第3章
突然だけど、僕の父さんや母さんは、ともに1960年代後半から1970年代前半にかけて青春時代を過ごしている。まだ青春という言葉が本当の意味で生きており、不純異性交遊なんていう言葉が、死語ではなかった時代のことだ。
そして1980年代後半から1990年代前半にかけて十代を過ごした僕は――父さんや母さんからその時代にあった色々なことを聞かされて育った。
日本の古き良き時代、とでもいうのだろうか。父さんや母さんは自分たちの青春時代について語りだす時、いつも決まってキラキラと目を輝かせる。
「父さんと母さんは、ススキノにあったディスコで知りあったんだ」
「アバのダンシング・クィーンがあの頃は流行ってたわねえ」
「君は超ミニのスカートをはいて踊ってて、男の視線はみんな釘づけだった」
「あら。あなただってとてもステキだったわ」
――この太ったビール腹の父さんが、ディスコでダンス?
にわかには信じがたいが、当時のアルバムをめくると、そこにはほっそりとやせたハンサムな青年が写っている。
ダイエット公告の使用前使用後じゃないけど、そのあまりの違いの大きさに、僕も美月も唖然と顔を見合わせた。
「ねえお母さん、結婚してからだまされたって思ったことはなかったの?結婚してからこんなにまるまる太るだなんて、はっきりいって詐欺じゃない?」
「そうねえ……でも父さんのこと、太らせたのは母さんだから。母さん、昔からすごく嫉妬深かったのよ。結婚して、父さんが太ってきたのをみて、逆にほっと安心しちゃったわ。これで浮気する心配はあまりないなと思ってね」
「そうだぞ、美月。男は顔でも体つきでもなく、ハートで選ばなくちゃ駄目なんだ」
当時から、自分の容姿の可愛らしさに自惚れていた妹は、どこか納得しかねるような顔をしてたけど、とにかく僕の父さんと母さんは、そんなふうにしてとても仲が良かった。
ただ僕は時々、逆に父さんはなんで母さんと結婚したのかな、と疑問に思うことがある。
アルバムを見ると、当時の母さんは確かに美人だ。いや、今も美人だと言ったとしても、決して言いすぎではないくらいだ。
でも――どうしてこんなにガミガミうるさい女性と結婚したのか、僕には時々とても不思議でならなかった。
「ねえ父さん。父さんはなんで母さんと結婚したの?結婚する前はあんなガミガミ屋だって知らなかったから?」
「うーん……そうだな」
眠り眼で歯を磨いていた父さんは、何故かその時だけぱっちり目が覚めたようにこう言った。
「女っていうのはみんな、結婚すると変わっちまうもんなんだよ」 そして父さんはタオルで口許を拭うと、「これは母さんと美月には内緒だぞ」と僕の耳元に囁いた。
小学生の子供をふたり抱える家庭の朝というのは、ある意味で戦争だ。母さんは自分の配偶者のために毎朝力の入ったお弁当を作り ――時々、学校給食の存在を神さまに感謝しつつ――ズボラな父さんのかわりに、きちんとスーツにブラシをかけ、ネクタイもきちんと趣味のいいのを選ぶ。
そして子供たちがごはんを食べている間に、きちんと時間割どおり物をそろえたかとか、宿題はやったかとか忘れ物はないかといったようなことを矢継ぎ早に聞く。
ここで何かを「忘れた」とか「そういえば」なんて単語がでてくると、母さんは半分くらいパニックになることが多かった。そして怒鳴る。
「どうしてきのうのうちに言わなかったの」
「どうしてきのうのうちに用意しなかったの」
「どうしてきのうのうちにやっておかなかったの」
僕は時々、母さんのことをガミガミ屋の教育ママゴンとして疎ましく思うことがあったけど――でも大人になった今では、あの当時の母さんの心境がどんなものだったか、ある程度理解することはできる。
加えていうと、母さんはとても心配性な質の人だった。母親っていうのはみんなそんなものだと人は言うかもしれないけど、僕の母さんの場合は違う――病気の一歩手前なんじゃないかっていうくらいの心配性なのだ。
つまり、母さんはなんでも前倒しに前倒しをして石橋が壊れる寸前まで叩かないと気がすまないタイプの性格だった。ついでにいうと神経質で綺麗好き。嫌いなものはほこりとカビ。ゆえに掃除機をかけるのと拭き掃除は、母さんの毎日の日課みたいなものだった。 ここまで書けばもう誰にでもわかると思うけど、母さんはとにかく父さんや僕や美月ができるだけ完璧な状態で外にでるまでは<義務>の二文字から解放されることはない。よって、僕たち三人はほとんど追いたてられるようにして学校なり職場なりへ向かうことになる。
