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第8章

 その後の母さんの決断は早かった。近いうちに保健所の人に事情を話して、引きとってもらうつもりだと言うのだ。「もちろん母さんだって、こんなことしたくないわ。でも仕方がないのよ。クーパーだってろくに散歩へもいけず、まわりの人にはおっかない犬としてしか見てみらえないだなんて、そんなの可哀想じゃないの」

 もちろん僕や美月は母さんのこの意見に反対した。この一年、母さんだって随分クーパーによくしてやったじゃないか。それなのに今になっていらない子として処分するだなんて、そんなのあんまりだと思った。血も涙もないというより、母さんには本当の意味での愛情なんてないんだとしか思えない。

「母さんはただ単に、ミウラくんのお母さんにネチネチ嫌味を言われるのが嫌なだけなんだろ。あいつが病院に通っているうちは、後ろめたい気持ちで診察料と慰謝料を支払わなきゃならないもんな」「それに、元はといえばミウラくんが悪いんだから。あれでもしマイコちゃんが怪我でもしたらどうなったと思う?ねえお母さん、どうなったと思うの?」

 エプロンを引っぱって揺する娘に、母さんは何も言わなかった。疲れたような顔をして溜息を着き、とにかく上へいって勉強しなさい、としか。

 僕も美月も経験上、こういう時の母さんには何を言っても無駄だということをよく知っている。これ以上どんなに文句を言い募ったところで、母さんが強い意志によってこうと決めたことには、もはや逆らえないのだ。

 それで僕も美月も、静かに階段を上っていったけど、もちろん勉強なんかしなかった。こうなったら頼みの綱は父さんだけだと、祈るような気持ちでその帰宅を待ちわびた。


 しかし、父さんは母さんの意見に賛成だった。僕と美月はほとんど泣き叫びながら「お願いだから、クーパーをうちにおいて」と頼んだ。でも父さんはもう一度こういう事件が起きたとしたら、責任をとることはできないと繰り返すばかりだった。

「いいかい。三浦くんは足を噛まれたくらいですんだけど、もしかしたらもっと大きな怪我をしていた可能性だってあるんだ。もちろんみずほも美月もクーパーのことを信じたいだろう。でもクーパーはもともと血の気が多いタイプの犬種なんだ。うちの犬だけは特別優しい気性を持ってるなんて説明しても、こういうことがあったら誰も信じてなんかくれないんだよ」

「……だからって、殺すの?」僕は目頭を拭いながら言った。

「まだ殺されるって決まったわけじゃないよ。保健所の檻の中にいる間に、誰かいい人が現れて、引きとってくれる可能性だってある」

「同じことじゃないかっ。僕はクーパーを見殺しにすることなんか、死んだってできないよっ。あんな不細工な犬、引きとってくれるなんていう奇特な人がいるとはとても思えない。それに一度飼うと決めたからには責任を持てって言ったのは父さんじゃないか」

「そうだよ」と美月も珍しく加勢してくれる。「お父さんもお母さんも冷たいよ。そんなにクーパーを邪魔者にするんだったら、お父さんかお母さんがクーパーの首でも絞めて、直接殺したらいいんだわっ」

 美月がだだだっと駆けだしていくと、マイコがその後を追った。でも階段を上ることができない彼女は、そこで立ちどまり、駆け上っていく美月の姿を下から見送るしかない。

「父さんも母さんも、見損なったよ」

 僕は押し殺したような声で吐き捨てるように言い、マイコの頭を少しだけ撫でてから、二階へ上っていった。

 実際、この夜は本当に一生、父さんのことも母さんのことも許すことはないだろうと信じて疑わなかった。こんなのってあんまりだと思った。そして夜、ベッドの中で声を押し殺して泣いていると、ピンク色のカーテンを隔てた向こうからも、すすり泣きの声がした。今、家族の中で唯一の味方は、普段は小憎らしいだけのこの妹ひとりだけなのだと、僕は暗い闇の中で思った。


  翌日、クーパーは父さんのワゴン車の後部席に乗せられて、保健所へ送られることになっていた。美月は泣きながら彼のつぶれたような不細工な顔にチュッチュッと繰り返しキスし、そのたるんだ首に腕をまわして抱きしめた。

 クーパーはしっぽを振ることもなく、無表情に美月の抱擁を受けとめ、またいつものように彼女の顔をなめまわすこともなかった。まるでただ静かに、自分の運命に従うかのように。

