2:女御・蓮華
昴宿殿の女御・蓮華は大納言家の姫君である。
北斗殿の蝉時雨、恒星殿の蛍風に比べると位が低い。蓮華は入内当初、帝の寝所がある天元殿からもっとも遠い、客星舎にいる更衣の一人にすぎなかった。
そんな彼女が帝の寵愛を受け、昴宿殿に入ることになったのは、帝が蝉時雨と蛍風の争いに疲れたから、それに尽きるだろう。
二人の女御がいることで右大臣家と左大臣家の政治的均衡がとれているのは帝も理解している。だが第一子であった皇子が死に、気落ちしている間にも後宮で争いが繰り広げられては誰だって嫌気がさすだろう。
皇子の死亡時期もまた、帝が二人から離れる原因のひとつであった。
恒星殿の女御との間に生まれた皇子が三歳の頃、ちょうど北斗殿の女御が懐妊したのだ。
恒星殿の皇子が死に、北斗殿に皇子が生まれた。
疑惑にすぎない。確たる証拠はどこにもなかった。北斗殿の女御は気位が高く、たびたび癇癪を起こして帝を困らせたが、少なくとも人の命を――幼い子供の命を奪っておいて、平然と自分の子を育てられるような女ではない。政略結婚とはいえ帝もその点では彼女を信じていた。
だが父親の右大臣は権勢欲が強く、傲慢で、彼ならやりかねないと誰もが考えた。疑惑を知っていながらなおも強気でいられる無神経さが拍車をかけた。
一方の恒星殿の女御も我が子の突然の死に悲しみ泣き崩れたが、こうなってしまっては早く次の子をと帝にねだるようになった。
まさかここまでするとは思わなかったという油断もあるが、皇子を守れなかった後悔に暮れる帝をせっつく恒星殿から足が遠のくのは当然であろう。
そんな時、ただひっそりと皇子の死を悼み、帝に寄り添ってくれたのが蓮華だったのである。
父親として我が子の誕生を喜べない哀しみと、父親として我が子を喪った悲しみと憤り。父親失格だと暗い影を落とす帝に蓮華はヘタな慰めなど言わず、ただ寄り添って話を聞いた。何をどうしたところで死んだ者は生き返らず、生まれた子は春宮候補である。疲れた時にそっと身を休める止まり木、それが蓮華だった。
やがてゆっくりと帝は立ち直った。ひと言も帝を責めず、帝と同じ気持ちで支えてきた蓮華を愛しく思うのは、むしろ当然のなりゆきだろう。なにより蓮華は、無害であった。
幼い皇子がいる北斗殿と、皇子を喪った恒星殿を気づかって、という建前はあったが、蓮華が帝の寵愛を得たのは誰の目にも明らかになった。やがて蓮華が昴宿殿を与えられると、いじめが表面化した。
女というのは共通の敵が現れるとたとえ敵対していても一致団結して手を組む。共通の敵が女ならばなおさらである。女御たちが何も言わなくても主人の意を汲んだ女房たちが動いた。蛇も鼠も汚物も、聞こえよがしな罵倒も、すべて女房たちの仕業、独断専行である。畏れ多くも女御様が、そのようなことを指示するはずがないのだ。帝が問い詰めても知らぬ存ぜぬで躱し、場合によっては実家が出てくる。男はこういう時、無力を痛感するしかなかった。
***
月のない夜でも、外は暗闇というほどではない。目が慣れてしまえば木々はぼんやりと発光しているようにも見えた。
「なんていうかさ、主上も女運がないよね」
河原の小石を踏みしめながら、鈴鹿がしみじみと言った。
ここぞとばかりに動きやすい狩衣を着ている。肩には弓を背負い、腰に矢の入った籠を付けていた。
「北斗殿は強欲、恒星殿は陰湿、昴宿殿は怖がりだしな」
「深窓の姫君なんてそんなもんだろう」
鈴鹿の不敬極まりない言葉を諌めるどころか、秀鷹と透頼は冷静に分析して同意した。
京の夜は人の声がしない代わりに獣の足音や木々の葉擦れ、川のせせらぎ、虫の泣き声でひしめきあっている。
誰かの悪意がないぶん森のほうがまだましだ、と鈴鹿は思う。昴宿殿にいると、否応なく欲望を目の当たりにして、息苦しささえ覚えていた。
鈴鹿、と先行していた秀鷹が合図を送ってきた。
鈴鹿は素早く弓を構え、矢をつがえる。
カサ……と草を踏む微かな音がして、木々の間から何かが歩いてきた。
鹿だ。
メス鹿である。
鈴鹿は気配を殺し、メス鹿が射程に入るのを待った。秀鷹と透頼も同じく矢をつがえている。
野生動物、特に鹿のような草食動物は耳が良い。矢が空気を切り裂く音でさえ敏感な耳は捕らえ、逃げられてしまうだろう。三人が見守る中で、メス鹿は河原に降り立ち水を飲み始めた。
鈴鹿が引き絞った弓を放った。
鹿が顔をあげ、跳躍しようとした。後ろ脚に鈴鹿の矢が刺さる。が、鹿も必死である。飛び跳ねて逃げようとした鹿の胴体に秀鷹の、首に透頼の矢が命中した。
「よしっ」
ばちゃん、と水しぶきがしてメス鹿が倒れた。
「血抜きだけでもしておく?」
そのために川に来たのだが、夜は危険である。鹿などが活動するということは、それらを狙う狼などの肉食動物も活動する時間ということだ。血の臭いを嗅ぎつけて襲ってくるかもしれない。
「そうだな。血を抜いて、冷却もしておこう」
鹿を川に沈め、短刀で首を斬ると、まだ絶命していなかったのかビクッと痙攣した。