そして二十一世紀初頭の現在に生きる僕は、当時を振り返ってこうも思う――あの頃にはまだ、<不登校>という言葉がなかった。また<引きこもり>という言葉も、今のようにある種の社会現象をさして使われてはいない頃だった。でも僕がもし小学生のこの時でも、あるいは中学生・高校生になってからでも、不登校になったり引きこもったりするような事態になっていたとしたら――母さんは一体どうしていただろう。
夏休みまであと二日というこの日の朝――僕は意気揚々と学校へ向かった。松平はきっと、クーパーのその後について僕に聞いてくるだろうし、僕は井家くんとも仲良くするつもりでいたからだ。
美月は近所のミカちゃんやアスカちゃんと一緒に登校するので、学校まで歩く約二十分間、僕はひとりぼっちだ。でも僕自身はちっとも孤独でもなければ、少しも寂しくもなかった。登校途中に、加藤さんちの綺麗な庭にうっとりしたり、公園の白樺のさやさやいう音に耳を傾けたり、馬が放牧されている広い野原を眺めたり――家の一軒一軒の形や特徴について考察するのも大好きだった。
今日はちょっとばかし不吉なことに、かたつむりの死骸と毛虫が体液を流しているのと、大きなミミズのひからびたようなのに遭遇してしまったけど――僕は「ナムアミダブツ」と心の中で唱えて通りすぎるだけだった。
学校へ到着すると、いつものように騒ぎが起きている。うちのクラスでは毎度のことだ。
でも当時から感受性の強かった僕は、そうしたことに対する自分の微妙な心理状況といったものに、敏感に気づいてもいた。
つまり、みんなが井家くんについてわいのわいのと飽きもせず騒ぎ立てている間は――誰も孤立している僕に注意を払わないということだ。もしこれから井家くんが、何かの都合で転校するということにでもなったとしたら……彼らのあの異様なまでのいじめエネルギーは、僕に向くことになるのかもしれない。
「みんな、やめろよ!井家くんが可哀想じゃないか」
そしてこれも毎度の光景だった。みんなが井家くんについてイカくさいだのなんだの言っていると、学級委員長の宇佐美正吉は割って入って井家くんいじめをみんなにやめさせる。それでみんなはしぶしぶ窓際の席を離れ、朝の十分学習の準備をするというわけだ。 今は朝に十分間、読書の時間が持たれたりしているそうだが、僕が小学生の頃は十分学習だった。本鈴の鳴る十分前に学習委員がプリントを配るなり、黒板に問題を書くなりして、それをクラス全員が解くというわけだ。今日は漢字の書きとりで、僕は十問ある問題を、十分といわず三分ほどで解いた。
そして隣の女子とプリントを交換し、学習委員が黒板に書いた解答と答え合わせをしていると、前の席の笠原がこう囁いてきた。「今日の算数の宿題、あとで見せてくれないか」
「うん、いいよ」と僕は答え、机の中から算数のノートをとりだした。算数は一時間目なので、あとでというのはほとんど今すぐと同義だと思った。
「カサハラ、あんたたまには自分で宿題やってきなさいよ」
僕の隣の女子、渡辺真奈が十点満点のプリントを僕に返しながら言った。ちなみに彼女の点数は九点。迷うが述うになっていたためだ。
「うるせえな。ワタナベには関係ねーだろ」
「ふん。そんなだからあんたには、男の友達がいないのよ」
そのワタナベの一言に、僕はグサッとくるものを感じた。もちろん、彼女が言ったのは笠原勇希に対してではある。彼には井家くんを女子と一緒になっていじめることによって、どうにかクラスでの面子を保っているような一面があった。
「カイくんも、お人好しはほどほどにしたほうがいいわよ」
僕はワタナベに何も言わなかった。ただ、べつに怒っているわけではないというしるしに、ちょっとだけ笑ってみせただけだった。
小学生の時も、中学生の時も、高校生の時も、はたまた大学生になってからも、僕はしょっちゅう人からノートを貸してくれだの宿題を移させてくれだのという依頼を受けることが多かった。もちろんこれは僕の成績が常に優秀だったせいでもあるのだけれど、僕はそんなふうに人から頼られることを、嬉しく思っていた。べつに優等生意識がくすぐられて気分がいいとか、そんな理由からではない。ただ僕は、今も昔も口ベタな上、非常に人見知りするタイプで、人から何か話しかけられないかぎり、ほとんど自分から何かを話すということがなかった。つまりそういう人間にとっては――どんな理由にせよ、向こうからきっかけを与えてくれるというのは、嬉しくてたまらないことなのだ。