 マイコはひたすらベランダの窓からしっぽを振り――これからクーパーがどこへいくのか知らないのだから、無理もない――ー体いつになったらベランダへだしてもらえるのかしら?というような顔をしている。

 僕は助手席に乗ると、滅多にすることのないムスっとした顔つきで、車がでるのを待った。もしかしたら僕は一生、クーパーみたいにムスっとした顔つきのまま過ごすのかもしれないとさえ、その時は思った。父さんの運転する、僕とクーパーを乗せたワゴン車が、実は保健所へ向かっているのではないと気づくまでは。

「……どこにいくの?」

 重苦しい沈黙を破って、僕は隣の父さんに聞いた。

「ずっと山奥さ。小さい子供なんて誰もいないところに、クーパーを逃がしてやるんだ」

「でも……」少しだけ嬉しくなりながらも、僕はすぐ不安になった。「ごはんはどうするの?そんなところでクーパーが長生きできるとは、とても思えないよ」

「クーパーも、もう歳だからな。野性に適応するのは難しいだろう。でも自由になるっていうのはそういうことなんだ。父さんもみずほも、ある日突然山に捨てられたら、途方に暮れるだろう。それでも実際そうなったら、なんとかして生き抜こうとするだろうな。自分の手で食べられそうなものを見つけたり、木の枝で釣棹を作ったり ……そういう意味ではむしろ、犬のクーパーのほうが適応能力があるといっても過言じゃないと、父さんはそう思うんだよ」

「確かにクーパーが保健所へいかなくなったのは嬉しい。でも、もっと何か方法はなかったのかな。そもそも母さんが、クーパーを散歩に連れていってくれても良かったと思うんだ。子供の僕や美月が駄目なら母さんが。どうせ一日中家にいるんだし」

「最初の約束、忘れたのか?」

 ガタガタの砂利道を走らせながら、父さんが厳しい視線を一瞬送る。

「母さんは、あれでも母さんなりにがんばったんだよ。もちろん母さんだってクーパーがいなくなるのは寂しいさ。一年も飼えば、誰だって自然と情が移るものだしな。でもクーパーを散歩に連れていくっていうことは、母さんにはできないんだよ」

「どうして?クーパーが不細工で、あんまり格好いい犬じゃないから?」

 ハッハッと苦しげな息遣いのクーパーのことを、僕は振り返った。彼は車の中ではいつも、興奮したように息が荒くなるのだ。「みずほ、父さんと約束してくれないか。このことで母さんのことを恨まないって」

 僕は後部席に手を伸ばして、クーパーの頭を撫でた。最後の瞬間が本当に訪れるまで、僕は諦めるつもりはまったくなかった。父さんだってもしかしたら、説得のしようによっては気を変えてくれるかもしれないではないか。

「うらまないよ。クーパーさえ、うちにおいてくれるんなら」

 父さんはハンドルの上に、重苦しい溜息を着いている。

「母さんが小さい頃住んでた家の隣は、ペットショップだったらしい。それで、母さんは犬や猫なんかが大嫌いになった。毎日、学校へでかけようとするたんびに、小屋の中の犬や猫なんかが、檻の中でつらそうにしているように見えたからだ。今はどうか知らないけど――これは今から二十年も前の話だからね――昔は結構犬や猫なんかは粗雑に扱われたものだったんだよ。当然なかなか売れなかったり、大きくなりすぎたり、病気になったりした動物は、ペットショップの主人が殺すこともあったらしい。家の裏にはシェパードやドーベルマン、ダルメシアンなんかが、檻に入れて飼われていて―― あんまり糞や尿や体臭の匂いが臭いっていうんで、近所から苦情がでることもあった。みずほはこれがどういうことか、わかるかい?」 頭から野球帽をとると、僕は押し黙ったままでいた。父さんの言いたいことが、もう大体わかってしまったからだ。

「母さんはそのペットショップの隣に住んでいた。夜になると犬が自由を求めてウォーウォーと言って吠えるんだ。子供心にも、確かに可哀想だと思う。でもお母さんにはどうすることもできなかった。小さな子供だった母さんにできたのはただ、犬や猫といった動物の影をどこかで見かけたら、とにかく逃げて近寄らないことだった。父さんの言いたいこと、みずほにはわかるかい?」

