第4章
さて、父さんは最初の公約どおり、実にクーパーの面倒をよくみた。「さて、調査官どのにエサをやるか」と言ってはベランダの窓を開け、「調査官どのを散歩に連れていくか」と呟いては夜中にクーパーと散歩へいった。お腹の贅肉がとれてちょうどいい、などと笑いながら……。
もちろん僕も美月も、なるべく母さんの手を煩わせないように、できるだけ努力した。でもそれはたぶん、父さんが仕事で疲れているにも関わらず、クーパーに色々よくしてやろうとする姿勢を見せてくれていたからなのだと思う。僕たちが昼間クーパーを散歩に連れていけば、父さんは夜、いつもどおり休むことができるし、その他エサをやるのもウンコを片づけるのも同様だった。
そして最初は「四千円も家賃を値上げなんて……」とぶつぶつこぼしていた母さんも、少しずつクーパーを可愛がるようになった。 クーパーは自分が内心嫌われているとはまったく思いもしない様子で、母さんがベランダに姿を現わすなり、おそろしい勢いで飛びついていくことが多かった。そのせいで、母さんはお気にいりのワンピースやカーディガンなんかを、三枚くらい駄目にしている。クーパーは口の端に味噌汁のつゆがついてようと、ハヤシライスのルウがついてようと、おかまないなしに母さんに飛びついていったからだ。
そして母さんはそのたびに大いに怒ったが――その種のしみは何故か、クリーニングにだしても落ちないことが多かったので――同時に、父さんに新しい服を買ってもらうコツをも、徐々につかんでいったようだ。
ところで、話は夏休みの頃に戻るが、一学期の僕の通信簿は音楽と体育をのぞいてみんなAだった。今の子供たちの通信簿はどうなってるのか、僕にはよくわからないけど、僕の頃は学科別の成績の他に、内申点というのがあった。そしてどういうわけか、その欄の<冷静に物ごとを判断して行動ができる>と<相手の気持ちを尊重することができる>のところにマスナスのしるしがついていた。その上、他の<みんなをまとめてリーダーシップをとることができる>や<独創性に優れている>などといった欄には、なんのしるしもついていない。
これはあくまでも僕の想像だけど――内申点というのはかなりのところ、先生個人の心象といったものに左右されるものみたいだ。一学期の間中、僕は勉強ができるにも関わらず、ほとんど先生に懐かなかった。これで僕がもし一言「先生、どうやったら僕、友達つくれるんでしょう」と涙ながらに訴えていたとしよう。そうしたら多分このふたつのマイナスは消えてなくなっていたものと思われる。邪推かもしれないけど、先生は成績表をつけながら、こんなふうに考えていたんじゃないだろうか――「カイは勉強ができて、どの教科もみなAかBだ。でもこいつ、俺になつかなくて面白くないんだよな……そうだ。そのかわりといってはなんだが、内申点にふたつくらいマイナスをつけてやるか」
もちろん、僕の考えすぎかもしれないし、勘違いかもしれない。でも僕は通信簿を開いた時、そのふたつの内申点のマイナスを見て ――瞬時にしてヨットスクールに敵意を抱いた。
二学期以降、僕はクラスの中心メンバーの一員として活躍するようになるけれど、それにも関わらずヨットスクールとは一線を画したままだった。それは何故かといえば、一学期の内申点、マイナスふたつのせいだ。
「宇佐美ってさ、やっぱ戸塚先生にとり入るのがうまいと思わんか?」 僕の部屋で一緒に勉強をしながら、だしぬけに松平がそう聞いた。彼はうちから近いところに住んでいるせいもあって、夏休みの間中、ほとんど毎日遊びにくるようになっていた。
「うん。僕さ、内申点の<冷静に物ごとを判断できる>の欄と<相手の気持ちを思いやることができる>の欄にマイナスをつけられたんだけど、たぶん宇佐美くんのような奴がたくさんプラスをもらうんだろうなってそう思った」
「そうだよなあ」
松平は頭の後ろで両腕を組むと、そのままごろりと横になっている。彼の漢字ドリルはあまり進んでないみたいだった。
「やっぱさ、世の中は要領のいい奴が勝つんだよな。べつに俺、うさ吉のこと嫌いじゃないけど、井家に対する態度とか、明らかに間違ってると思わんか?」
