第二幕:ノエルのおまじないと魔法世界生活の始まり 一
ナギサは心臓が引き裂かれる衝撃に叩き起こされた。覚えのある感覚に似ていた。心臓の痙攣が止まらず、全身の酸素が足りなくなる、最後の瞬間。……彼は血の気のない左手をカーテンの隙間から差す太陽光に当て、「幽霊だ」と呟いた。照らされた手の先に、暗い室内で杖を振るノエルの脚がある。彼女はナギサの起床に気づくと、「ねぇ、あなた。おはよう」と彼に微笑みかけた。彼女は、彼の頭上を超えて窓を開け放った。彼は、着物に抑えつけられた胸の裏側を見上げた。潰れた左の袂が彼のほほをくすぐる。
「……おはようございます」
「うん。使用人さんたちより早い起床だね」
彼女は暖炉に適度な隙間を作りながら薪を組み、杖で頂を叩いた。薪は燃焼によって含水率を下げ ぱき と軽やかに爆ぜた。照度の低い柔らかな光がナギサの目に飛び込んだ。
ナギサはぼんやりと、生前の彼を浮かべた。化粧の施された死体で煙を浴びる、あるいは、箱の花畑に横たわる彼。暖炉の熱や光の現実感を疑った。小説と学術書、少しの家具しか残していないから、整理は容易に済む、と思った。整理を終えて逝きたかった——と死後になって初めて考えた。生前彼は、彼自身が死と向き合う歳だと思えなかったのだ。今更、始末はできない。
涙を溜めた目を隠すように、ナギサは抱えた膝に頭を埋めた。
「大丈夫? 酷く痛むの?」
ノエルは沈黙するナギサにカップを渡した。
「あのね? フィールドさんが『疲れが取れるから』って薬草酒を下さったの。私より、あなたに必要みたい」
フィールド、コナー・フィールド。ナギサは、彼に区切った客間の床を借りた。また、彼は親切に寝起きの薬草酒まで用意した。カップを受け取り、少しだけ口に含む。釉薬のつるんとした口当たりが、薄鼠色の唇を押す。ハーブとアルコールの清涼感が鼻を抜け、涙を引き戻す。苦味か酔いか、それとも魔法か。薬草酒は彼を効果的に目覚めさせた。彼は立ち上がり、崩れた着物の合わせを直した。彼もノエルも、着物を硬い帯で容赦無く皺だらけに着ていた。彼は壁に掛けられた鏡を覗き、思った——遠い故郷の街へ、本来はこんなフレアスカートのようにはならない雑な着付けを正せる場所へ、帰りたい、と。
ノエルは薬草酒を飲み干したカップを受け取った。
「涙。まだ、傷が痛むの……?」
「大丈夫、ありがとうございます。手当が悪いことはなくて、悪夢。悪夢を見たんですよ。床で寝たせいかな……腰が痛くて。やっぱり敷物を借りれば良かった。僕、生きてるんだなーって」
「私が床で良かったのに。平滑な床だなんて、私に言わせれば高級ベッドだよ。……お礼したいのは私の方だよ、快適に眠れたの、本当に久し振りなんだ。ねぇ、ありがとう」
ノエルはクッションを押して、寝床の包容力を披露した。床を選んだのはナギサだが、腰痛がなければ目覚めの気分も違うだろう、と羨ましくなった。昨夜、執事が使用人の誰ひとりとして魔法でベッドを出せないことを丁重に詫びた。ナギサにしてみれば魔法産ベッドでは落ち着けなかっただろう——むしろ突然の宿泊客への気遣いに恐縮しているのだ。謗るべきは、クッションを借りる勇気がなかった昨夜の彼自身だ。
……一晩を明かした。
ノエルはナギサの右手を取り「ねぇ、杖を借りたから治療できるよ」と言った。「お願いできますか?」と彼が問うと「もちろん」と頷き、彼女は杖先で膜を圧迫した。膜はへこみから罅割れ、腫れた肌と傷が剥き出しにされる。
『「主」を賛美し、雫が不浄を流すよう、御国の薬師の名に祈ります——治癒』
呪文のアンコール。消毒液の匂いを封じ込めた膜が右手を包む。ノエルはそれを擦ったり摘んだりして満足げに頷いた。保護のおかげか傷は小さかった。彼女の所作は音がない——処置を終えたノエルと真っ直ぐ見つめ合い、彼はそう感じた。深い襟ぐりから覗く乳白色の肌が、極彩色の生地に映える。亜麻色の髪の瀞みとライラックの瞳が見える。ノエルは右目と右小鼻が少し小さいんだ——そう気づいたところで面映くなり、彼は ぷい と目を逸らしてしまった。
「わ、私なにかしたかな……」
「い、いや違っ……居た堪れなくて。……ありがとうございます、こんなに丁寧な治療」
「……どういたしまして」
紫の中心に惹きこまれそうになる。耳が赤く染まっている気がする。ナギサは自分の顔を想像できなかったが、きっと締まらない顔をしている気がして、火照るほほを両手で包んだ。そうして顔の半分を見えなくして、彼は、ノエルの言葉の続きそうなことを待った。意識してしまうと彼女の声だけで体温が上がってしまう気がする。顔を隠すことで、どれだけそれを隠すことができるか、彼には分からなかった。
「治療ついでに、ひとつ尋ねて良い? あなた昨日、どうして『ナギサ』って名乗ったの? あなたの名前は『エリス』だ、って昨夜フィールドさんも話していたけれど。どっちなの?」
