第9章
僕は今この原稿を、その時彼らからもらったものを目の前にしながら、あるいは手にとったりしながら執筆している。今もあのころのことがカラーのついた夢のように思いだせるのは多分――その記憶が、僕の心の中で<永遠>の領域に根ざしているからなのだと思う。
札幌へ戻ってからの僕は、塾をさぼるようなこともほとんどなくなり、灰色の現実世界の中へと埋もれていった。当時の僕にとって、受験のために一生懸命勉強することは普通のことだったし、べつに中高の六年間にひどいいじめを経験したというわけでもない。仲のいい友達はそれなりに何人かいたし、文化祭などでもそれなりに盛り上がったような記憶もある。でも記憶をつまぐってみるに、僕はあれから一度も、松平や平野のようなスポーツマンタイプの少年と友達になったことはなかった。井家くんのようにちょっとユニークな感じのする、面白い子もいなかったと思う。まわりに友達としていたのは僕と同じ、勉強のできるもやしっ子タイプばかりで――僕は彼らとゲームや漫画、アニメの話ばかりしていた。
時々僕は、自分があのまま釧路にいたらどうなっていたかな、と想像しても仕様がない想像をすることがある。もちろん小五に上る時にはクラス替えがあるし、みんなバラバラのクラスになっていた可能性が高いだろう。でもクラスが変わってもそれなりに友情は続き、また中学でクラスが一緒になったり、高校で同じ部に入ったりするようなことが絶対になかったと、果たして言いきれるだろうか? 確かに僕は勉強に集中できる環境を与えられたおかげで、現役で北大の文学部に進学できた。だがそれは僕にとって、実はあまり意味のないことだったのだ――大学在籍中にプロの漫画家としてスカウトされ、夢を叶えることができた今は。ただ僕は漫画家になれなかった時の保険として、一生懸命勉強し、自分の学力で挑戦できる範囲内の大学を受験したにすぎない。
そもそも、何故漫画家である僕が、微妙に畑違いの小説なんかを書いているかといえば、漫画家としてスランプに陥っているからだ。プロの漫画家としてデビューして七年、僕はまだ二十七歳だった。でもこの七年で、自分が情熱をもって描きたいと思っていたことはすべて、描き尽くしてしまっていた。そして去年のゴールデンウィーク進行が終わったあたりから徐々に仕事を減らしはじめ、今は連載ものを一本も持っていない状況だった。時々、今もつきあいのある出版社から少年小説やゲーム小説などの挿絵を依頼されたり、ポスターやポストカードなどの依頼を受けたりする程度だ。
「先生、まだ仕事はじめないんスかあ?」
カリカリという音をさせながら、この原稿を夢中になって書いている僕に、後ろからアシスタントの後藤くんの声がかかる。まあ今僕は仕事をしていないから、彼のことは元アシスタントと呼んだほうがいいかもしれない。
「だから何度も言ってるだろ。暫くの間は休筆するって」
「だってもう半年にもなるじゃないですか。『邪道極楽ファンタジーシリーズ』が終わってから。そろそろ仕事はじめないと、マジで干されたらどうするんスか。担当の大宮さんとも大喧嘩したままだし」
「いいんだよ。東大卒だかなんだか知らないけど、前から僕はあいつのことが大嫌いだったんだから」
「けど……」
ブラインドを閉めきったままの部屋に、シャッと眩しい光が差しこんでくる――妹の美月が、仕事部屋のブラインドを上げたためだ。
「お兄ちゃん。お昼ごはんの用意、できたよ」
「おお、サンキュ」
手元のスタンドの明かりを消し、僕は椅子から立ち上がった。元アシの後藤くんも、従順な犬のような顔つきをして、後ろからついてくる。
「しかし、いいっスよねー、カイ先生にはこんな可愛くて料理のできる妹さんがいて。これまで何度修羅場で、彼女の差し入れに助けられたことか……」
うっうっと涙ぐむ振りをしながら、右腕を目頭に持っていく後藤くん。美月はといえば、大袈裟ねえ、と笑うのみだ。
「でもいいよね、お兄ちゃんは。これまで本が売れまくってるから、暫くの間はぽつぽつ仕事する程度ですむもんね。あたしなんか、もし今の仕事やめて失業保険切れたら、次なんてないもの」
美月は今、ピアノ教室で先生をやっている。月の収入は十四、五万円くらいだと言っていただろうか。でも少子化などの影響もあって、生徒の数は徐々に減りつつあるのだという。
「あたしもお兄ちゃんみたいに、これ!っていうようなズバ抜けた才能が欲しかったなあ」
