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彼が呼ぶ名。

作者: 睦月 葵

 


「樋口!この書類、営業2課に回しておいて。それから3課で来週の会議の書類もらって来て。頼むな?」


「了解」


 あいつは。仕事中はちゃんと樋口、って名字で呼ぶんだけどな。まったくさ。


「だからさ、香代子。明日の同期会は来いって。」


「うーん。なんか乗り気しないんだよね。ってか、香代子言うな。」


 隣のヤスに、軽く裏拳で突っ込みを入れながら、ビール片手に焼き鳥に噛り付く。

 こんな風に、同期のヤスと仕事帰りに居酒屋で飲んだり、ご飯を一緒に食べるようになったのは、いつ頃からだったかな?


 わりかし近所に住んでたこともあって徐々に回数が増え、今では結構頻繁な感じで。

 だけど、特に深く付き合ってる意識がないのは、あまりお互いのことを干渉しないからなのか。


 二人でいても、特に意識するような関係になる気配がまったくないからなのか。なんだろね?この楽な関係って。



「もう3年も呼んでるんだから、そろそろ慣れろや。ってか、お前も靖雄って呼べば?おあいこってことで。」


「3年?そっか、3年か。」


 ヤスの戯言を軽く聞き流して、3年前を振り返る。






 3年前。私には2年間付き合った彼氏がいた。

 3つ年上で、大人で、優しくて、いつも愛情という毛布で私を優しく包んでくれるような人だった。


「カヨ。ほら、危ないよ」


 とか、


「カヨ。可愛い。大好きだよ」


 とか。彼にカヨって呼ばれるだけで、私は嬉しくて照れ臭くて。いつも顔を赤くして、彼の隣にいた。


 だけど、なんとなくだけど、彼の様子がおかしくて私は親友のユミ子に相談したんだった。

 最初は、


「仕事が忙しいんじゃない?カヨが、カナメさんのこと、癒してあげなよ。」


 とか、


「カナメさんの好きな、美味しい料理作ってあげたら?」


 とか相談に答えてくれて。

 最終的になぜか3人で鍋パーティーを楽しもうってことになった。カナメも「楽しみにしてるね」って言ってくれて。


 私はどうしてあの日に限って、3人で写真を撮りたいなんて思ったんだろう。

 あの日、カナメたちが帰るまで、私のスマホの待ち受けには、ユミ子とカナメさんの間で満面の笑みを浮かべる私がいた。




「おい!香代子?」


「おいって。おい香代子、聞いてるか?」


「ん?聞いてないよ。」


 なんて返せば、容赦なく裏拳が飛んで来て。


「有森がお前に会いたがってるんだ。どうしても謝りたいって。」


 あぁ。

 私が行きたがるわけのない飲み会に、ヤスがどうして何度も誘ったかが、やっと分かった。

 そっか。有森くん、か。




「どうして?どうして繋ぎ止めておかなかったんだよ。カヨがカナメさんを繋ぎ止めておけば、由美子だって、由美子だって!」


 あの日。私の前で大声で叫んだのは、同期の中ではわりと仲の良かった有森くん。いい奴だったからこそ、親友のユミ子を紹介して。付き合って1年半位だったと思う。


 その日は、会社を出たら有森くんがいて。私の腕を掴んで、ずんずん歩きだしたんだった。私を半ば引きずるようにして、どしゃぶりの雨の中を歩く。

 会社から5分位のところにある公園で、彼は雨か涙か分からないけれど、ぐしゃぐしゃの顔で叫んだ。


「どうして!!」


 って。どうして?なんて。私が聞きたかった。




 あの日、カナメを喜ばせたくて、ユミ子と美味しいお鍋を作ってカナメの帰りを待ってた。

 なぜか、カナメがそろそろつくって頃から、ユミ子がそわそわし始めたけれど特に気にもとめなかった。

 カナメが帰って来て、いつもだったら


「ただいま。」


 って頬にキスしてくれるのになかったことも、いつもだったら


「カヨ、可愛い。」


 って頭を撫でるのになかったことも、ユミ子がいるから恥ずかしいのか、と思ってた。


 違和感を感じたのはもう片付けを始めた頃。

 泊まると思ってたカナメも、カナメが泊まらないなら泊まると思ってたユミ子も、なぜか帰ると言った。

 そして、台所で私がお鍋をしまっていたら、リビングでの二人の会話が耳に入ってきた。


「由美子。それ、とって?」


 頭が真っ白になるって、こんな感じなんだって思った。

 由美子。愛しそうに口にしたカナメ。そして、


「あ、じゃ要さんのとこのもこっちにくれる?」


 要さん。突然、全てが明白になった気がした。

 このところのカナメのふさぎようも、ユミ子のそわそわも。

 二人で私を、笑ってたの?何も知らない私を?今日もこの後、二人で一緒にいる予定だったの?二人とも帰るってそういうこと?



