4:晴縁
やっと晴縁登場!
夜、とある屋敷で、一人の男が鈴鹿とまったく同じことを言っていた。
「莫迦だろう、お前」
いや、鈴鹿が疑問形だったのに対し、男は断言している。いずれにせよ不敬極まりないことに変わりはなかった。
「面目ない……」
言われた男のほうはちいさくなっている。肩を丸め、うなだれている姿はまさにしょんぼりといった様相だ。
「女御も気の毒に。まさか信頼する男に背中から撃たれるとは思わなかっただろうな」
「晴縁、だからこうして頼みに来たんじゃないか」
晴縁と呼ばれた男は切れ長の目をスッと細め、男を睥睨する。
「お前には自覚が足りん。春宮時代のようにはいかんのだぞ」
男――帝は、友人である晴縁にそう言われると、淋しそうな目を庭に向けた。
見事な庭である
一見手入れがされていないようだが、四季それぞれに花が咲き、花が終われば実が成り種になり次の芽を伸ばせる。生命の循環がここにはあった。生と死であり、陰と陽である。
「わかっている」
「わかっているなら、いい」
帝という、この国の最高位にありながら、この男は何ひとつ自由を許されていないのだ。惚れた女を中宮にすることも、表立って守ってやることもできない。
憐れだ、と晴縁は思う。臣下として帝を諌めるべきだと思うが、友情が彼をためらわせていた。
友が臣下になったせつなさは、晴縁には理解できない。せいぜいがこうして帝の泣き言を聞いてやるくらいだ。
「幻惑香は焚いてあるが、あの女房には効かなそうだ。内裏に戻る時は気を付けろよ」
「女房?」
帝は考えるそぶりをした。女房と言われても、多すぎて誰のことだかピンとこない。
「蓮華姫のところの、鈴鹿とかいったか。左近少将の姫だ」
「ああ、あの女房か。なぜだ? 彼女は耐性でもあるのか?」
「逆だ」
晴縁が苦く笑った。
「まったく信じていないんだ。神や仏はもちろん、妖も。あの娘にとって、目に見えないモノは信じるに値しないらしい」
「それでなぜ効かんのだ」
心底不思議そうな帝に、晴縁は冷めた目を向けた。
瑠璃の杯に酒を注ぐ。
西の砂漠をはるばる渡ってきた、葡萄の酒だ
宇宙に広がる星空、そこに救世主の血が浮かんだ。
「いいか、××」
晴縁が呼ばれなくなって久しい帝の名を呼んだ。ずいぶん遠くなった真名に、帝が涙ぐむ晴縁は見なかったふりをして続けた。情に篤いようで引き摺られることのない、陰陽師とはちょっぴり薄情なのである。
「ここに、唐渡の酒があるな」
「うん」
晴縁が酒を飲み干した。慣れない酸味に眉を寄せ、喉を通り抜けた果実の香りにうっとりとした息を吐いた。
「飲んだぞ」
「そうだな」
「実はな、今のは蛇の血だ」
「えっ!?」
帝は自分も注ごうとしていた酒を手放した。生理的な嫌悪に、晴縁から心持ち身を引く。
予想通りの反応に、晴縁が笑った。
「信じたな?」
「うん?」
再度、晴縁が赤い液体を瑠璃の杯に注ぎ、そっと口に含んだ。薄い唇に朱が乗り、艶やかな舌が舐めとった。
「……嘘か」
「まあな」
まったく悪びれない晴縁に帝がため息を吐いた。
「だが、一瞬でも信じただろう。呪や妖に必要なのは、その思い込みだ」
「思い込み? では、お前の術は本当はまやかしなのか」
「そういうわけでもない。お前が今、この酒が蛇の血であると思い込んだ瞬間、これは真実蛇の血であった、ということだ」
「だが、嘘なんだろう?」
「試してみるか?」
晴縁が赤い液体で満たされた杯を帝に差し出す。
「蛇の血か、唐渡の酒か。飲めばわかるぞ」
「…………」
帝はためらった後、杯を受け取った。
目を瞑り、思い切って煽る。なるべく味わわないよう、喉の奥に流し込み、呼吸も止めて嚥下した。
「……っ、げほっ」
飲み込むことを拒否した喉から逆流し、帝は盛大にむせかえった。あわてて懐紙を口元にあてる。鼻の奥がつんと沁み、何度も咳きこむ帝をやっぱりなと言わんばかりの目で晴縁が眺めていた。
「お前はあいかわらず度胸が足りん。少しはあの女房を見習ったらどうだ」
「ひ、どい、ぞっ、ハル……っ」
げほっと咳きこみ、涙目になって睨むも晴縁はどこ吹く風だ。むしろ情けないものを見る目になっている。
