第一幕:ビアトリクス墓地での出会い 三
コナーは客人に、暖炉前のソファで冷気に凍った体を解すよう勧めた。ふくらはぎの立派な男性が温められたスープを給仕し、家主は「使用人の食事で申し訳ないが、体を温めてくれ」と勧めた。澄んだ液体に潰したポテトの団子、みじん切りキャベツ、おそらく鶏肉。淡白で、透明なスープに調理の手間がこもる。
ナギサは彼らの親切に戸惑った。が、決して悪意を持ってのことではない気がした。根拠のない勘だが、実際彼らはエリス(中身はナギサだが)との再会を大いに喜んでいるらしい。……そして同時に、エリスの記憶喪失に落胆してもいた。
コナーは、エリスのファミリーネームが〈フォン=ダラム〉であること。彼が研究機関に加わっていること、遠征に参加しており、しばらく帰らないはずだったことを話した。エリスの名前を聞いた女性は「大陸の『ダラムの貴族』って称号みたい」と言った。「やっぱりあなたは、アルトランド人ではないの?」とも尋ねた。
記憶のないナギサは一言も話せず、コナーに視線で助けを求めた。
「フォンの名前は大陸系だが、称号ではなくセントラス南部の家名だ。アルトランド人だよ」
エリスの家は外国の系統にあるアルトランド人(つまり、女性やコナーと同じ国である)とエリスの家の由来を話しているようだ。それを聞きながらナギサは、どちらでもないのだけど、と思ったが、余計な言葉は場を乱すだけだ、と慎み、顔を見せないよう俯いた。コナーが肩を叩いて、はっきり〈魔法〉という言葉を発音したのはすぐだった。
「お前のミュストの荒れを感じ、駆けつけたんだ。いったいどんな魔法を使おうとした?」
コナーは白い奔流を〈魔法〉と呼んだ。彼女が起こした不可思議は奇術・手品でなく魔法であると。ナギサを襲った炎の鞭も右手を包む薄膜も、魔法だった。彼らは魔法の世界に居るのだ。
ナギサは、半信半疑であるが、話に驚いた反応を表さないよう心がけた。魔法を信頼する、魔法の働きが場を貫く、そういった「劇」を演じている。彼ら獣頭は、そのなかで役者として動いている。そう脳髄に言い聞かせ、生まれから魔法の生活を続けた者の返事を真似ようとした。
「……彼女が僕の杖で。その、ま、ま、魔法を……。治療、でも失敗して、」
「失敗だと?」
強い語調で疑問を投げられ、萎縮した。ナギサは、隻腕のためにテーブルに体を寄せ、スープを飲む女性を見た。返答できない彼は、この方法でやっと会話を成立し得た。
彼女は、決まりの悪い顔でナギサの杖を置いた。「治癒を失敗したんです。私は未熟者ですけど、でも、その未熟者の見立てですが……杖が新品の化石とか、作りたてのアンティークみたいなんです」と、説明した。
コナーは「エリーが遠征前に新調した杖だ」と呟き、受け取った杖を点検する。二回、三回と彼の杖でコツコツと叩き、転がし、その度にナギサの杖はカタカタ震えて煙を吐く。
ナギサは彼らに、杖が粒子から生まれたと伝えるべきか悩んだ。突然目の前で粒子が形になり新たに出現した、などと言って、気が触れたのかと思われるのが怖い。……言葉は、スープと一緒に飲み込んだ。彼の意識は、役者であるよりもまず観劇者だ。魔法も粒子も獣頭も〈魔法使い役の踊る舞台〉を観劇する気分だし、彼自身、コナーたちの会話が劇であることを望んだ。
「……成る程、新品の化石。この杖は随分と魔法を使い込まれ、且つ真新しい。お嬢さんの見立てはまったく正しい。保護魔法からも判然としていることだ。君の――失礼だが、名前は」
「ノエル・アシュレイ、です」
「君の熟練は確かだ、ノエル。随分と魔法や杖に詳しいね。それに……」
彼は、どの食材も恐る恐る確認してから食べるナギサを一瞥し、眉を寄せた。
「弟弟子が世話になった。やはり忘却の呪いのようだ。私の知る彼ではないのだ。解除の糸口も掴めない。話し方まで以前と違うのだから! ……そう、話し方だ。君は随分と丁寧に話すね。……表現は、申し訳ないが、君は服を見るに最下流の娘だ。しかし多くの者は、耳だけならば、王族とさえ取り違えるだろう」
「お気づきに、なりませんか? 私は『野兎の耳と尾』を持ちませんから」
ノエルは前髪を払い、紫の瞳を示した。部屋の照明が、虹彩の繊細な線を明瞭にする。それを見るなり、コナーは持っていたスプーンを落とし、スープを運んだ男は怯え、警戒の態勢を隠さなかった。平静なのはナギサだけだ。彼女の瞳を見て、正常な反応を見せないのは、ナギサだけだった。表情の変化が、彼には不思議に思えた。
(……綺麗だのに、本当に、彼らには不安を起こさせるんだ)
落ち着きを取り戻したコナーは、傍の男を諌めた。
「そうか、君は『ヨリア・シー』か。瞳以外に特徴を残さないとは、幾分血が薄いようだが」
「私、クォーターだって聞いています。ほぼ『ヒュー』ですから、こうしてお肉も食べられるんですよ」
彼女はスープの兎肉を食んで見せた。
「ね?」
「無理は不必要だ」