「うん、思う」僕は算数のワークノートを閉じながら言った。「でも宇佐美くんは自分が間違いなく正しいことをやってるって、信じて疑ってないよ。自分は気の毒でカワイソウな井家くんをかばってる英雄だって、そんなふうに感じてるんじゃないかな」
「英雄ねえ……俺にはただの先生に対するゴキゲンとりにしか見えないけどな。カイさ、今度あいつのことギャフンと言わせてやれよ。あいつ、相当おまえのこと意識してるみたいだぞ。自分よりもAの数が多いんじゃないかってぽつりと呟いてたらしいし」
「宇佐美くんが?」
「ああ。平野から聞いた話だけどな」
松平はこれで勉強は終わり、というように14型TVのスイッチを入れている。どうやら彼はいつものように、勉強目的ではなくファミコン目的でうちにきたみたいだ。
『元祖マリオブラザーズ』、『マッピー』、『ゼビウス』、『グラディウス』、『アイス・クライマー』、『ツインビー』、『ボンバーマン』、『ドルアーガの塔』、『ドラゴンクエスト』、『イ・アル・カンフー』、『スパルタンX』などなど、あるいは今は懐かしのディスクシステムのフロッピーに至るまで、僕の家にはたくさんのファミコンのカセットがあった。
『アイス・クライマー』や『ツインビー』、『クルクルランド』など、2プレイで遊べるものは一緒にやり、また1プレイヤーでしか遊べないものを相手がやっている時は、僕は隣で漫画を読んだりした。
ファミコン→スーパーファミコン→プレイステーション……というようにゲーム機が移り変わっていく中で、ある一部の大人たちは今時の子供たちの遊びを「貧しい」と言うようになったけど――僕は自分の子供時代を振り返って、とてもバランスがよくとれていたように思う。
2Playでプレイできるものについては、僕や松平、また井家くんは互いに協力しあって次々と面をクリアーしていったし、当時は子供たちの間でウラワザを教えあう、ということもとても流行っていた。また片方が傍らでこうすれば敵を倒せるということをナビしたり、どうしても自分の力だけではこれ以上先に進めない、倒せないボスキャラがいる、といったような場合には――僕のかわりに平野や松平がなんとかしてくれたものだった。
ゲームについてある一部の大人たちは、ひとりの世界に入りこむ、デンジャラスボックスだというように指摘するけど、僕は必ずしもそうとは思わない。ゲームの与えてくれる夢や感動はとても素晴らしいものだし、実際のところ僕は、成長の過程でゲームから著しくたくさんの良いものをもらった。
加えて、僕が子供だった頃は、外にでて遊ぶ機会がかなりのところ多かった。
この小学三年の時の夏休み、僕は松平や平野や井家くんと自転車に乗ってよく冒険へでかけた。特によくいったのは、動物園まで続くサイクリングロードだ。途中に第一休憩所、第二休憩所と呼ばれる公園のような場所がある。動物園までは十キロ以上あるため、小学生の足にはかなりキツいが、僕たちは朝早起きして動物園へと自転車ででかけたこともあった。
小学三年の時の夏休みと小学四年の時の夏休みのことを、僕は今でも鮮やかに思いだすことができる。山にクワガタ虫やバッタやトンボをとりにいったこと、川でヤマメ釣りをしたこと、みんなで公園に集まって花火をしたことなど……数えきれないほどたくさんの思い出がある。
そして小三と小四のある一時期、僕は塾通いをまったくしていないことさえあった。内申点にマイナスのしるしがないかわりに、Aの数はそのせいで減ったけど――しかも宇佐美くんにテストの点数を見られ、「勝った」なんて横で言われたこともあったけど――僕はそんなこと、少しも気にしなかった。もちろん母さんはアヒルみたいにガアガアうるさくはあった。ゲームをやる時間も減らされた。でもそれ以上に僕は、松平や平野、井家くんと一緒に遊ぶのが楽しくて仕様がなかったのだ。
しかし、悲しいことに僕は、小四の終わりに再び札幌へ戻ることが決まり――彼らと離ればなれにならざるをえなかった。そして札幌へ戻ってからは、僕は塾をさぼるということもまったくなくなり、中学と高校は脳細胞みたいに灰色な時代となったわけだ。
「おまえんちの妹って、可愛いよな」
平野がだしぬけに言ったので、僕はコントローラーの操作を誤ってしまった。あわれマリオ、クッパ大王の火球を食らって死す。