虚を突かれた。ナギサにとって答え難い、頭を冷やす質問だ。どちら、と尋ねられると、きっと自分はエリスであるのが正しいような気がする。ここは、別世界だから。しかし——
「…………。僕は、僕の名前は『ナギサ』です。目が覚めたら……そう思ってました。名付け親がいて、その名前で過ごした時間や場所があって……。でも、いまはエリスの姿を借りている、ナギサなんです」
畢竟ナギサであることの方が、彼には大事なのだ。エリスは街に根ざす名なのだろう。この体が過ごした時間はエリスのものである筈だ。しかしナギサが耳に馴染む。十九年の付き合いがある。ナギサの体を諦め切れていないのだ、況んや精神を捨てるなどできる筈もなかった。
「僕、やっぱり、怪しい奴ですよね」
「ううん、忘却の呪いがどうとか、どこのヒトかなんて、私はどうでもいい。私は、どっちの名前で呼んだら良いのか分からなかったんだ。名前を隠すなんてよほどのことだから」
「隠したつもりは、ないんです。……エリスと呼んで頂いたほうが、困ったことは、少ないでしょうね。周りが呼ぶなら僕はエリスを引き受けます。でも、ナギサなんです」
「あなたが言うなら、私は……。あ、フィールドさん」
扉が量感ある音を立てて開いた。家主の個室から現れたのは、コナーと、分厚い体躯の馬頭の男(プーカ種の従者と紹介された)だった。ナギサは、一瞬動揺を見せた。まだ獣頭に慣れない体が緊張する。筋肉質な巨躯が、猛獣的気性を勝手にイメージさせる。実際には、彼は少しもそんな気質を持ち合わせていなかった。彼は極めて丁寧に、客人によく眠れたかを尋ね——ようとして、腰をさするナギサを発見し、答えを待たずとも察した。
「今夜も泊まるならば、客間に軟体の呪いを掛けることも考慮せねばな。……さてエリーよ」
ナギサはエリスの知人に、体の元持ち主の過去について尋ねたかった。興味があるのだ。しかし黄泉竈食ひのように、知識を食らうと帰れなくなるのでは——と躊躇していた。だから、話し始めたコナーに背中を押された形となった。あるいは、止めを刺されたのかも知れない。
「午後には師匠がお出でになる。呪いを診て貰えるし、昔話も聴けるだろうね。来る前に手紙を寄越すそうだ」
彼は従者を使いにやった。
「ノエル、照明まで灯して貰えたのだね、ありがとう。薬草酒は……エリーが飲んでいるのか。あなたも、新しく注ぐから、飲みなさい」
径の太いコナーの杖が、酒瓶に光を浴びせた。
魔法によって浮かぶ瓶が、ひとりでに注ぐ薬草酒。香りと茶色い器姿も手伝って、魔女の秘薬のようだ。彼女はそれで唇を濡らし「屋根を借りたお礼に、他に手伝えることはありますか?」と尋ねた。コナーは杖を指差し「手紙を客間で受け取れるようにしてくれ。寒いのは心底苦手でな、腰が重くなるんだよ」と頼んだ。手紙は勝手に飛んでくるのだと言う。なんとも、魔法めいた話な気がする——と、ナギサは窓の外を眺め思った。
片腕で器用にショールを纏い、ノエルは階段の手すりに右手を掛けた。
「それなら、配達物に客間の窓をノックさせて、使用人さんには戻るよう伝えます。……ああ、そうだ『ナギサ』! して欲しいことがあるの」
「……っ! はい、なんでしょうか?」
「保護の具合が悪ければ調整するから、少しだけ動かして? じゃあ、行ってきます!」
驚いた。ナギサには三音に聴こえる固有名詞が、憂鬱を霧消させる圧倒的な力を持っていた。
彼女は無邪気な笑顔で手を振り、勢いよく急な角度の階段を降りて行った。木靴が床を鳴らしている。ドアの金具の開く音がする。コナーはそれを、目を丸くして聞いていた。
「ナギサ? お前のことかね?」
「僕にだけ効くおまじないです。……嬉しい。効果抜群の、抽象的な治療薬ですよ」
ナギサは彼女の勧める通り、魔法の具合を確かめた。ぴたりと添うが、細かな動作の邪魔をしない膜。上に革手袋を重ねても、きっと違和感なく指先まで動かせる。悪い箇所など見当たらない。強いて言えば、ご機嫌で右手を撫でる様子が、コナーには不気味に映ることぐらいだ。
「……怪しい笑いだが、傷は大事ないか? 上着の焦げからすると、背中も幾分か火傷していそうなものだ。安静を続けると良い。傷も呪いも、時間が解決してくれるかも知れない」
「怪我はノエルのおかげで快調に向かってます。師匠……がここにいらして、診て頂けるんですよね? ごめんなさいこんなに迷惑を掛けて。お礼に返せること、何も思いつかないです」
「無事に帰ってきただけで、私は嬉しいんだ」
彼はナギサの背中を、短く太い毛の生えた力強い手で叩いた。
「お前からすぐに調査の話を聞くことは叶わないが、昔のように、何もない時間を無駄話、無駄読書で潰すというのも面白いことだ。久しい早起きなのだが、今朝も寒い。朝食前の茶を備えた暖炉の前で、先生をゆっくり待つとしようじゃないか」