「あの女房だったら俺が蛇の血だと言っても信じず、飲んでみればわかると自ら飲むだろうよ」
なにしろ晴縁が偵察のために送った式神を、矢で撃ち抜いてくれた女だ。
昴宿殿の女御に懐妊の兆しがある、という知らせを受けた晴縁は、帝であり友でもある男の頼みで昴宿殿を式神に見張らせていた。
あの夜、鈴鹿の部屋に秀鷹と透頼が来た時も、女房の元に兄弟が機嫌伺に行くのは珍しくないと放っておくつもりであった。
ところが鈴鹿は兄が持ってきた服――狩衣に着替えると、あろうことか後宮を抜け出したのだ。それも、弓矢を持って武装してだ。
何が目的だと訝しんだ晴縁は、好奇心と使命感で式神に後を追わせた。いったい何をするつもりかと見ている晴縁の前で喜々として鹿を狩り、式神に気づくと矢を射ってきたのである。
本物の式神は一体だけだったが、内裏にいた鼠を操って包囲させたのはちょっとした悪戯のつもりだった。少しびびらせて夜中に出歩くと怖い目に遭うのだと教えてやろうとしたのだ。
それが、どうだ。鈴鹿は複数の目から本物を見抜き、正確に射抜いてきた。寸前で慌てて解除したので晴縁に害はなかったが、あのままだったら式神の傷が返ってきただろう。
残念ながらその夜はそこまでだったが、帝に報告し、後のことを聞いてみると、鈴鹿は怖がる様子もなく、まったく悪びれてもおらず、あっけらかんとしていたという。
「いや。……あれは見習ったらいかんと思うぞ」
思い出したのか帝が遠い目でしみじみ言った。左近少将の娘とはいえ、限度があるだろう。
「図太くなれと言っておるのだ。昴宿殿の女御はお前だけが頼りなのだぞ」
「稲子にも言われた。身分が低いとはいえ大納言家だ。あそこまで妬まれるとは思わなかった」
「甘いな。家の問題など二の次だ。女御になれば自由に恋人を作ることもできん。お前一人を複数の女で共有しなければならんのだ。頭は割り切っていても、感情はそう上手くはいかんだろう」
「蝉時雨も蛍風も、私を愛してなどいないよ」
「道具扱いを甘んじて受け入れていたのは、釣り合いが取れていたからだ。昴宿殿の女御がそれを崩した。帝が一人を寵愛できるのなら、自分でも良かったのではないか。そう思うのは悪いことか?」
「道具扱いの最たるは私だ。この国の帝でありながら、何ひとつとして思い通りになったことはない。蝉時雨の産んだ子は愛しいが、その母を愛しているかどうかは別だ」
帝の声には悔しさが滲んでいた。
先帝の第一皇子として生まれ、春宮になり、蝉時雨を妃にした時。政略結婚の道具になった彼女に同情した。だが蝉時雨は右大臣家の一の姫として中宮になるべく育てられたためか、何の疑問にも思わないようであった。愛されて当然、という傲慢さが態度にも言葉にも表れていた。
右大臣家がいなければ国が乱れる。それがわかっているから帝は我慢した。子ができないのを幸いと右大臣家との均衡のために左大臣の姫を入内させ、右大臣家の勢力を徐々に弱めていくつもりであったのだ。
「あの男は狡猾な蝮だが、父親でもある。口を慎め」
「お前の前でもか」
「口に出さずともお前の顔色を窺って先回りしようとする奴はいくらでもいる」
蛍風との間に先に男子が生まれた時、ほっとしたのだ。これで右大臣家を抑えることができると。
だが帝を嘲笑うかのように皇子は死んでしまった。
表向きは病ということになっている。だが、殺されたのだと帝は確信していた。皇子が倒れる数日前、出産と赤子の夜泣きに参っていた蛍風へと、蝉時雨から蜂蜜が届けられている。
「……宿下がりをさせたいと稲子に言われたよ」
「賢明な判断だな」
蜂蜜に毒が入っていたのだ。そう思って調べさせたが、蜂蜜を食べていたのは皇子だけではなく、蛍風もだった。蛍風の体調はむしろ良くなったのである。疑惑は解明されることなく謎のままだ。
「蓮華姫を宿下がりさせたとて、大納言家に出入りするすべての者を調べておかんと安全とは言えんな」
「あの女房に食材を獲って来させるか?」
「肉ばかりの食事になるぞ」
帝の命令だと、大義名分振りかざして大喜びで山に川に狩りに行くだろう。簡単に想像できてしまい、帝は頭を抱え、自分で言っておきながら晴縁は声をあげて笑い出した。