「何いってるんスか。美月さんには料理の才能があるじゃないですか。この素麺、マジでガカッ!口元からベタフラって感じっスよ」
「ありがと」
後藤くんのいつものオタクネタについていけない美月は、僕にこっそり「ベタフラってなに?」と聞いた。
「ベタフラッシュだよ。仕事場の棚にある『美味しんぼ』でも読めばわかるよ」
漫画にそれほど興味のない美月は、軽く肩を竦めている。彼女にとって興味があるのは、今流行りのコスメやダイエット情報、行列のできる美味しいお店といったところだったろうか。それと理想の王子さまとデートすること。
「そういえばさ、美月。おまえ覚えてる?松平のこと」僕は素麺をつゆにつけながら言った。
「松平って……つばさちゃんのこと?」
「そうそう。おまえのファーストキスの相手」
隣でなぬ?という顔をして後藤くんが目をギョロつかせるけど、僕はあえて気にしない。
「このごろ、あいつのことをよく思いだすんだよな。あれから十何年たったけど、今どうしてるかと思って」
「きっともう結婚してるんじゃない?お兄ちゃんと同じ歳だから、今二十七でしょ。つばさちゃん、女の子にもてるタイプだもん」
「そうだよなあ」
美月の作った梅のおにぎりに、僕は手を伸ばしながら言った。
「でも美月がさ、もし会ってみたいって言うんなら、思いきって電話するか手紙でもだしてみようかと思ってさ」
「やめてよ。わざわざそんなこと……昔のいい思い出をぶち壊しにすることないんじゃない?お兄ちゃん、漫画家になって本がバカ売れした時、結構嫌な思いもしたじゃない。金貸してくれとか、出版社に口きいてくれとか、その他色々……それに、人の心配するより自分の心配したら?真奈美さん、きっとお兄ちゃんがプロポーズしてくれるの、待ってるよ」
薮から蛇をつつきだした僕は、おにぎりで喉を詰まらせそうになった。そうなのだ。仕事の問題だけじゃなく、今僕は――七年つきあっている彼女と結婚するかどうかという瀬戸際に立たされているのだった。
「まあ、仕事のメドがついたら考えるさ。マナミだって、そこらへんの呼吸はわかってるよ。もうつきあって七年にもなるんだから」「またそんなこと言って」と、美月は自分のコップに麦茶をついだ。「漫画描いてる間は、しめ切りに追われて忙しくて、結婚してる暇もなかったでしょ。下手したらマナミさん、明るい農村青年とお見合いして、電撃結婚しちゃうかもよ」
「おまえこそ、自分の心配しろよな」
妹はこの話になると長いので、僕としては自分の優柔不断ぶりをなじられる前に、話の矛先を転じたかった。
「大体美月は理想が高すぎるんだよ。そんなことじゃ一生結婚できないぞ」
「いやあ、そんなことないっスよねえ」と後藤くんが口を挟む。
「美月さんくらいの美人なら、ズバリよりどりミドリでしょう。ちなみに好みのタイプは俳優でいうと?」
「うーん、そうね。キアヌ・リーブスとか妻夫木聡とか。後藤くんは?」
へっへっへっ、待ってました、というように、後藤くんが胸のポケットからブロマイドをとりだす。
「今の心の恋人はときメモの詩織ちゃんっす。ちなみにその前はエヴァの綾波レイちゃんで、その前はセーラームーンのセーラーマーキュリー」
「……ねえ後藤くん。つきあってる彼女、なんにも言わないの?」
ささやかな疑問を美月が口にしても、
「ずぇーんぜん」と後藤くんはあっけらかんとしたものだ。「向こうはもっとすごいっスよ。彼女の今の心の恋人は『黄金のガッシュ!!』のパルコ・フォルゴレさまっすからね。ちなみにその前は『幽々白書』の飛影と蔵馬。これは二股っす。やおい本いっぱい買ってましたっけね、そういえば。その前が『スラムダンク』の流川楓で、その前が『聖闘士星矢』の氷河って言ってたかなあ」
「でもいいわよね、お互い共通の趣味があって」
漫画やアニメのキャラについてよくわからないながらも、美月は少しだけ羨ましそうに溜息を着いていた。ちなみに美月は今月で彼氏いない歴満三年を迎えようとしている。
「コミケなんていったら、もう大変っスよ。彼女、二十五歳になった今もコスプレクィーン目指してるから」
「……へ、へえ。そうなんだ」
同じ二十五歳という年齢の美月は、少しだけ顔の表情を曇らせた。そして「ねえお兄ちゃん、コスプレってなに?」と隣の僕に小声で聞いてくる。
僕はといえば、ただ肩を竦めるのみだった。
