第八幕:ナギサの初めての魔法 二
飲食店と教会を除き、王国の機能が祝宴に忘れられる祝日。しかし、マハラルの工房だけは、普段は固く閉ざされ極限られた者しか通さない扉を、青年ふたりに許した。道ゆく好事家たちは「店主も珍しく祭り気分か」と祝日の店内を覗き見た。ガラス越しに見えるのは、積み上がった空箱の山だが。
アーサーは僅かな足場を探して分け入り、看板に下がる両方揃った木靴を見た。
「新品以上の見栄えですよ。やっぱレプラカーンだからですか」
「アァそうとも、儂は直す側じゃからな。……済まないね、人形製作の途中でな。一昨日片付けに『整列魔法』を唱えたきり、粗忽にも、杖をそちらに転がしたままなのじゃ」
「人形ひとつに、店中の杖を引っ張り出したんですか。やっぱり、質の良い杖を骨に?」
「骨には、均整や調和の構築が要る。明日の傑作のためなら、昨日の傑作も削るとも」
「ははっ。王の一年の食費に等しい価値を人に付けられたものを、豪快で爽快ですね」
マハラルがいかにも職人の作業場といった、小刀で木材を削ぐ しゅるしゅる という音を響かせる空間。暖炉の木材が パキ と爆ぜるような、桶にはった水面が とぷん と石鹸を飲み込むような、彼の手元で当然鳴るべき音が、ナギサを、強く惹きつけた。
マハラルは「十日で踏ん切りはついたかね?」とナギサに箱を差し出し、ナギサは「半分くらい」と言った。
ナギサは、彼が魔法世界のヒトだ、と知った。魔法の理の上に存在する世界の住人だった。それは杖を持ち、魔法を放つ。
「開けてご覧、君のための杖なのだから、振って、もう半分納得してみようとも」
「僕にできますか?」
——魔法を放つ自分を受け入れること。
マハラルが、ナギサの心を読んだかは、彼らには分からない。しかし、老巨匠は微笑んだ。
三本の杖だ。吸引式万年筆の機構を内蔵する短いもの、指揮棒を模したもの、傘程に長くL字の握りを冠するもの。フリートランド産煙水晶の軸、鏡面仕上げの魔法銀。筆型の尻軸はナギサの指によって滑らかに回転し、タンク内ピストンと連動する。
「なんていうか、良い、筆記具です。でも、これは、杖なんですか?」
「お前さんのミュストを充填するのじゃ。後で教えよう。筆、短杖、長杖、それぞれ五、十一半、三四インチ。銀金具はお前さんの腕輪と同じエリスの魔法銀じゃ。馴染むかね?」
魔法具はナギサのミュストを肌越しに吸い、押し返した。彼の掌の海に、月の潮汐力を生んで。彼は、杖を握って無言で頷いた。煙水晶の艶やかな肌が掌に転がる。杖に籠められた、確かな労力の跡が肌に触れる。
「でも、どうして三本も? アーサーは長槍と十五センチ……は五か六インチくらいか——の杖を公私で使い分けてます。けれど、基本的には、ひとつ持てば足りるものでしょう」
「ぅウむ、儂はこれ以上刻む皺のないほど生きたゆえ、ミュストが安定している。が、お前さんの体は言わば新品じゃ。動きはするが、鍛錬と時が、器の動作を洗練させるんじゃよ」
「器……。どうも、神の息吹の受けた、土人形みたいな」
「ミュストを注いだ、肉人形、か。……待ちなさい、儂もそちらへ行こう」
木屑の舞う音が止んだ。杖職人を待つ間、ナギサは箱だらけの店内を見回した。アーサーが棚に並ぶラベルを確認しては「酔い根」「竜骨の血清漬け」「悪魔の心臓」と、物騒で意味不明な単語を連続した。彼も杖の素材が気になり始めたのだ。
ナギサは箱の雪崩のなかに、真っ白な杖を見つけた。鉛筆に似た細いそれは、枝の表皮をナイフでざっくりと削いだ、荒い木目が見えていた。彼は、杖の肌理と対照的な、流麗で優美なディテールに惹かれ、興味本位で振ってみた。最後の〈魔法の真似事〉として。
——カチ
それは、手首の魔法銀に触れた——
「!」