「あんな頭のおかしい妹、一体どこがいいんだよ」
僕は松平に2のコントローラーを手渡しながら言った。
「あいつ、はっきり言ってチクリ魔だぜ。僕が塾をさぼって遊びにいったとか、『パーマン』のガンコ並みに告げ口するんだから」
「べつにいいじゃん、あれだけ可愛ければ。井家だってそう思うだろ?」
「う……うん」井家くんは『週刊少年ジャンプ』から顔を上げて言った。「でも俺、カイくんの妹に会ったことないし」
「今度会ってみろよ。可愛いぞお。映画の『キョンシー』にでてくるテンテンちゃんにそっくりなんだ。そういえば井家っておにゃん子クラブの河合その子が好きなんだっけ?じゃあちょっとタイプはちがうかな」
井家くんは黙って雑誌のページをめくり続け、平野には何も答えなかった。無理もない。彼は前に笠原から強引に好きなタイプのタレントを聞きだされていたことがあった。そして笠原が「井家が好きなのは河合その子!」と大々的に発表すると――女子たちはみな<身のほど知らず>というような冷たい目で彼のことを見たのだった。
「うわっ!やられた!」
松平がイカの怪物、ゲッソーにやられていると、ピンク色のカーテンが突然シャッと開いた。平野の視線が美月に釘づけになる。
「お兄ちゃん、お母さんがこれ、みんなで食べなさいって」
むっつりとした顔をして、美月がケーキやクッキーなどののったお盆を差しだす。ほとんど毎日のようにお菓子やジュースを運ぶ係をやらされているので、面白くないのだろう。
「それから、ちょっとこっちきて」
次は自分の番なのに、と思いながら、僕はしぶしぶ妹の命令に従った。タイムのボタンを押し、コントローラーを平野に手渡す。彼は『スーパーマリオブラザーズ』の達人なのだ。
「なんだよ?」
「あたし、前にも言ったけど」と、美月は廊下にでると両手を腰にあてた。「こう毎日毎日お兄ちゃんの友達が遊びにきたんじゃ、あたしの友達を呼べないでしょ。いつもいつもミカちゃんやアスカちゃんちにいくってわけにいかないんだから」
僕はわざと大袈裟に、肩を竦めてみせた。まるで映画にでてくる外人の俳優みたいに。
「どうせおまえがこの部屋でやるのなんて、バービーとかリカちゃんのお人形ごっこだろ。『わたし、イサムくんにデートに誘われちゃった』、『じゃあおめかししなくちゃね』……そんなくだらないこと、よそでやってくれよ」
あまりにも僕が馬鹿にした態度にでたせいだろう、美月は顔を真っ赤にして下へ降りていった。
「お兄ちゃんなんか、もう知らないからっ!」
バタン、と勢いよく茶の間のドアが閉まる。でも僕はといえば、久しぶりに妹に勝つことができた喜びに、酔い痴れていた。
邪魔者に勝ったことを祝って、ピンク色のカーテンも大きく開くことにする。
「美月ちゃん、なんだって?」
ピーチ姫を無事クッパ大王より救出した平野は、にんまりピースしながら言った。
「もし俺らがいるのが邪魔なら、明日は俺んちきてもいいぜ。それかプールにいくか、チャリンコででかけるか……どうする?」
松平は水中戦で苦戦しているため、聞く耳を持っていない。井家くんは『ジョジョの奇妙な冒険』から顔を上げると、
「明日は俺、家の用事があるから」と言った。
「家の用事って、母さんの内職か?」
「いや、雑品回収の親父に言われてんだ。最近何も持ってこないけど、銭いらねえのかって。俺、一応お得意さまだから」
「雑品回収?」
面白そうだと思った僕は、井家くんにおうむ返しに聞いた。
「まあ、カイくんにはこんな話、関係ないと思うけど」と照れたように井家くんは前置きしている。「古新聞とか空ビンとか色々、俺たくさん集めてんだ。ああいう雑品回収の汚い親父が家をまわるより、貧乏くさい子供のほうが集まりがいいんだよ。ビール瓶一ケースとか、気前よくたくさんくれる人もいるしさ」
「ようするに、チリ紙交換みたいなもの?」
「うんにゃ」と、井家くんは口をもぐもぐさせている。「このお菓子、すごいうまいね。こんなの俺、はじめて食った……チリ紙交換は、物をもらったかわりにティッシュなんかをやらなきゃいけないだろ。でも俺は、とにかくなんでもたたでもらうんだ。あちこちの庭や物置のまわりを見て、ビンや漫画の雑誌なんかがあったら、こっそりいただいてくることもある」