 だけど、私は何も言わずに逃げた。

 何事もなかったようにリビングへ戻り、何事もなかったよう二人に接して、そして何事もなかったように二人を送り出した。



「香代子」


 それはカナメが私を抱いた時にだけ囁く名前だった。


「香代子」


 愛しそうに熱を帯びた声で、呼んでくれた。彼がそう呼んでから、私は私の名前が大好きになった。

 その記憶は本当に大切な宝物だったから、もう戻れないと思った。





 そこまで思い出して、


「ばーか」


 店のお絞りで突然顔を拭かれた。ごしごしと。


「ちょ、ヤス。化粧がなくなる。やめてってば」


「じゃ、早く化粧直して可愛く変身して来い」


 トンと背中を押された。慌ててトイレに駆け込めば、マスカラもアイメイクも、なんてこと!眉毛まで、ぐちゃぐちゃだった。

 化粧を直して戻れば、会計は済んでいて慌てて店を出ればタバコを吸っているヤスがいた。


「お?ちゃんと変身したな」


 なんて、私の頭を撫でるヤス。はっきり言って、悪いクセだと思う。女の子は大好きよね?頭撫でられるの。


「ってか、いくらだった?」


「今日の分、おごってやるから明日ちゃんと来いよ。そんで早く全部終わらせろや。」


 黙っておごられたことも、返事をしなかったこともスルーされたけど、そのままお互いの家に帰った。






「お、香代子。ちゃんと来たな、えらいえらい。」


 そう言って頭を撫でたのは、やっぱりヤスで。

その手を「やめてよ」って振り払いながら、


「おごってもらっちゃったしね。仕方なくよ、仕方なく。」


「素直じゃねーな、ほんと。」


 でも、そうやって笑ってくれるから助かるんだけどさ。

 同期のみんなに久しぶりで挨拶とか交わして、少し食べて、少し飲んだあたりで懐かしい顔が移動してきた。


「久しぶり、有森くん。」


「カヨ。そうだな、久しぶり。」


 人懐っこい顔で笑う有森くんは出会った頃の有森くんのようだった。最後に見た有森くんは、ぐちゃぐちゃだったしね。


「有森ー、ちょっとタバコ買って来て」


そう言ったのはヤスで。だから当然のように、


「あ、じゃあ私も行ってくる」


と立ち上がった。

 居酒屋が立ち並ぶ通りなので、人がたくさん歩いていた。騒めく人々の流れに乗って歩きだした私たち。何から話せばいいんだろう。とにかく、何か話そう。そう思って切り出せば、


「カヨ。あの時は、ごめんな。」


 人の波の切れ目で、有森くんに腕を捕まれて、歩道の端に寄る。コンビニまで、あと少しってところだった。


「俺、カヨだって辛かったのに、あんなこと本当にごめん。」


 私は、あの時話せなかった話しをやっと有森くんに伝えることが出来るんだね。


「二人は浮気なんか、してなかったの。お互いの気持ちを伝えることさえしてなかったの。」


 それは、直接ユミ子から気持ちを聞いた私だから分かることで。二人ともお互いの気持ちを隠してたし、知らなかったって。

 仕事の相談で、電話で話すようになって、惹かれたんだって。でも、気持ちを隠そうとすればするほど、私への罪悪感とカナメへの想いが募ったらしい。




 私は、カナメとすぐに別れた。


 それ以降は会いもしなかったし、電話にも出なかった。ひどいとは分かってたけど、私からの一方的な拒絶だった。


 ユミ子には友達は続けられないこと、でも私を大切に思って我慢してくれたことだけは嬉しかったと伝えた。

 あとは二人次第。その後どうなったか、なんて知りたくもなかった。


「あのあと由美子は連絡をくれたよ。ひどいことして、ごめんなさいって。それから、やっぱり要さんともいられないって。要さんもカヨへの気持ちとの板挟みで、苦しんだみたいだよ。」


 そうだったんだ。


 あのあともカナメからの着信はしばらく続いて。でも、私は着信拒否にしたんだった。


 カナメがどんな気持ちで連絡をくれてたかなんて、私は知らない。ただ。私はカナメが好きで、だからこそ何を言われるのか、怖くて怖くて仕方なかったんだ。


 ユミ子への気持ちだけでなく、それまでの私への気持ちまで否定されたりしたら、立ち直れないから。






 それに。あの時は声を聞いてしまったら、カナメに縋ってしまいそうだった。








「もう、終わったことだよ。」


私がそう言えば、


「終わってないから、ヤスの気持ちに応えられないんだろ?」


 有森くんは私の目を真っすぐに見て言った。


 有森くんは、あの後しばらく落ち込んだけど、合コンで知り合った女の子と付き合うようになり、来年結婚するらしい。


「俺の友達さ、由美子の会社の女の子と付き合ってて。由美子、地元でお見合いして来月結婚するらしい。それ聞いてまだ立ち止まってるカヨに、どうしても謝りたかった。そんで、ヤスの3年間を評価してくれって、頼みたかったんだ。」