僕と真奈美が出会ったのも、コミケ(コミックマーケット)だった。行ったことのある人は知ってると思うけど、あのなんともいえない独特の雰囲気のある、同人誌の即売会である。僕は高校の時から同人をはじめ、それは最初漫画研究会の先輩方と一緒に、一冊の雑誌を定期的に発行するというものだった。当時漫研の部員は僕も含めて十四名で、どんなに下手であろうとひとり必ず四ページは漫画を描くことになっていた。
かねてより漫画家になりたいと切望していた僕は、自分の実力を試すことのできる絶好のチャンスだと思い、十六ページくらいの短編漫画を一作書いた。それは『異次元惑星エクシード』というタイトルの漫画で、自分でいうのもなんだけど、高校生にしては悪くない出来映えだったと思う。といっても、その十六ページの作品をどこかの雑誌のマンガオーディションに送ったとしたら、落選していたのはまず間違いなかったと思うけど。
そしてそれからというものは僕は、先輩から漫画の技法を学ぶなどして徐々に研鑽を積み、高校を卒業して大学へ進学する頃には、札幌の同人業界でちょっと有名な人物となっていた。やがて数多くの作品を同人・オリジナル問わず発表し、僕の個人誌は一冊だすごとに完売するようになっていた。さらに同人を通して親しくなった東京の友人が、向こうのマーケットでも販売してくれるようになり、その本の何冊かを読んだ『マガジンボーイ』の編集者の方が――僕にプロになるきっかけをくれたというわけだ。
真奈美と僕が出会ったのは、僕がプロになる少し前のことだ。彼女は漫画やアニメになどまるで興味がないのに、友人にまるめこまれてセーラーマーキュリーのコスプレをやらされていた。コスプレっていうのはようするに、自分の好きな漫画やアニメキャラの服装及び髪型なんかを真似ることだ。
コミケへいくとそういう奇抜な格好をした人たちがたくさんいる。そして自分たちの同人誌のPRをするというわけだ(もちろんただ単に個人的な趣味という人もいる)。
僕はマナミと出会った時、セーラームーンSにでてくる土萌創一教授のコスプレをしていて――というか、ただ単に白衣を着ていただけともいう――戸惑い気味の彼女を見て、すぐに「初心者さんだな」と思った。
あたりにみなぎる異様なまでのオタクエネルギーについていけない彼女は、とても困ったような表情をしていた。他の友人のセーラー戦士たちは四人とも、あたりの雰囲気に順応しているにも関わらず、彼女だけは「マーキュリー、写真とらせて!」とか「決めポーズをとって!」などと言われても、びくびくおどおどするばかりで ――ようするに、ひとりだけ頭数が足りなかったので、無理矢理やらされたらしい――見かねた僕は、彼女に助け舟をだすことにした。他のセーラームーンやジュピターやマーズ、ヴィーナスはみな、それぞれ自分の役を演じるのを楽しんでいる様子だったけど、彼女だけはあまり楽しそうじゃなかったから。
「君、本売るの手伝ってくれないかな?」
とんとん、と肩を叩くと、僕がこの中ではわりとまともそうな部類に入る人間だと思ったのか、彼女はほっとしたように、すぐ後ろをついてきた。その間にも僕の白衣には「オレの好きなスポーツは踏み台昇降運動だ!」とか「それってスポーツなの?」だとか「立位体前屈はお好き?」だのとカラーマジックで殴り書きしていく連中が絶えない。
「随分、たくさんの人とお知り合いなんですね」
マナミは、セーラーマーキュリーこと水野亜美の青いカツラをとりながら言った。
「同人生活が結構長いからね。でもこの場所では、そんなこと関係ないかもしれないな。全然知らない奴に馴々しくされてびっくりしたかもしれないけど、はっきりいってみんな、本気で君のことをセーラーマーキュリーだと思って話しかけてるんだよ。つまりいつもはブラウン管を通して見てるアニメキャラが、外にでてきたっていう感じかな」
「なんかよくわかんないけど」と、ためらいがちにマナミは言った。
「これからずっと、ここに座っててもいいですか?」
彼女はセーラー服の短い丈を気にするように、太腿の上で引っぱっている。べつにいいよ、となるべく素っ気なく僕は言った。
「セーラーマーキュリーが本を売ってくれれば、売り上げも伸びそうだしね」
何十人という人間が本を並べて売っている中で、僕は自分の個人誌を二冊と、友人から委託されている本を五冊ほど並べた。あとはオリジナルキャラクターの封筒や便箋やシール、ポストカードなどを並べる。
「まいど」
「どうもありがとうございます」
