表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/31

第二幕:ノエルのおまじないと魔法世界生活の始まり 二

 師匠(マエストロ)はきっと老人だろう、とナギサは考えていた。コナーの持つどっしりと構えた雰囲気が、彼を四十代ほどに感じさせる。その彼が尊敬する師匠。人生のなかで出会い、懐疑し、解釈したすべてを顔の皺に刻んでいる、そんな老人のイメージが先行した。


「ヤァ、コナー、お邪魔するよ。ここまでの困難は、子供の頃に『倍にまた倍の呪い』を好物のチーズ・スコンに試みて以来じゃ。……そこで口を開けっ放しにしているのが、名誉ある研究調査に同行中であるはずの、儂の一番弟子かね?」


 コナーは、紅茶のカップを握るナギサを押して前へ立たせた。


 朝食のブラックプディング(血入りソーセージ。美味しいと言うコナーの隣で、ナギサは涙目で飲み込んだ)の臭いが残る客間に現れたマハラルは、想像以上の老人だった。真っ直ぐ立てばノエル程の背丈を、杖に体重を預けて半分にまで低くしている。もはや髪か眉か髭か、判断のつかないもじゃもじゃした顔に、高い鼻と尖った垂れ耳が引っ付いている。手袋まで使って、一切の肌を見せない。現実感のない高名な学者、杖作家、コナーの師匠の外見はモップ、タッセル、ブラシを忘れたチベットの犬……と、ナギサに、次々浮かべるぞんざいな感想を、うっかり漏らさないように注意する必要を感じさせるものだった。


「フゥム! お前さん、初めて会ったときとまッたく同じ顔をする。種族も魔法も、故郷にまで暗いようだ、と聞いて耳を疑った。悲しい事実じゃ、本当に『レプラカーン』を金箔の剥げた像のように憐れむとは!」

 彼は、弟子の隣にノエルを見つけた。

「しかもヨリア連れとは。ヨリアならば、君も下町の針仕事かね? コナーの蒐集品を着ておるから、流行りだった異国モティーフの絵画モデルかと思ったよ。そう首元の骨が浮くほど痩せて腰が細いと、着辛そうじゃな」


 ノエルはすっかり気圧されて、首をぷるぷると横に振る。と言うのも、マハラルはその小さな体からは想像できないほど濃密な声を発したのだ。ナギサもノエルも、音の激流に流されるように感じられた。


 そこへさらに、ガタガタ音を鳴らしながら、厚着をした木の肌の客人が現れた。木の人は抱えた旅行カバンを広げ、山ほど詰め込まれた、小指サイズから雨傘より長いものまで個々別々の杖で、展覧会を始めた。


 マハラルはひとつを取り「杖を突き合わせよ」と、表情を変えず杖先をナギサの腹に向ける。


 ナギサからして見れば、老人の表情は髭が邪魔で読めないし、怪しい動きの木の人に至っては表情筋が機能しているかも判明しない、理科室の人体模型的不気味さを漂わせる。脳はオーバーヒート寸前で活動していた。なんと非力で無力だろう、と思う。


「あ、あの……何が起きるか説明もなしに! ……杖! 分かりました、いますぐやりますよ」


 ナギサは命ぜられるがまま、くしゃくしゃした様子で枕元の杖をひっ掴んだ。慎重に、杖先と杖先を合わせる。硬い材質同士を点で押し合う感触が、杖を支える薬指に伝わる。杖と、紅茶の半分ほど残ったティーカップを持って中腰になる様はなんとも間抜けな気がする。


「説明が必要かね? 呪いの深度を検査するのじゃ。……本当に、まるで記憶を引き継がず、魔法を一切知らないのか。節の力が抜ける感覚が襲うが、杖に集中しなさい。良いね?」


 老人はその長い鼻から、深く、深く、暖炉で温められた空気を吸い込んだ。「始めよう」と言う彼の言葉を合図に、彼の杖の先が暗む。光を忘れさせる。それとも、世界で最も暗い光か。


 ナギサは世界に魔法が満ちる事実と向かい合った。暖炉の炎が幻想に思えても、神経を走るざわつきは疑えなかった。老人は呪いに魔法を向けている。謎の病気に謎の薬で対処するようなものだ。悪い結果になったら——そんな不安を振り払い、巨匠を信じて杖先を見る以外できない。


