3:帝
帝が北斗殿に通うのは、女御に会うためではなく皇子に会うためだというのは、周知の事実だ。
我が子は可愛い。だが、この子と引き換えに第一子は命を落としたのだという思いが、帝の心に暗い影を落としている。
「ちちうえさま」
帝を見つけて嬉しそうに笑い、おぼつかない足取りでよたよたと歩き寄って来るのを見るたびに、そんなことを考えてはいけないと帝は自分を戒める。亡くした子もこのくらいの時があったのだ。思い出してはため息が漏れた。
皇子目当てとはいえ帝が北斗殿に足しげく通ってくるのは自尊心を満たすのか、父子が戯れる姿を女御も微笑んで眺めていた。
「主上、この子を春宮にするのはいつごろにいたしましょう?」
皇子が生まれてから、二人の会話といえばこればかりだ。帝に子が一人しかおらず、しかも男子では当然といえる。
だが、帝は毎回言葉を濁し、確約を与えることはなかった。
「まだ、先になる」
「まあ。いつまでも春宮が不在では、民が不安がりましょうに」
帝には弟がいるが、いずれも病がちで、とても春宮にはなれそうもない。帝が天子になって以来、春宮は空位のままだった。
かつてない事態である。通常なら春宮時代に子供を設け、帝になれば春宮も同時に決定される。だが今上帝は春宮時代に子ができず、帝になってやっと授かった子も亡くしてしまった。
「この子がもっと育ってからだ。今は元気でも、子供は何が起きるかわからないからな」
暗に早世してしまった子のことを言えば、さすがにこれ以上言うことはできないのか女御が黙り込んだ。
せめてあと一人、子が欲しい。女御は切望しているが、帝は皇子には会いに来ても、夜のお召しはさっぱりなくなった。北斗殿だけではなく恒星殿もだからまだいいが、それでも昴宿殿の女御ごときに帝の寵愛が独占されているのは許せなかった。
「ご心配でしたら御子をもう一人でも二人でもお作りになればよろしいですわ」
女御の機嫌が悪化したことを敏感に察知した女房が、いらぬ気を利かせた。ようは帝にもっと女御を誘えと言っているわけだが、帝にしてみれば嫌味でしかなかった。
「……そうだな」
帝がうなずいた。
女御と女房が嬉しそうに笑いあったのを見て、どす黒い感情が込み上げる。帝は微笑を浮かべた。
「幸い昴宿殿にその兆候がでている。あなたもよくいたわってやってくれ」
女御と女房の顔色がさっと変わった。
帝の笑みが、酷薄なものに変化する。
帝は直後にしまったと後悔したが、言った言葉は取り消せない。立ち上がり、不思議そうに見上げてくる皇子の頭を撫でてやり、北斗殿を後にした。
***
稲子から蓮華の護衛を厚くしろと言われ、事の次第を聞いた鈴鹿は、額を押さえてひと言。
「主上って、莫迦なんですか」
不敬極まりない感想を言った。
正直すぎる鈴鹿に「それな」とは言えない稲子は焦って周囲を見回した。幸いなことに誰もいない。むやみに蓮華を怖がらせてはと人払いしたのは稲子だった。
「これ! そんなことを言うんじゃありません!」
「だって稲子様。こっちがあれだけ気を使って他の女御にばれないようにしてたのに、帝のせいでだいなしですよ」
「おそらく帝にはふかーいお考えがおありなのです」
「考えてたらあてつけみたいな皮肉言いませんよ」
「……主上におかれては、あえて他の女御様に知らせることで、蓮華様をお守りしようと思われたのだわ」
「だったらなんで警護を厚くしろなんて言うんですか?」
「そ、それは、ほら、あれよ……」
じとっとした眼差しの鈴鹿から逃げるように稲子は目を反らした。