僕の二冊の本は、午前中だけで五十冊以上は売れた――売り切れる前にと、急いで買いにくる人や、僕の本だけを目当てにしてやってくる人なんかもいるからだ。そして僕はそういう人にサインを求められれば色紙にサインし、「白衣に一言書いてもいいですか?」と求められれば、マジックを手渡した。
そして僕が仲のいい同人仲間とオタクな会話で盛り上がっている間も、マナミは本やポストカードその他を包みに入れ、代金を受けとったり、お釣りを手渡したりしていた。
僕は彼女を見ていてすぐに(この子はこの種のことにあまり興味がないんだな)とわかっていたので、客足が途絶えた時なんかに、漫画やアニメの話をするのは避けることにした。そしてそのかわりに、至極一般的なことを聞いた――たとえば、歳はいくつで札幌のどこに住んでいるのか、なんていうことを。
「デザイナー学校の二年生で、今ハタチです。友達に面白いからマナミもこいって誘われたんだけど……正直いってちょっと、ついていけない感じ」
「まあ、わかるよ」と、オタクと真人間のハーフである僕は言った。「君……日向さんだっけ?セーラームーンなんて見たことないんだろ?でも一応こういう場所へくる以上は、技の名前と決めポーズくらい覚えてこないとね」
「そういうものなの?」
「ほら、これ」と、僕は友人の同人誌をめくって、セーラーマーキュリーの決め技を、基礎知識として教えておくことにした。
「シャインアクアイリュージョンやマーキュリーアクアミラージュ。マーキュリーが水星っていうのはわかるよね?」
「まあ、一応……クィーンのフレディ・マーキュリーの親戚じゃないってことくらいは」
僕はその他水野亜美がどんな中学生かといったことまでレクチャーしたが、マナミは一向にそうした話に乗ってこなかった。むしろ彼女にとって興味があったのは、本を包んだり代金を受けとったりというような、実際的なことだった。そして僕はその日、珍しく同人会の打ち上げには参加せず、かわりに一生懸命働いてくれた彼女に、お礼として食事を奢る約束をしたというわけだ。
(あれから七年、か)
その後プロの漫画家となり、真奈美とデートする時間はどんどん切り詰められていった。修羅場のあとの輝ける眩しい太陽――長い間、それが僕にとってのマナミだった。他の女性と知りあう時間もきっかけもなかったし、僕は自分の初めての女性である彼女と、このまま結婚するだろうと思っていた。抱えていた一番大きな連載ものが終わり、手持ち無沙汰な状態になる、半年ほど前までは。
(今は正直、結婚どころじゃないよなあ)
豊平川の河川敷に寝転び、僕はひとり考える。漫画のネームに詰まったりすると、いつもここでこうしたものだった。そうすると不思議なことに、いつの間にかいいアイディアが浮かんでいることが多かった。
真夏の太陽に、青い空。銀の方舟みたいに移りゆく雲、川の涼しげなせせらぎの音……それから草刈り機で刈られたあとの、うっとりするような緑のいい匂い。それにも関わらず、僕の心は今、果てしなくブルーだ。
しめ切りに追われていた頃は、ただとにかく一週間でいいから漫画のことなど考えず、自由になれる時間が欲しかった。そうしたらあれもしてこれもして……充実感を満喫したら再び原稿という名の戦場に戻ってくるつもりだった。そうだ。僕の最初の予定では、その間にマナミと結婚するつもりだったのだ。でも今は……。
「いっそのこと、リセットでもするかあ」
誰も人がいないのをいいことに、僕は豊平川へ向かってそう叫んだ。
マナミとも別れ、中の島にある仕事場兼住居もたたみ、そのまま何か月か海外へ逃亡するのだ。そうして思う存分放浪生活を満喫すれば、もう一度漫画に対する情熱が戻ってくるような、そんな気がした。
僕だって伊達に七年漫画でメシを食ってきたわけじゃない。その気になれば、それなりのものを描く自信はある。でもそれはかつてとは違い、あくまでも<仕事>としてってことだ。そこにかつて漫画家を目指してた頃のような情熱の入る余地がほとんどないということ――それが今僕の抱えている問題だった。いわゆるスランプってやつだ。
こうして気分転換にでもなればと思い、小説を書いてみてもいるが、やはり僕が描きたいのは漫画だった。
まんがまんがまんが……がまんがまんがまんが……。
目を瞑って河川敷に横になり、僕が口の中でもごもご呟いていると、不意にひやっとした感触が額に触れた。突如として現れた人の気配にぎょっとなり、ほとんど反射的にがばりと身を起こす。