(尊敬される師匠。特別なヒト。……なら、呪いの解決策を見つけてくれる、きっと)


 コナーがカップをテーブルに置いてくれた。ナギサは姿勢を正し、ざわつきから、動けなくなる程の脱力への移行を覚悟する。杖先がどんどん歪められる。温度や明度といった感覚までも、吸い込み暗ます魔法の威力。彼は昨日の炎の鞭を聯想した。……魔法の未知数に、仄暗い恐怖がある。その恐怖にも拘らず、彼らの生活をほんの数時間見せられただけで、魔法の普遍性を諒解し、受け入れつつある彼の心に、また恐怖した。世界の魔法は利便性の隣にも、危険性の隣にもある。——なんてことだろう、恐怖が甘い蜜に思えるなんて。


 ……しかし、一向に脱力は起こらない。マハラルは魔法を止めた。彼が見えないスイッチを押す仕草を繰り返しながら客間を低徊する様子を、ナギサは不安を紛らわす為に紅茶を飲んで見守った。……やがてマハラルは手を叩き、ナギサの眉間の皺を解すように親指を押し当てた。


「体にミュストが流れておらんな」


 ——またミュストの話だ、とナギサは住人の顔を見廻した。魔法じゃないもの。彼はマハラルの話に追い縋ろうとした。彼らは自分の状況を、せめてミュストがなにか、でも知っている? しかし診察を見守る家主たちまでも、巨匠の発言を納得できない様子で口元を押さえ、愕然としていた。ミュストの意味が分からない、とは違う疑問の表情。コナーは頭を抱えて「まさか」と呟き、ノエルは顔面蒼白で駆け寄り、骨張った手をナギサの額に添えた。


「ナギサが、まさか、ミュストのない体で生きている筈が……。彼は、幻影や、幽霊や、ましてレイスだなんてことありえないです!」


 急に わっ と取り囲まれ、ナギサは取ろうとした紅茶をズボンに零してしまった。決して喜ばしい容態ではないのだ、と薄々感じた。巨匠(マエストロ)と木の人の落ち着き払った様子が、暗黙の内に余命宣告を潜ませる医師に見える。


「これは違う事情だ」コナーがノエルの肩に手を置いた。「師匠、エリーは後天的に……」


「そうじゃとも、ミュストがなければ、人は生きられぬ。君がナギサと呼ぶエリスは『ミュストを流さない』のじゃ。流さない、とは『持たない』ということではない」


「流さない……」

 ノエルは、巨匠の言葉の意味を、頭の中で何度も繰り返すようだった。額に添えられた彼女の手に、一層強い力が込められた。

「流さない、もしかして……そんな! ナギサは魔法を少しも使えない、ということですか?」


「左様。こやつは生まれたての赤子の如き、無垢のミュストを持つ」


 マハラルの「それが直接死を招くことはない」という言葉を、ナギサは聞いた。それでも、ノエルの言う「魔法が使えない」ことがいかに死に近しい状態か、説明するのは容易いことに思えた。それは途方もなく困難な日常生活のこと。水、服、炎を灯す、飲み物を注ぐ……。彼らの生活のあらゆる場面に活用される魔法が、ナギサにはない、と言うことだ。彼は魔法の力の万能を目の当たりにし、恐怖した。だからこそ、この世界で魔法が足らないことの不便さを想像し、恐怖を重ねることになってしまった。


(異世界の右も左も分からないのに、日常動作も難儀するって!)


 体は死ななくとも、自らの意思で決定ができないならば、それは死体同然に思えた。……マハラルは、コナーがナギサの生活を助けることを提案し、コナーもそれを承諾した。苦しい提案に聞こえた。ずっと被介助者の役だなど耐えられない、と。だから彼は、忘却の呪いが偶然巨匠にも解けぬほど深いこと、なんの弾みか人格が紛れたこと、一方でも解消できることを望んだ。原因が明白なら、解除できれば、もし世界から自己が消えたとして、どんなに幸せか。消滅は希望に思えた。——死んでエリスの体に入ったのだ。死んで元の体に戻れるかも知れない。


 しかしマハラルは、彼の僅かばかりの願いも砕いた。


「魔法の痕跡はあるのじゃが。しかし呪いではない。コナーよ、これは忘却ではなく、言うなれば更新じゃ。体が新しいのか、人格が新しいのか。それは定かでないが、このエリスは儂らの知るエリスと、厳然と区別せねばならん。残念じゃが、施せることはない」