「いいえ、美味しいですよ。私に出して頂いたのですから」
ふたりはナギサが見たことのない、街中に整備された庭園のこと、魔法のこと、飲んでいるスープの具材のことを話す。ナギサに分かることは大変少なかった。興味深いが理解の及ばない、退屈な時間が過ぎる。ナギサは、ガラスを挟んで隣の部屋にいるような気分を味わった。それがまた彼の微かな苛立ちを増幅させた。
(僕は、ずうっと劇の観客のままだ。……ああ、劇であって欲しい)
……ナギサがスープを飲み終え、閉塞感を紛らわせる手段が失われた頃、女性(狐頭だった)が入ってきて、客人に風呂を勧めた。ノエルは戸惑っていたが、コナーの説得により屋根と風呂を借りることになり、女性に案内され部屋を後にした。
会話劇の幕間。
客間にはトリュフチョコレートと花の香りのフレーバードティーが給仕された。コナーは自分のカップに紅茶を注いだ。ナギサは「スープを頂きましたから」と紅茶・菓子を断った。代わりに、ナギサは一端でも見聞きした劇世界の仕組みを理解しよう、と身を乗り出した。人語を解するライオン役に扮する役者ならば、当然、劇について知っていると思ったからだ。彼自身芝居に乗ずる体で尋ねた。自分も役者——何度も頭に言い聞かせた。
「……彼女は、ま……魔法が上手ですね。治療を……。でも、何故か光が散ってしまって」
「お前と彼女の相性が悪いのか、それとも、信じ難いことに杖が不良品なのか。杖がミュストを取り込むための命令を聞かず、暴走した。おかげで、お前を見つけることもできたが……」
「ミュスト、で……僕を見つける?」
「探し出せるさ。ミュストがあれば波ができる。……分からないか。参ったな、家庭教師は常にこの様な気分なのだろうか。ノエルは上流水路域の、その上セントエイル・パッチワークに連れられたことが信じられない様子だった。お前の反応を見れば、無理もない」
異常を抱えた弟弟子の姿に頭を抱えるコナーを前に、ナギサは、ただ肩をすくめた。——なぜノエルが招きを信じられないのか——水路の上流下流が、文字通り、意識・規範の上流下流を反映する、と彼が知るのは後のことだ。彼は紅茶の香りを懐かしいと思った。が、街について懐かしさはない。コナーが解説なしに話すミュスト・魔法は、街よろしく不明瞭な事物に含まれた。
「僕を……見つける。匂い、とか声でなくて」
「…………。ノエルの話では、杖の知識すら無いと聞く。難儀な状態だ。……杖は杖で問題があって、ヨリアですら使用不可とは。彼女は、ミュストに親和性が高いはずだのに」
「その、『ヨリア』って、なんのことを言っているんですか?」
口にしてすぐに漂う、タブーの香り。尋ねられたコナーが動揺し、紅茶が波立つ。ナギサは、動揺を見ることになった迂闊な質問を後悔した。彼の動揺の質で悟ってしまったのだ。
(この会話に台本は……)
コナーは知識を掻き集め、どうにか秩序立った説明を試みた。
「彼女の人種だ。『ケット・シー』『フォクシー』(コナーは彼自身、扉を順に指差し、自分と部屋を出た女性が、それぞれその種族だ、と示した)あたりは多数いるが、ヨリアはハーグランドに源流がある少数種で……、ああ、ハーグランドはアルゲン島の北東の島、連合王国に属する独立公国なんだが……、いやそれよりお前さんがヒュー種だと説明が……。……無理だ! とても一夜で語る量では無い!」
彼は牙を剥き出し、たてがみを掻き毟った。
「わあっ! ごめんなさいごめんなさい! 身振りでこれだけは分かりました、僕がヒュー、コナーさんがケット・シー。この街のヨリアは凄い大変! ……ですよね!」
「……まあ、そんなところか。……ハア、呪いの解除が待ち遠しくなるよ。なんで、なんで、と喚く子供を受け入れる家庭教師の、なんと器の大きいことか。今更先生に謝りたくなるよ」
ナギサの疑問は、コナーにとって(そしてエリスにとっても同様に)当然の知識なのだ。弟弟子からそれらが丸々抜け落ちたとなれば、コナーの溜息も当然のことであるはずだろう。しかしまだ。まだ、まさか、彼はからかっているだけ。賞賛される迫真の演技、完璧なパフォーマンスだ——心のどこか片隅で願う。お願いだ、そんな辛い事実を認めさせないで——それは半ば、新しい環境や条件と言ったものへの反射的な反抗心だ。……否、拒む権利などはない、と彼はもう分かっている。舌の付け根が蘞くなる。涙と水っぽい鼻水が勝手に流れ出す。
(この会話に台本は……そんなものは、ないんだ)
人は「ヒュー」、馬は「プーカ」の種族名。
ですが、話が空想でしかなかった当初はそれぞれ「ヤフー」「フウイヌム」で考えていて、つまりジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』からの借用でした。18世紀前半の風刺小説ですが、江戸時代の日本の描写も含まれています。一等有名なのは、リリパットでしょうか。