「リセットって、なんのこと?」
――すぐそばにいたのはマナミだった。彼女はジーパンにピンクのTシャツというラフな格好をしていて、最近短くした髪の耳元に、プラチナのイヤリングを輝かせていた。
「べつに、なんでもないよ」
マナミからラムネを受けとりつつ、僕はボサボサの頭をかいた。「嘘つき。本当はあたしとも別れて、ひとりでぶらっと外国旅行にでもいこうかなあって考えてたんでしょ。みずほの考えそうなことだわ」
ラムネのビー玉を落とした途端、しゅわっと炭酸とともに泡が溢れてきた。おかげで僕はおもらしした子供みたいに、股間を濡らすことになった。
「それ、みずほに渡す前に、思いっきり振っておいたの」
「おまえねえ……」
それから僕とマナミは黙ってラムネを飲み、夕暮れ時の涼しい風に吹かれていた。僕たちの心は今たぶん、川のこちら側と向こう岸といっても過言でないくらい、遠く離れていたかもしれない。
「畑のほうは調子どう?」
「田植えのほうは先月終わったわ。田植え機の調子が悪くて、何度も止まっては修理の人に見てもらって――来年は買い替えるかって父さんは言ってたけど、確かあのセリフ、去年も言ってたのよね」
マナミの実家は長沼町で代々続く農家だった。何百ヘクタールという広い田んぼに、幾つもあるたくさんのビニールハウス――そこでは苺を主産品として、他にもトマトや大根やピーマン、人参、玉葱、じゃがいもなど、多くの野菜を栽培して農協に出荷してるらしい。でもその実家に彼女が戻ったのは、つい三か月ほど前のことだった。
「これからもずっと、実家を手伝うの?」
「とりあえず、実家にいる以上は仕方ないでしょ」と、マナミは諦めたような顔で、肩を竦めている。働かざる者食うべからずという家訓が、日向家にはあるためだ。
「あーあ。あたしも妹みたいに、転勤族の男とでも結婚して、ドイツかどっかにいこうかなあ」
マナミは頭の後ろで手を組むと、そのままばったり後ろの草叢へと倒れこんでいる。これと似た科白を、この三か月の間にいったい何度聞かされたことか。
「だったらさ、仕事やめないで、札幌でひとり暮らし続けてたらよかっただろ?」
「だからそのことは何度も言ったじゃない。今時の子たちとはあたし、基本的に話が合わないのよ」
むくれたようにプイと、マナミは僕に背を向ける。彼女はデザイナー学校を卒業したあとはずっと、ススキノにあるブティックでFAの仕事をしていた。
「じゃあさ、仕事がうまくいかないから僕と結婚するわけ?」
「べつに……そういうわけじゃないわよ。でもみずほ、ずっと言ってたじゃない。しめ切りに追われない空白時間を作ったら、結婚しようって」
「そうだな。昔はしょっちゅうそう言ってたな」
ぶちぶちと雑草を根元から引き抜くマナミの手に、僕は自分のを重ねると、彼女の体に覆い被さるように横になった。
マナミの髪の毛からは微かに、お陽さまと汗、それからシャンプーの匂いがする。
「……ねえ、みずほはなんであたしと結婚したくないの?」「うん」と僕はぼんやり答える。「べつに、マナミのことは今も好きだよ。でも僕は今、漫画のネタがまったく思い浮かばない状態なんだ。いや、まったくネタがないっていうわけじゃない。ただ、力が湧いてこないんだ。うまく言えないけど、今僕が漫画を描いてもただ苦しいだけなんだよ。昔みたいにくるたのしくないんだ」
「くるたのしい?」と、マナミが僕の手をぎゅっと握り返しながら、くすくす笑う。
「そうなんだ。もう一度くるたのモードに入ることさえできれば、僕は自信を持ってマナミと結婚することができる。でも今のままじゃ駄目なんだよ。仮に今僕がマナミと結婚したとしても、僕には自分の妻と子供を養っていけるような自信はない。だからもう少しだけ、待っていてほしいんだ」
「わかったわ。でも……」と、マナミが後ろの僕を振り返る。「そうしたらみずほはまた、修羅場の国の住人になるんでしょう?式を挙げたりするような暇、今度こそ本当につくってくれるの?」
「絶対につくるよ」と、僕は彼女に堅く約束した。「ただ、あの感覚が戻ってくるのを、僕はずっと待っているんだ。それが戻ってきさえしたら、実際に仕事をはじめる前に式を挙げよう。それから新婚旅行へいって帰ってきたら、再び修羅場な世界に戻る。それでいい?」
真奈美はイエスと言うかわりに、僕の唇を激しく覆った。それは本当に何か月ぶりかの、心のこもった情熱的なキスだった。