「…………。どうにもならない、なんて。僕、なにもできず死ぬのでしょうね……」


 ナギサは暗い前途を想い、項垂れた。絶望感で塗りつぶされた声が漏れた。世界から切り離された病室で、植物人間を過ごす気分はこういうものか、と思う。


 ノエルは震える指で、彼の額を撫でた。


「だ、大丈夫だよ。使えない魔法があったって、ガスも水道もあるから……。私は杖を持っていなくても、生活してる人、たくさん知ってるよ。そんな……死、なんて。大袈裟な」


 ナギサは、ノエルの励ましは必死に取り繕ったのだ、と簡単に見抜けてしまった。その言葉の裏に、魔法が使えないことの甚だしい苦労が隠れている。……舌の奥が蘞くなる。彼はどこを見ても自分の情けなさが際立つように思え、さめざめと泣いた。


「ナギサ……」


 彼女のまじないすら、いまのナギサには満足に効果を発揮できなかった。


 ナギサの鼻をすする音が客間に響く。控えていたコナーの側仕えの視線は、主人の友人を助けよう、という使命感を燃やしているように見える。その視線こそが、彼には重荷なのだ。マハラルがハンカチを渡して洟を擤むよう促す。ナギサは、洟で汚すことに抵抗があって、代わりに瞼に被せ涙を拭った。こんなにも眼球が濡れるのに、熱が冷めない、苦しさが流れて消えない。


「……そうじゃ」

 マハラルは腰を伸ばし、ノエルに向き合った。

「確かめたいことがあるのじゃが。ヨリアのお嬢さん、君は何故、エリスをナギサの名で呼ぶのかね?」


「えっ……。それは、その」


 彼女は今朝の話をして構わないものか逡巡し、ハンカチに顔を埋めるナギサを呼んだ。


 ……彼は水っ洟を抑え、彼女に話した通りを聞かせた。現在の人格を持って目覚めたこと、エリスを知らないこと、そして今度は、白い部屋に寝ていたことを加えて。


「ホォ、『閂の結界』じゃ。しかも杖自体を結界に変質させるとは……手間の掛かる」


 マハラルはエリスが施した魔法を聞いて、感嘆の声を上げた。


 泣き腫らした目にキラキラと光を乱反射させ、ナギサはマハラルを見上げた。


「僕は、どこかの看板の言葉を、名前と勘違いした、のかも知れませんよ? 昨日は酷くショックを受けていたし……いまもショックですけど……それとも、やっぱり僕は、エリスじゃ無いのかも知れない。だって変なことです、途中から別人の、過ごした時間を思い出せるなんて」


 しかしコナーは「どの要素もエリーの面影を持っている」と言う。「たとい話し方を間違えたとて、ミュストを間違うことは無い」。彼は自信に満ちて主張した。


「でも、でも、コナーさん。昨日この頭を、粉で色が乗っている、と見たでしょう。エリスと僕は、近似としても、同一人物じゃない! 呪いだけの違いだったら、それを解除する希望があったのに。だけど呪いじゃない。僕、彼の記憶も関係も持たない、まったくの別人なんです。だとしたら、あなた方が助けたい人じゃない……」


「確かにエリーは無機質で加工品的な肌ではなかったし、髪も黒かった。既知の魔法にお前の変化を説明できるものはない。しかし、私が昨日感じたミュストに間違いはない。エリーの揺るぎない証明だ! いや、もしも本当に別人なのだとして、私がお前を助けない理由もないのだ!」


「でも……でも……!」


 体がエリスであかどうかなど、ナギサには問題ではない。彼にとって重要なのは、彼自身がナギサであること、その状態で一方的に助けられる関係に耐えられない、と言う話だ。確かに介助の手があれば、ナギサの体に戻り、エリスの記憶を再生する方法に、簡単に到達可能かも知れない。でもそれは無理な方法だ。彼の精神は被介助者役に耐えられない。


 ナギサは、他人の手を煩わせることがどうして酷く苦しいのだろう、と彼を詰った。素直に受け入れられれば楽だ。しかし、彼はそうするより、街で冷たく朽ち果て、棺桶のなかに収まる方が、より自然で、世界に調和し、且つほんの少しの辛苦もない方法な気がしたのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