 ユミ子が結婚。

 そっか、もう3年も経つんだもんね。そっか。


「あいつは本当にお前のこと大事にしてると思うぞ」


知ってる。


「あいつは絶対にカヨを泣かせないって」


うん、そうだね。


「本当はカヨも全部分かってるんだろ?あいつがどうして名前で呼び続けてるか」


 それは。

 あの日の私がよみがえる。


 カナメのことを話せる人がいなくて。ユミ子まで失った私には、いつも愚痴を言い合ってたヤスしかいなくて。

 もう二度と香代子って誰にも呼ばれたくないって、私が泣いたから。





 タバコを買って店に戻るとヤスと目があった。けれど、私は無視してみんなに帰ることを告げる。


「今日はちょっと用があるから帰る。次も参加するから誘って?じゃあね。」


 一通りみんなに声を掛け、自分の飲み代を払って居酒屋を後にした。お酒と熱気で暑かった居酒屋を出れば、涼しくて。

 有森くんと話しをしなきゃってプレッシャーからも解放された私はちょっと上機嫌で。駅までの道程も、酔ってるからではなく足取りは軽かった。


「香代子。」


 振り返れば、そこにはやっぱりヤスがいて。


「何、笑ってるんだよ。」


「んー?なんだろうね。」


 くすくす笑うと、不機嫌そうな顔で私を見る、ヤス。


「ヤス?」


「あ?」


「ヤス。」


「だから、なんだよ」


「靖雄。」


 ヤスはピタリと歩くのをやめた。それから見る見るうちに顔を真っ赤にして怒った。


「お前!酔っ払ったからって、それはねぇよ。」


 怒ったから赤いのか。それとも?抱き締められた腕の中で考える。


「で。すっきりしたのか?」


「うん。ユミ子のことだけが気掛かりだったの。長く親友だったしね。有森くんに会えば、その後のことが分かることも知ってたけど、怖くて聞けなかった。」


「気持ちが戻りそうで?」


 私は首を横に振った。違う。


「二人の恋の結末なんてそんなの、分かってたからだよ。」


 私は、本当は分かってたんだ。私が何も言わずに二人から離れたことで、二人の罪悪感が一層増すことを。

 私のために気持ちを押し殺した優しい二人だから、あの二人だからこそ、きっと一緒にいられないってことも。


 ホントに嫌なヤツだよね、私。だけど。

 私にこんな辛くて悲しい想いさせるんだから、ちゃんと幸せになりなさいよ、って気持ちもどこかにあって。


 あの時、二人の前で、泣いて、叫んで、縋って、怒鳴ってちゃんと現実と向き合えば良かったんだ。

 カナメに、どうして?って聞けば良かった。私のこと愛してなかったの?って。


 あの時、ちゃんと振られておけば、こんなに、こんなに私が罪悪感を抱くことなんて、なかったハズなのに。


 ユミ子にも。最後にちゃんと言えば良かった。カナメと幸せにならなかったら許さないって、言えば良かった。


「親友の幸せ願ってあげられなかった。私の気持ちを優先してくれた親友だったのに。ずっと私を大切にしてくれた親友だったのに。分かってたのに背中を押してあげられなかった。」


 私はユミ子の結婚の話を聞いて、やっと全てを終わらせることが出来たんだと感じた。






「そっか。じゃあ、もう香代子って呼んでもいい?」


 もう3年も呼んでるじゃん、なんて突っ込みは心の中だけにして、私は靖雄の腕の中で頷いた。


「意味分かって頷いてる?」


「うん。」


「俺のこと、靖雄って呼ぶ?」


「うん。」


「じゃあ、これから家来る?」


 靖雄が背中に回した手を腰へと滑らせた。あからさまな奴。だけど。


「うん。」


「もう一度聞くけど、意味分かって頷いてるんだよな?」


 もう。分かってるってば。

 カナメが、


「香代子」


 って呼んだ記憶は、3年掛けて靖雄が上書きしていったから、もう微かにしか覚えてはいない。

 3年間。他の誰にも靖雄って呼ばせなかった靖雄。

 それは、私のためで。3年かけて、根気よく私の中のカナメを消してくれて、靖雄を信じさせてくれたこと。本当はすごく感謝してる。


 素直じゃないから、言わないけど。




 ずっと、ずっと。

 私を呼び続けてくれた靖雄に、


「靖雄に「香代子」って囁かれたいよ」


 って伝えれば、さっきよりも耳も顔も赤くした靖雄が、私をギュッと抱き締めて、










「3年分の想いを甘く見るなよ?覚悟しとけ、香代子」


 って、甘く甘く囁いた。






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