「えっ、それってもしかして……」
「泥棒なんじゃねえの?」
聞きにくいことを、平野がズバリと指摘する。
「うーん、どうかなあ」チョコレートケーキに手をのばしながら、井家くんは首をひねっている。「でも俺、自分が人のものを盗んでいるとは思ったことないよ。物置のあれくださいって言って、断られたこともないしなあ」
「そうなんだ」
何故か僕がホッとしていると、平野がすっくと横で立ち上がった。「よし、決めた!明日はみんなで雑品回収しようぜ」
「うん、いいね」
「うわっ!またやられた」
松平が絨毯の上に引っくりかえる。ゲームオーバーだ。
そしてあまりにもゲームに熱中しすぎていた彼は――お盆の上にケーキが一切れも残ってないのを見て、がっくりとうなだれた。 母さんの作るチョコレートケーキやクッキーは、いつも子供たちに大人気だったからだ。
夏休みも中盤をすぎた、八月十日というこの日――実家の押し入れから日記帳を探しだして確認した――僕と平野と松平は、近所中を歩きまわって古新聞やビンなどを探した。まずは自分の家の物置から開始して、井家くんが雑品屋の親父から借りてきたリヤカーにそれを乗せた。
実に残念なことに、母さんは定期的にチリ紙交換を利用しているため、戦利品は乏しかったが――松平はビール瓶を一ダース近く、平野は両手に持ちきれないほどの古雑誌を、ヨロヨロしながら持ってきた。
しかし、古雑誌や雑品といったものは、意外にありそうでないもので、こうなったらやはり頭を下げて歩くしかないと思った僕たちは、四人ばらばらになって、一軒一軒のお宅をまわることにした。 井家くんの言っていたとおり、くれるという人は特にしぶることもなく、なんでもただで気前よくくれるのがとても不思議だった。 もちろんそれは僕が子供だったせいかもしれないけど――でも不思議と僕は、家をまわって歩くうちに人の顔を一目見ただけで、この人はくれるとかくれないとか、そうしたことがわかるようになっていた。そしてどうも、問題はティッシュと交換するかどうかではないらしいということも、だんだんわかっていった。
僕と松平と平野、そして井家くんは、午前中からお昼ごはんをはさんで、午後も働き続け、日の暮れる六時頃に雑品屋の親父にリヤカーを返しにいった。リヤカーは底が抜けるくらいの大荷物だったけど、四人で引いたり押したりすれば、べつにどうということもない重さだった。
井家くんの言ったとおり、なんとも汚らしい感じのするゴミの山に暮らしている親父は、リヤカーの古新聞やビンの山、中古のラジカセなんかを見て驚いていた。
「おっさん。鳥取△丁目のミソサザイ公園の横にある空き地に、もうかれこれ半年以上置きっぱなしになってる軽乗用車があるんだってさ。この情報をくれたのは平野くんだから、平野くんに情報提供料をやってくれよ」
「ふむ、わかった」
ひげもじゃの親父はケチくさそうな瞳を光らせると、電卓を叩いている。
「まあ、この品物全部と情報提供料を合わせて、五百円ってとこだな。ほら、これやるから喧嘩しないでわけろ」
「五百円も!?」
井家くんはキラキラと目を輝かせていたけど、僕と松平と平野は三人で顔を見合わせた。
お互いの顔には、こう書いてあった。
(これだけ働いて、たったの五百円ぽっち?)
そして帰り道で、みんなでそれを分けようということになったわけだけど――平野は自分の情報提供料の分は勘定に入れなくていいと言った。
「べつに俺、いつも学校へいく途中に捨てられた車を見てただけだからなあ。はっきり言って、べつに全然カンケーねえよ」
平野の男らしさが乗り移ったように松平も、
「俺もべつに、百二十五円ぽっちの金が欲しくてやったってわけじゃないな」
「うん、僕も。そのお金は井家くんがとってくれていいよ」
「本当にいいのか!?」
井家くんはひとり目を輝かせていたけど、僕と平野と松平は、疲れた溜息を着くだけだった。あんまりたくさん歩いたり、重いものを運んだりしたせいだ。でも僕はみんなと肩を並べて影法師を踏みながら、こうも思った――最初は気づかなかったけど、僕たちはたぶん、井家くんの喜ぶ顔が見たくて、雑品回収なんていう慣れない仕事をしたんじゃないかって。