もちろん僕には、カサハラの魂胆は腹の底まで透けて見えている。彼は僕を利用しているにすぎないし、彼と僕が無二の親友になったりすることもまずないだろう。でも僕は小学生から大学生になるまで一貫して――彼のようなタイプの人間に腹を立てたことが一度もなかった。口先だけのお調子者の中には、何故だかどこか憎めない奴が多いものなのだ。とても不思議なことだけど。
ところで、この日の一時間目の終わりから、井家くんいじめは鎮静化の方向に向かった。その理由が何故だったのか、僕にもよくはわからない。ただ僕が松平や平野と並んで井家くんの机を囲むと、ある種のバリアーがそこからは生じたようだ。
もちろんこのくらいのことで水野沙夜香が井家くんと机をくっつけることはなかったし、聞こえよがしのフケツコールが教室中から消え去ったというわけでもない。でも少なくとも、松平や平野や井家くんや僕の耳には――そうした彼を揶揄する声は、五千メートル先の彼方で囁かれているもののようにしか、聞こえなかった。
僕は一時間目が終わった休み時間に、加藤さんが意識不明の重体であること、またクーパーが今もまだうちにいることなんかをみんなに話した。
「いいなあ、おまえら。きのう俺のいない間に、そんな面白いことがあったのかよ」
平野は松平や井家くんがわけ知り顔なのを見て、とても残念そうだった。彼は野球部に所属していて、きのうの放課後は他校と練習試合があったのだ。
「しかもきのうは試合に負けるしさ。あーあ……東小の連中っていつも汚ねえんだよなあ。ヤジばっか飛ばしてさ。それでこっちも負けじとメガホンで叫ぶことになるから、今日なんか声ガラガラだよ」「まあ、次があるさ」と、松平は平野の肩を慰めるように叩いている。
「じゃあ今日はさ、みんなでカイんちに行かないか?俺もそのクーパーって犬に会ってみたいしさ。なんかカイんちって面白そうだよな。家にどんな漫画があるのかとか、すげえ興味あるよ、俺」
そして僕が自分の家にある漫画の数々――『ドラえもん』、『怪物くん』、『パーマン』、『忍者ハットリくん』、『ドラゴンボール』、『うる星やつら』、『北斗の拳』なんかについて話していると、二時間目の始まる鐘が鳴った。
井家くんはその日、家の手伝いで僕のうちにくることができなかったけど、僕は松平や平野とこの日を境に急速に仲良くなっていった。松平や平野はしょっちゅう僕の家に漫画を借りたりゲームをしにきたりするようになったし――おかげで僕は美月から「お兄ちゃん、いまだに学校で友達できないんでしょ」と図星を指されてムカつくことがまったくなくなった。
ところでクーパーの処遇だが、終業式の日に僕が重い習字セットや絵の具セット、朝顔の鉢植えなんかを抱えて帰ると――家に保健所の職員がやってきていた。
母さんはあからさまにまずいという顔をしており、茶の間で麦茶を飲んでいたふたりの職員も、事情を大体のところ聞かされていたのだろう、どうしますか、というような視線を母さんに向かって投げかけている。
「こうするしか仕様がないのよ、みずほ。加藤さんはもう意識の戻る可能性がほとんどないんですって。息子さんたちふたりも、犬のことは引きとれないっておっしゃってるし――うちだって本当は、大家さんに断りもなしに犬を飼うってわけにはいかないのよ」
母さんのそうした大人の理屈を聞かされた僕は、一気に激昂した。僕は普段は大人しくて聞き分けのいい子だけど、だからといってなんでもイエスというわけではないのだ。
「こんなのひどいよ、母さん。クーパーは確かに不細工で、あんまり可愛くないかもしれないけど、だからって殺すことないだろ」「べつに殺すってわけじゃ……」
母さんは白ずくめの職員ふたりに助けを求めたが、ふたりとも、ただ視線を逸らすばかりだった。
「じゃあ、あんたは母さんにどうしろっていうの。結局、クーパーにエサをやったりなんだりするのは母さんの仕事なんですからね。あんたは口では面倒みるっていうだろうけど、最終的に世話をするのは――」
僕はポロポロと涙をこぼしたが、母さんに対してなんの効果もなかった。母さんが軽く礼をして合図すると、ふたりは気のすすまない様子でソファーから立ち上がっている。そして僕がさせるものかと急いでベランダに向かうと、そこにクーパーの姿は見当らなかったのだった。
(――いない!?)