「なんとなく」と僕は小さな声で言った。

「父さんだって、べつにクーパーが憎くて捨てようっていうんじゃない。でもこうなってしまった以上、母さんにはクーパーの存在が重荷なんだ。小さい頃に刷りこまれたものっていうのは、本人にもどうしようもないものなんだよ。犬や猫が嫌いだっていうと、多くの人は心の冷たい人を見るような目でその人のことを見る。でもみずほだって、クーパー以外の土佐犬に噛まれたりしたら……」

「わかるよ。それはわかるけど。でもクーパーはもう歳なんだよ。あともう何年かしたら死んじゃうかもしれない。それまでなんとか飼うっていうことさえできないの?」

 キッ、という音をさせて車が止まる。父さんはエンジンを止めると、サイドブレーキを引いた。運転席から降り、後部席からクーパーのことを外にだす。

 父さんと僕は、そこから川原を上流へと上っていき、クーパーの首輪のリードは僕が引いた。そして一時間ほども川を上った時だったろうか。僕が疲れてへとへとになりかけていると、クーパーがその時、初めて後ろを振り返った。

「みずほ、放してやりなさい」

 僕は父さんに言われるまま、クーパーの首からそっと、青いリードを離した。クーパーはうちの子だから、リードを離したくらいでどこかへいくとは思えなかった。でも彼は父さんにも僕にもなんの挨拶さえすることなく、そのまま川原を駆けだしていった。僕が彼の名前を何度繰り返し叫んでも、ただの一度さえ振り返ることなく。

 もちろんクーパーが車内でしていた僕や父さんの会話の意味をわかっていたなんて、僕はそんなふうに思っているわけじゃない。 でも、それでもクーパーにはたぶん、わかっていたんじゃないかと、僕はそんな気がしていた。そして僕が母さんのことを許せたのは、結局のところクーパーが自分の自由な意志で駆けだしていったように見えたからなのだと思う。

 人間の勝手で犬を山に捨てたことを、僕は決して美談にしたいと考えているわけじゃない。でも、それでも――直接クーパーの死にゆく姿を見たわけではない僕は、あれから十数年以上が過ぎた今も、実は彼がどこかで生きているんじゃないかと、そんな錯覚を覚えることがあった。もちろんそれはあくまでも僕個人の感傷であり、どう考えてもありえない話ではあったけれど。

 そして小四の終わり頃、僕は再び札幌へと戻ることになり――父さんの転勤で――クラスのみんながしてくれたお別れ会で、僕は泣いた。フルーツバスケットや歌や劇、そして最後にあった甲斐瑞穂くんに送る言葉。

 たぶん松平か平野がその文章を読むのだろうと僕は思っていたけど、教壇に立ってその手紙を読んだのは、井家くんだった。

「みんなも知ってると思うけど、僕は小三の時、みんなから馬鹿にされていた。でもカイくんが友達になってくれたおかげで、僕は少しずつ馬鹿にされないようになりました。カイくんはべつに、もっとお風呂に入ったらとか、耳くそほじったらとか、そんなことは一言も言わなくて、ただ面白い漫画を貸してくれたり、家で美味しいものをごちそうしてくれたりしました。とても嬉しかったです。小三の時の夏休みには、松平くんや平野くんも一緒に、家の人がキャンプへ連れていってくれたり……カイくんと過ごした楽しい思い出は他にもいっぱいあります。第一休憩所のそばにある池で、おたまじゃくしをとったことや、山花のほうにクワガタ虫をとりにいったこと、アゲハ蝶の幼虫を釣りをしている途中で見つけたことや、川でサンショウウオを見つけたりしたこと、それにシラトル湖まで潮干狩りをしにいったことなどです。僕はゲームが下手だったけど、カイくんはこうしたらいいとかああしたらいいよって隣で教えてくれて、それでファミコンも結構うまくなりました。うちにはファミコンがないので、二週間だけという約束で本体とゲームのカセットを貸してくれたこともあります。でも兄弟の誰かに壊されそうだったので、一週間くらいでカイくんに返しました。僕は、他のみんなよりもたくさん、カイくんにはよくしてもらったと思います。そんな優しいカイくんだから、きっと札幌の学校へいっても、すぐに友達ができると思います。僕もがんばるので、カイくんもがんばってください」

 みんなが拍手してくれる中、僕はクラスを代表した彼から、プレゼントを受けとった。家に帰ってからその包みを開けると、中には男の子向けの文房具セットが入っていた。他に個人的には、平野から野球のボールを、松平からはガンダムのプラモデル、井家くんからは鷲が翼を広げた形の、消しゴムをもらった。




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◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
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