第一幕:ビアトリクス墓地での出会い 二
初めて出会う事象は、ナギサに恐怖を注いだ。彼はその恐怖の芯に、生命力そのもの、と言われて頷ける拍動がある気がした。鼓動が逸る、その感触の最大の瞬間、雫は杖先で膨らみ、
「っわ——」
小さな悲鳴を合図にして銀色の奔流へと変貌した。世界が突然朝を思い出す。影の居場所は銀で塗りつぶされ、収縮する。ナギサの思考は、砕片が舞う白い部屋に飛んだ。思考が現実に帰った瞬間、既に銀色の渦は影も形もない。元の暗い墓場に帰ってきた。傷は乾いていなかった。
「……ごめん、失敗」
彼女は肩を落とした。
彼女は傷を消毒する、と話したが、それが失敗したのは、自分の状態の秩序がないがためにナギサは思えた。彼女の試みがどれほど不可思議であるか、計り知れない度合いの大きいほど、彼と世界との不釣り合いや不均衡が大きいのだ、と思わせられる。——どう、と説明はできないけれど、失敗したのは自分だのに。彼女の落胆が、彼は自分のせいのようで居た堪れなかった。
「あ……あの、ほら、ちょうど良いボロの上着。これ、いくらでも千切って巻けば——」
「いえ、せめて保護だけはするから、ちょっと待って!」
彼女は、胸元のロケットを慌ただしく傷に乗せ、金属音を響かせた。精緻な装飾の隙間からとくとくと乳白色の冷水が溢れる。傷を洗い、白い被膜を作る。今度は、詩を伴わなかった。出来栄えは上々のようで、彼女は「大丈夫ね」と呟いた。ナギサは被膜を撫でた。摩擦のない面が指を滑って弾く。
「……ありがとう、ございます。壊れた墓の前にいて、僕、こんな怪しいのに」
しかし彼女はあっけらかんと「私も泥棒のつもり」と言ってみせ、奇術のロケットでカンテラを小突いた。簡素なガラスの音、炎のくぐもった燃焼音、より高い熱を起こさせる。「宿代が用意できなくなって。都市にはよくある話」だ、と。
「……それにしてもあなたこそ、上着で包帯を作るって、今日は季節外れの大寒波って騒ぎなんだよ? 肺を悪くしたら大変、このショールで良ければ使って」
そう言って、女性はショールを留めるピンを外した。
「…………! それ」
「腕?」
ナギサは息を呑む。が、女性は世間話でもするような表情でいる。
薄布に隠されていた裸の左肩が露わとなり、左胸の付け根から肩峰までが見える。腕が続いたはずの場所を隠す、金属のカバーが張り付いている。……女性の左腕は、袖ごと消えている。ようやく彼女はナギサの異質な動揺に気づき、左肩を庇って見えなくした。
「み、見慣れない? そんなにも気にされると、惨めだよ……」。
ナギサは無遠慮な視線をコントロールできなかった。欠如したものへの、品のない好奇心が騒ぎ立てる。腕を失くしたのか、あるいは最初から持たずにいたのか、背景からイフの姿まで勝手にイメージされる。——ナギサは、非力で控えめな自制心で、やっと瞼を閉じた。
「す、すみません、すみません! ごめんなさい、こんな、失礼な……」
「……はぁ」
かろかろ と鳴る木靴の音、彼女のため息を、ナギサは左耳で聞いた。目いっぱい広げたショールがふたり分の肩を包む感触。彼女の体温が伝わる。目を閉じても感じる灯火がある。恐る恐る瞼を開くと、目の前には亜麻色の後頭部があった。彼女はカンテラを寄せ、手を温めた。
「腕がないと便利だね、ショールを一緒に使える。受け取らないならせめて一緒に、夜明けを待ちましょう?」
彼女は、大判のビスケットを手渡した。
「半分食べてどうぞ、墓泥棒さん」
「ありがとう——ございます」
半分に割った薄い焼き菓子は、一口噛むと、まだ小麦粉の甘い風味を残していた。
「一日ぶりの食事だ。……あの僕、墓泥棒じゃなくて、ナギサ、です」
「珍しい名前だね。話し方も不慣れだし。けれど、焦げているけど立派な服。ナギサ、もしかしてあなた、修学旅行者とかかな? 親は、宿は? ……あれ、ビスケット古いや」
彼女の話し方は、子供をなだめるようだった。
(迷子センターで飴玉を貰うのと一緒だ)
成る程、ナギサと同じ歳と言うのは、前世の彼と比べてのことだ。いまの彼は、裕福な家であれば、親離れ手前の見た目をしていた。彼女の気遣いの源泉は、つまり本当に、迷子の子供をなだめるのと同じ料簡かららしい。家や親が分かるのなら、そこまで送ろう、とでも言い出しそうな彼女の言葉。だが彼は、エリスの家として、白い部屋は適当でない気がして返答に窮した。
「宿は、ないです。怪しいですね、お墓で怪我して。あなたを興味で眺めて。失礼を……」
「言いにくいなら言わないで構わない。災難だったね。私こそ悪いんだ、義手は増えたと言っても、私みたいなのがつけてるのは、きっと醜く映る。紫の瞳。みんなこの瞳が嫌い。杖を借りたときだって、あなたを気持ち悪くさせたよ、ね? だから、謝るのは私」
「そんな……」
不躾な行動をとったのはナギサの方だ。しかし相手の気分を害してしまった、とより強く感じていたのは彼女だったのだ。彼女は前髪を整えて〈紫〉を隠し、何度も重々しく謝った。
「僕は不快だなんて少しも——綺麗だと思ったんです!」
と、ナギサは大声で否定した。
「魅力的で、見惚れて……。気持ち悪くさせるなんて、あなたは少しもしてないです、よ?」
「……兎耳が無いから、別の色と勘違い?」
「兎。あなたも、街のライオンみたく動物? その特徴なんだ……。紫色の瞳は素敵だし、僕は好きです。……あぁ、本当にごめんなさい。僕はずうっと、配慮に欠けたこと、無遠慮にベラベラ話してるかも知れない」
ナギサの口数が増し、女性の表情が消える。調節のうまくいかないコミュニケーションが歯痒い。……女性が抱えた膝に顔を埋め、ついに会話は途切れた。墓地に、焼いた小麦の香りだけが残った。ナギサに、この沈黙を破る言葉は見つからなかった。でも、彼女に申し訳ないと思わせることが、彼女に申し訳ないように思えたから、必死に言葉を探す。——白い部屋。炎。箒。彼女の奇術。それとも、本。花。言葉。僕のこと——どれなら彼女は喜ぶだろう?
