、何を投げたのだ?」
「さっき食べた桃の種」
桃は霊果であり、破邪の実である。鈴鹿は美味そうになってると思い、捥いで食べた。ばれたらまた稲子にお小言を食らうと種を隠したのだ。
思いがけない最適解に、晴縁はどっと力が抜けた。
「鈴鹿、何かあったのか?」
「賊が出たのか?」
「秀兄、透兄」
騒ぎを聞きつけた秀鷹と透頼が遅ればせながら駆けつけてきた。晴縁がいることに驚き、頭を下げる。
「黒い犬が出たんだ。最近女御様がお悩みのやつかもしれない」
「犬だと? 本当にいたのか?」
「女御様が寝ぼけてたわけじゃなかったか」
桃の種を拾った晴縁が周囲を見回し、白玉を肩に乗せた。
黒い犬は、最近蓮華が脅えているものである。
はじめは、夢だったそうだ。黒い靄のようなものの中から、光る眼がこちらを見ていると言っていた。そのうちに黒い靄が近づき、犬だとわかるようになっていったという。
夢とはいえ毎晩魘されている姿は忍びないと、夜は稲子が付き添うようになった。魘されるたびに蓮華を起こし、物語や帝から毎日届く文を読み聞かせ、安心させてから眠らせている。
健康な稲子でさえこうも続くと体が辛い。まして蓮華は腹が張るし、精神的にも不安定になり、物音にも怯えるようになった。
気晴らしにと庭を眺めていれば突然「犬がいる」と叫び、隙間などの影にさえ「犬が覗いている」と怯えて泣き出す始末である。
すっかり弱ってしまった蓮華は眠ることもままならず、このままでは蓮華のみならず赤子まで危険な状態だ。
蓮華の父である大納言はあちこちの寺に祈祷に行こうとしたが、なぜか毎回どこかの家が先に参拝に来ていて、しかも行列を作って大納言が辿り着けないようにしてくる。ようよう着いたところでもう遅いからと門前払いされてしまうのだ。ならばと早朝から行っても先約があると追いやられ、祈祷を受け付けてもらえない。
十中八九、右大臣の差し金だろうが、人の子の親なら娘と孫を思う気持ちを理解してくれても良いではないか。さしもの大納言も悔し涙を零していた。
今回の加持祈祷も、安産祈願の名目だが帝が蓮華の不在に堪えかねて、と表向きは思わせている。
実際は、晴縁が白玉の目を通して見たことや、鈴鹿から聞いた話を伝え、これはもう予断ならないと判断した帝が自分を囮にすることにしたのだ。
更には左大臣から右大臣に怪しげな動きありと報告が来ている。実力行使か、呪か。愛する女を守るために、帝は右大臣と対決する決意を固めていた。
「野犬にしては賢そうだった。どこかの家で飼われている犬かもしれない」
「あれは犬神だな。なかなか厄介な呪を作りよった」
唯一黒い犬を目撃した鈴鹿が秀鷹と透頼に考察を述べる。晴縁がどこか感心したように教えた。犬神であれば人に飼われているともいえるし、主には忠実で命令には絶対だ。
「わざとらしく姿を見せて、挑発するような行動もとっていた。人を誘き寄せて女御様のお側を手薄にしようとしたのかもしれない」
鈴鹿は晴縁を無視した。今は物の怪をこじらせた陰陽師にかまっている場合ではない。女御と御子の命を守るのが最優先だ。
「俺たちが女御様の御前に侍るわけにはいかないし……」
「毒餌で仕留めたらどうだ?」
「それじゃあ黒幕がわかんないよ。安心したところで次の犬を送られるのがおちだ。できれば生け捕りして、飼い主のところまで案内させたい」
源三兄妹は晴縁そっちのけである。鈴鹿は日々弱っていく蓮華を見ているだけに、怒り心頭だった。
「女御様がお可哀想だ。主上にお会いできず、お一人で堪えておられて……。薬師の話だと、御子様が生まれても女御様は危ないって」
ただでさえ出産は命がけだというのに、精神的に追い詰められた蓮華は食事も喉を通らないほどだ。体力がもたず、万が一のことは覚悟した方がいいと薬師に忠告されていた。
「だいたいあの薬師もなんだよ。弱ってる女御様に余計なこと言って」
「それは言える」
「不安を煽ればそれだけ呪が効きやすくなる。女御の不安に犬神が反応しているのだ」
「晴縁殿、今はそういうのいいから」
「晴縁殿空気読んで」
「だったらお得意の手妻で女御様の気晴らしでもしてあげてよ」
たたみかけるように否定され、晴縁のこめかみが引き攣った。
妖の類をまったく信じない鈴鹿にも見えたのだから、犬神はそうとう力をつけてきている。いくら鈴鹿たちが具体的な対策を取ったところで、すり抜けられてしまうだろう。
晴縁は鈴鹿を見た。真剣な表情で二人の兄と話をしていた鈴鹿が視線に気づいて顔をあげる。
「どうしたの?」
「いや、なに。やっと俺の出番かと思ってな」
麗しい微笑を浮かべた晴縁を胡散臭そうに見つめ、鈴鹿は腕を擦って一歩下がった。
晴縁は傷ついた。