まさかもうすでにトラックに乗せられてしまったのだろうか?いや、ちがう。そうじゃない――何故ならクーパーを繋いでいた園芸用の杭ごと、彼はいなくなっていたのだから。
とりあえずよかった、と僕は思った。たぶん彼は自分の身に差し迫った危険の匂いを察知して、先手を打って逃げだしたのだ。
家の庭先にはキツネにつままれたような白い保健所職員ふたりと、母さんの姿だけがあったけど――僕は彼らと一緒になって近所を探しまわることなど、絶対にするものかと思った。
だが夕刻になると、クーパー失踪についての謎が、僕にも母さんにも自動的に解けていた。
犯人は、美月だった。
美月はたぶん、僕と母さんが言い争っているところへ帰ってきて、そっと二階へ上がっていったのだ。そしてランドセルやパイプピアノなんかの荷物をおき、こっそりクーパーを連れて逃亡を図ったのだろう。
クーパーの鎖は園芸用の杭にぐるぐる巻きにしてあったから、じゃらじゃらという音を立ててはいけないと思った美月は、杭を力づくで引っこ抜いて、そのままクーパーと一緒に逃げたのだと思う。 僕は下から母さんが何度呼んでも答えず、このまま父さんが帰ってくるまでハンストを決めこむ覚悟だった。母さんは僕や美月のことを傷つけないために、僕たちのいない間に保健所の人を呼んだらしいけど――そして学校から帰ってきた僕たちに、クーパーは加藤さんちの息子さんが引きとりにきたと説明するつもりだったらしいけど――その話を聞いた僕は、母さんのことをますます許せないと思った。それから父さんのことも問いつめるつもりだった。母さんがこのことを父さんに相談しないで決めるはずがないから、もしふたりがグルなら、僕は父さんのことも母さんのことも、死ぬまで一生許さないつもりだった。
でも、夕暮れ時の空が過ぎゆき、あたりが宵闇に包まれる頃になると、僕も母さん同様、美月のことがだんだん心配になってきた。きっと美月は保健所の職員が手ぐすね引いて自分とクーパーの帰りを待っていると思ったのだろう、だからあれから何時間しても戻らず、頃合を見計らってそっと戻ってくるつもりでいるのだ――そう思いはするものの、流石にもう七時だ。僕は妹のことを探しにいこうと思った。
「ええ、そうなのよ。保健所の人がくるのが遅くなったものだから、みずほに見つかってしまって……あなた、お願いだから早く帰ってきて」
母さんが父さんと電話で話しているのを聞いた僕は、やはりふたりはグルだったのだと確信した。それでわざとこっそり気づかれないようにドアを閉め、懐中電灯を片手に美月とクーパーを探すことにした。
母さんなんか、美月に続いて僕までいなくなったのを見て、せいぜい泣き咽ぶがいいと思った――実際に、僕と美月とクーパーが家へ戻ってきて、母さんが涙に暮れている姿を見るまでは。
美月とクーパーの居場所は、実をいうと僕には大体見当がついていた。誰も人がいない加藤さんちだ。
そしてふたりは案の定――正確にはひとりと一匹だけど――加藤さんちの庭先にいた。
「おい、美月」
「……お兄ちゃん」
クーパーは僕の存在を認めると尻尾をふり、つぶれたような顔をのっそりと僕のズボンにこすりつけてきた。
「うわっ!おまえただ単に僕に、よだれをこすりつけたかっただけかよ」
僕が屈みこむと、クーパーは今度は、しゃぶりつくように僕の耳をなめまわしてきた。彼はたぶん一般受けしない顔立ちの犬ではあるのだけれど、どこか強く人を惹きつける性格をした犬だった。
「お兄ちゃん、ホケンジョの人、帰ったの?」
クーパーの小屋の横、はまなすの植えこみのそばに体育座りをしたまま、美月がぼんやりと聞く。
「ああ、帰った」
僕はクーパーをはさんで、美月と同じように土の上に座った。
「ずい分長い間、母さんと三人で近所を探しまわってたみたいだけどね――でもおまえ、よく見つからなかったなあ。こんなうちから目と鼻の先の距離にいて」
「うん……最初はね、できるだけクーパーと一緒に遠くまで逃げようと思ったの。だけど……」
「だけど?」
「公園でクーパーと一緒にベンチに座ってたら、みんながひそひそしゃべってるのが聞こえたんだ。トサ犬って、けんか犬なんだってね」
「ああ、闘犬って意味か」
僕は頭の中で百科事典のページを繰った。
「でもクーパーは大丈夫だよ。人をなめまわしこそすれ、噛みついたりなんか絶対しないって。それよかさ、早く家に帰ろうぜ。美月がいなくなって、母さんもしょんぼりしてるよ」
美月はじゃらじゃらとクーパーの鎖を引きずりながら、どこか元気なくとぼとぼと歩きだした。クーパーが保健所いきになると、もしかしてまだ心配しているのだろうか?