「……あの、」
「いた! 見つけたぞ! エリー、エリー!」
ナギサの言葉を追い越す、誰かが名前を叫ぶ声。枝を踏み割る靴の音。暗い墓地を駆けてくるひとりの大男、それも立派なたてがみを振りまわすライオン頭の男の姿がある。ナギサは昼間を思い出して脚が震え、女性もカンテラをひっ掴んで、何事かと立ち上がった。大男はナギサの肩に手を置き、「エリー! まだ調査に降りている時期ではなかったか? なんでお前さんがここにいるのか知らないが、えらく久しぶりだ。調査の結果はもしかしてすでに……」と、途切れることなくまくし立てた。
「あの、あの、何を仰って……。どなたか、分からないんです」
ナギサは堪らず制止した。
「私だよ、コナーだ、声で分からないか? なんと、目眩しの呪いか、忘却の呪いか? 争っていたようには思えないが、もしや彼女に決闘なぞ仕掛けられたのではあるまいな!」
コナーと名乗るライオン頭は、分厚いウールの外套の内から杖を取り出し、警戒と共に女性に向けた。コナーは彼女について勘違いをしている——ナギサに彼の話は分からなくとも、それは簡明なことだった。
「違う、違うんです! 彼女は恩人で、怪我の治療を……ほら! 右手を見て!」
ナギサは慌てて割って入った。
「コナーさん、僕、怪我を治して頂いたんです。よく見て!」
コナーは、ナギサと、同意して激しく頷く女性を交互に見た。「……すまない、私としたことが、エリーを見て取り乱した。彼の恩人だのに、酷い言葉を投げた。許してくれ」。彼は申し訳なさそうに姿勢を下げ、高い頭の位置を、ふたりの目線に揃えた。気にしないで、と彼女の軽く首を傾げたのを確認して大男は安堵し。杖を収めた。
「落ち着いて話すには、今日のような日は暖炉が必要だし、こんな墓場で話に花を咲かせるのも眠る住人に悪い。その格好も大変なことだよ、エリー。家にきて体を温めていくと良い」
「コナーさん」
ナギサは外套を整える大男を呼んだ。
「エリーって『エリス』?」
「うむ、間違う筈なかろう。お前の名前なのだから。……久しく会っていないせいか、お前の冗談も分からなくなってしまったよ。とりあえず部屋にお上がり。……お嬢さんもどうか家に来て温まっていって下さい。私からもお礼がしたい」
……ふたりはコナーの後を追って墓地を抜けた。
出入り口として〈ビアトリクス墓地〉と掲げられた小さな門がある。錆が浮き、へこみ、曲がり、墓地の樹々に馴染む古い鉄門。金具の打たれた石枠。ナギサはそんな人の仕事の跡を不安げに眺めながら、コナーを追う。道路脇はモデュールの統一されない不細工な箱から、徐々に、様式に従ったファサードを連ねた規則的な街並みとなる。その背景の営みと歴史を見せる、各々の区画の集合に表情を変える。一時間半と少しの道程に、万華鏡のような変化があった。
女性は難しい顔でナギサの杖を睨んでいたが、やがてその顔は、荘厳な建物の連続する区画に入ると、驚きに変わった。
「……まさか! あなた方はセントエイル・パッチワークにお住まいなんですか!」
家主は玄関前の一段低い水路をまたぐ小振りな橋に立ち、誇らしげに胸を張った。
「チャールズ・スクェアまで良くぞお訪ね下さった。幹線から外れた小さなタウンハウスだが、ここが、シティ・オブ・セントエイル区で最も古い建築物のひとつだ、お嬢さん」