水の流れに沿って血がゆっくりと流れていく。夜の中、赤いはずの血は黒く見えた。
鈴鹿は念のため次の矢をつがえて周囲を警戒した。狼に見つかると厄介だ。
「……透兄」
「どうした?」
「なにかがこっち見てる」
透頼が鈴鹿の視線を追った。
対岸の葦の影の間から、赤く光る二つの目のようなものが浮かんでいた。
「なんだ、ありゃあ?」
夜行性の動物の目は光っても白く見えるものだ。赤く光る目の動物など、聞いたこともなかった。
「鼠? 狼って赤い目じゃないよね」
「あんなデカい鼠がいてたまるか」
目の位置から推測すると、透頼の膝より上に頭がある。そうとうに大きいはずだ。
透頼も矢をつがえた。赤い二つの光はただじっとこちらを見ている。
「鈴……」
「うん」
鹿を川に晒していた秀鷹が、襲って来た時に備えて岸に上がってきた。ここで粘って怪我をするより、悔しくても獲物を渡して逃げたほうがいい。夜に動物に襲われて人間が勝てる確率は低いのだ。
赤い光が三人を取り囲むようにぽつぽつと増え始めた。
妙だな。鈴鹿は目を眇めた。
気配がしない。睨みあってはいるが、相手が呼吸をしているようには見えなかった。人間と違い、動物が意識して呼吸を止めるなんてあるのだろうか。だとしたら、そうとう賢い動物だ。森の主と崇められている大物かもしれない。
「透兄、放ってみる」
「了解」
鈴鹿は次々に増える目の中から、これだと思ったものの眉間を狙って矢を放った。透頼が併せて放つ間に第二射を放つ。手ごたえがない。悲鳴も聞こえてこない。三射目は二本同時に、左右に分けて放った。
「消えた……?」
たしかに命中したと思ったのに、矢は当たることなく闇に吸い込まれたように見えた。いつの間にか、あれだけ集まっていた赤い光も消えている。
透頼が川に浮かぶ岩を飛び移り、目が光っていた場所まで向かった。
「透、何かいたか?」
鈴鹿を背に庇いながら秀鷹が訊いた。女らしくない鈴鹿だが、これでも源家の姫なのである。
「いや。……ん?」
赤い光は透頼の膝上あたりの高さに浮いていた。そうとう大きな獣のはずである。透頼は目を凝らすが、それらしき動物は見えなかった。
葦を分け入った足が何かを踏んだ。抓みあげてみる。
「……鼠だ」
「鼠?」
「ずいぶんちいさいけど、本当にそれしかいないの?」
「ああ。矢も落ちている」
茂みの間に落ちた矢は四本あった。鈴鹿の三本と、透頼の一本だ。
だが、なぜ同じ場所に落ちているのか。
あの赤い光の正体がこの鼠だったのは間違いない。鼠の狭い眉間に矢が命中したのだろう穴が開いている。鈴鹿の腕は変わらず良いようだ。
「鼠じゃ獲物にならないね」
なんだ、と鈴鹿ががっかりした。たしかに、鼠一匹では可食部が少なすぎて獲物とはいえない。
「そう、だな」
尻尾を抓んで鈴鹿と秀鷹に鼠を見せると、透頼はぽいと放り投げた。
地面に落ちたはずのそれは、何の音も立てずに夜に消えていった。
***
誰にも気づかれずに昴宿殿に戻った鈴鹿だが、なぜか翌朝、稲子に説教を食らった。
「夜中に抜け出すなんて、物の怪に襲われたらどうするの!!」
「稲子様、物の怪なんていませんよ。せいぜい夜盗か、人攫いです」
「そっ、そんな、夜盗が出るとわかって出かける莫迦がありますかっ!」
「大丈夫です。やっつけますからご安心ください」
「そういう問題じゃありません!!」
キーキーうるさい稲子を置いて蓮華のところに行く。女御にまでこんな話をしてどうするんだと呆れつつ御前に侍れば、今日は顔色の好い蓮華がわくわくしながら待っていた。
問われるまま昨夜の出来事を話して聞かせる。姫とは思えぬ鈴鹿の武勇伝は蓮華にとって憧れらしく、すごいすごいとはしゃいでいた。
「鈴鹿、すごいわ。あの稲子がやりこめられるわけね」
「おそれいります」
あまりにも常識が違いすぎてついていけないだけだろうと思ったが、口には出さなかった。憧れを自分から壊す気は鈴鹿にはない。
「ところで、私が昴宿殿を抜け出したことを、なぜ女御様がご存知なのでしょう?」
「主上がおっしゃったの。面白い女房がいるな、ですって」
蓮華は十八歳だが、気弱な性格もあってか幼く見える。嫌がらせのせいでやつれ、それでも笑みを浮かべるのがいっそう庇護欲をそそった。
重くて動きにくい重ねの着物も、ろくに走ることもできない長ったらしい袴も、このか弱い女御のためだ。彼女が笑ってくれるのなら稲子に叱られた甲斐があった。鈴鹿は苦笑した。
「はあ。面白い、ですか」
「そうよ。夜中にお外に出るなんて、私にはとても無理よ」
「普通の姫はあんまりやらないでしょうね」
「その調子でお化けが出ても守ってね、鈴鹿」
鈴鹿は不思議である。稲子にしろ蓮華にしろ、物の怪だのお化けだの、いもしないものをなぜ大真面目に信じているのだろう。
「物の怪もお化けも目の錯覚ですよ、女御様」
どうしようもない姫様だ。自分がどう思われているかの自覚もなく、鈴鹿は諭すように言った。
普通の姫ならこんなことしません。