「心配しなくても大丈夫だよ」僕は繰り返し言った。「母さんもだいぶ反省してるみたいだから、たぶん父さんがなんとかしてくれるんじゃないかな」
「うん……そうだね」
美月はクーパーと並んで歩くのをやめると、ふと足をとめた。クーパーも同時にその場に立ちどまる。
「お兄ちゃん、サベツって怖いね」
「差別って?」
「うん。今日、クーパーと一緒に歩いてて思ったんだ。みんながあたしやクーパーのことをさけて通るのはどうしてなんだろうって。それで、思ったの。もしあたしの連れてるのが、マルチーズかなんかの小さいわんこだったら、たぶんみんな逃げたりせずに笑顔で近づいてきたんじゃないかって……」
美月はポロリと涙をこぼすと、そのままわっと泣きだした。じゃらり、と鎖がコンクリートの道端に落ちる。だがもちろん、クーパーは逃げたりなんかしない。
「お兄ちゃん、クーパーかわいそうだよお。こんなに不細工な上、みんなからも嫌われて、ホケンジョの人に殺されるなんて、絶対かわいそうだあ」
「おまえねえ……」
僕はズボンのポッケからハンカチをとりだすと、それで美月の涙をふいてやった。
「クーパーはべつに、可哀想なんかじゃ全然ないさ。加藤さんはとてもクーパーのことを可愛がってたし、今は新しい家族もいる。これから僕や美月が加藤さんに負けないくらいクーパーのことを可愛がってやれば、クーパは少しも可哀想なんかじゃないんだよ」
「……うん」
美月はそれからもひっくひっくしゃくり上げながら泣き続け、クーパーはそんな彼女のことを気づかうように、下からのぞきこんでいた。額によっているしわがまるで「どうしたの?」と聞いているような感じがする。
「さあ、早く帰ろう。クーパーのことはこれから、僕と美月で守るんだ」
「うん!」
月明かりの中、僕と美月は手をつないで歩き、クーパーもまた、僕たち子供の歩調にあわせて、トコトコ横を歩いていった。
「あんたたち!まったくもう、心配させて……」
家に帰ると、涙に暮れる母さんの姿と、そのすぐ横にくたびれたような父さんのスーツ姿があった。八時前に帰ってくるだなんて、父さんにしては珍しいことだ。
「クーパーはどうした?」
僕は美月と顔を見合わせ、軽く肩を竦めた。
「連れて帰ってきたよ。花壇のところに、鎖でとめてある」
「そうか」父さんはドサリ、と重い体をソファーに沈めると、ぐったりしたように天井を仰いでいる。
「クーパーのことは、アレだな。父さんがまあなんとか、面倒をみることにしよう」
「あなた!そんな安請け合いして、あとからどんなことになってもわたしは知りませんからね!」
母さんのふたつの瞳からは、信じられないくらい急速に涙が引いていた。茶の間のカーテンを開けてベランダをのぞきこみ、忌々しげにシャッと冷たく閉めている。
「生きものを一匹飼うっていうのは、本当に大変なことなのよ。しかもあんなおっきな犬。エサ代だけでもどのくらいかかるか……それに散歩はどうするの?病気になったら病院代もかかるし。動物っていうのは保険がきかないしね。あとお風呂にも入れなくちゃならないのよ。最初にはっきり言っておくけど、母さんは絶対に手伝いませんからね」
「まあまあ」と父さんがなだめても、母さんは肩を怒らせたまま、プイと横を向いている。
「みずほも美月も塾や習いごとがあるし、クーパーの散歩は俺がやるよ。まあ毎日ってわけにはいかないだろうが、休みの日には必ず散歩させよう。エサ代は俺の小遣いから削りとればいいよ。大家さんには明日、俺から電話しとくから」
「きっと、家賃の値上げを言い渡されるわ」
母さんはなおもベランダのほうを睨みつけたままだったけど、僕と美月は手を打ち合わせて喜んだ。さすがは父さんだと思った。これでクーパーは正式に、我が家の一員となったのだ。