他の女御に蓮華が懐妊したことを察知されれば、必ず嫌がらせが激化するだろう。今でさえいじめと悪阻で弱っている蓮華が、堪え切れるとは思えなかった下手をすれば蓮華の身も危うくなるのだ。そのため昴宿殿では知られないように細心の注意を払っていた。
それを、余計なことしやがってあのやろう。鈴鹿は心の中で帝を罵った。
「とにかく」
鈴鹿はため息と同時に内心の苛立ちを吐き出すと、乱暴に頭を掻いた。
「これからは女御様のお食事は、厨の食料から私が調べます。毒味役もいつもの女房だけではなく稲子様もなさってください」
「どうして私が」
食材から鈴鹿が見張っているのなら安全だろうという稲子に、鈴鹿は首を振った。
「毒味の段階で毒を混入されるかもしれません。他の女房は、言い方は悪いですがしょせん雇われ。女御様を妬んでいる者もいるでしょう。北斗殿か恒星殿に内通、あるいは買収されるかもしれません」
「あ……っ」
内通者については思い当たるふしがあったのか、稲子が蒼ざめた。
女御になったとはいえ蓮華は大納言家の姫で、立場は弱い。入内前から仕えていた女房は稲子を含めて五人ほどしかおらず、他は新しく雇った者たちだ。昴宿殿に入る際に雇った者もいる。どれもそれなりの家の姫だが、右大臣家の意向で雇われた者もいるのだろう。
女房の数も女御の権勢と思われる。多ければ他の女御から何様のつもりだと嫌味を言われるし、逆に少なくてもこんな姫がと嫌味を言われるのだ。
蓮華を守るために大納言もあれこれ手を尽くし、帝も心を砕いているが、この女の陰湿さは女にしか理解できないだろう。稲子にしても、物語に共感はできても現実となると実感が湧かないのか、どこか鈍かった。
「言ってしまったものは仕方がありません。万が一の時はお産まで宿下がりすることも考えて、女御様をお守りしましょう」
「そうね。まず姫様に心身共に健やかにすごしていただかなくては。御子様も危険だわ」
蓮華のことだ、帝のお召しによる道中で物の怪騒ぎでも起きようものならひっくり返ってお腹を打つかもしれなかった。
「私では主上に直言できません。稲子様、宿下がりのことも含めて主上にきっちり伝えておいてください」
「わ、私が!?」
「主上は女御様を宿下がりさせたがらないでしょう。女御様も強くは言えないでしょうし、ここは稲子様の出番です。女御様と御子様の命がかかってるんですよ!」
帝にとって蓮華は安らぎだ。宿下がりとなれば気軽に会うこともできなくなる。帝が御所から離れるとなると雑多な手続きが必要になり、もはや行事になるからだ。
また、蓮華が昴宿殿を出れば、その隙に他の姫を女御入内させようと画策する者が現れるだろう。右大臣家にはまだ未婚の四の姫、左大臣家にも未婚の二の姫がいる。いつの時代でも妻が妊娠して寂しい男は狙い目だ。戻ってみれば蓮華の居場所がなかった、などという事態は避けたい。
宿下がりは良いことばかりではないのだ。帝の御子が生まれ、もしも男子であれば権力を得ようとする者たちが裏で動き出すだろう。右大臣に抑圧されている家が大納言を唆し、御子を担ぎ上げでもしようものなら、右大臣が静観しているはずがない。
稲子は蒼い顔をしながらも、しっかりとうなずいた。
「そうね。後のことは御子様が無事に生まれてから考えればいいわ。まずは主上に、もっとしっかりしていただかなくては」
「女御様もですよ」
「わかってるわ。鈴鹿、あなたも頼むわよ」
「はい」
子供を政争の道具にしなければならないなんて、雲の上のお方は大変だ。ぼんやりと思った鈴鹿は、いつの間にか自分も渦中に巻き込まれていることに気づき、顔をしかめた。
「やばい。他人事じゃなかったわ」
蓮華も稲子も、鈴鹿にとっては守るべき良き友人だ。鈴鹿は頬を叩いて気合を入れ直した。