網膜の許容を超えた一瞬の冷光が、世界に黒を忘れさせた。視界に真白い穴を開けた。ビアトリクス墓地で膨張した事象と同じ光。その光を受けた箱は群れを成して店内を飛び回り、ラベル通り棚へ収まった。やがて光が焼いた視神経の痛みは消え、ナギサは、ボヤけた視界を得た。床の市松模様に組まれた柾目材タイルが、顕になった工房の姿が広がっていた。
「……不安定な己のミュストは諒解できたろう」
人形を伴い、マハラルがナギサを見つめていた。
「ご、ごめんなさい……。不用意なことを……」
「オヤマァ。人形の骨格とする杖まで片付けてしまった。お前さん、綺麗好きだったと思うがね、なるほど、徹底的じゃ。骨格と、君の杖を救出してから、話を続けるとしようかね?」
巨匠は慣れた導線を辿り、材を収める棚を順に探った。工房を一巡し終える頃には木をくり抜いて仕上げた人体のパーツと、いくつかの、液体漬けの肉肉しい小物を抱えていた。「途中の作業を終えるから待ちなさい」。ナギサたちを木の椅子に待たせ、彼は小物を人形の胸部に据え付けた。中心には環状発動器と〈ミュストの結晶=変質した杖〉。掌に玉止めを覗かせる銀糸で、管状の四肢と杖の骨を引き繋げ、それらを胸の一点、膨張のように発光明滅するオーラの発動器に結び付けた。個々の部品が骨に、臓器に、人形の体を構築する。
人形の胸を閉じる仕上げを、ナギサは、縫合のようだ、と思った。人形を作る過程を見るのは、彼にとって初めてのことだ。油の引かれた鑿や鉋の刃の黄色い照り。敬称マエストロの呼び名に相応しい、人形に魂を注ぐ仕事だ。彼の仕事には、魂がある、と思った。
「さて、一段落した」。マハラルは人形の胸部を撫でた。「いよいよ杖の話を始めようか。ナギサよ、三本は長いものからそれぞれ『水を生む』『ミュストを打つ』『魔法を解く』役を持つ。順に確認しよう。アーサーよ、君の魔法で——」
「杖の確認なんですけど」
アーサーはマハラルの言葉を遮り、筆型の最小の化粧箱だけをナギサに手渡した。
「提案があって。どうせ魔法を使うのなら、広いところで心置きなく練習できた方が、ナギサには良いだろうと思っていて。だから、ここで説明するのはまず、これでミュストを解く方法だけにしませんか?」
「ナギサを灯台に連れるのかね?」
マハラルは作りかけの人形をコツコツ叩いた。
「最適でしょう。禁術の心配してるのは分かりますけど、俺らは城の古いそれを知ってる訳だし、秘密の内容は変わらない。それにナギサのこと、上に隠し通せるもんじゃない」
「気づかれることを一番望んでいないのは、君じゃろう。……マァ良い。なるほど店で練習するよりは、密かに鍛錬できるじゃろう。提案に乗ろう」
そう言って、マハラルはナギサを手招いた。
「聞いていたじゃろうが、他の魔法の詳細はアーサーから別の場所で聞いておくれ。儂はこの吸引式杖の使い方を教えよう。さっき動かした通り、ピストンを下げてご覧」
「……あの、僕のこと隠すって……転移門、知るべきではなかったんですよ、ね?」
「そうじゃな。さぁ、早くやってみたまえ」
急かされたナギサは、尻軸を、包むように回転させた。始めは驚くほど軽く、やがて連動するピストンの動き始める段になって、尻軸は量感を得る。滑るような抵抗を伝える。彼はキャップを外し、透明の窓からピストンが下がりきったことを確認した。そうして動かしたペン先が、魔法銀の腕輪に近づくとき もたり と大きな反発があることも感じた。
「ミュストの溜まる場所を見つけたかね。抵抗を意識する場所で、時計回りに締めるのじゃ」
マハラルの動きを真似て、ナギサは尻軸を速く締め上げた。
「……っな、ナニコレ……。気持ち悪い。風邪引いた日の、関節みたいに、痛い……」
座った姿勢ですら堪らず、ナギサは木屑の散った床に顔から崩れ落ちた。眩暈と耳鳴りに襲われ、動けなかった。
「一気に吸うからだ」
アーサーはナギサを助け起こし、ココアの細片を渡した。
「力抜けるよな、俺もこのタイプの杖嫌いだし、だから他の型式に取って代わられた。でも、軸に溜めたミュストで魔法が出せる利点は大きい。重宝はするんだよ」
「うえェ……。これ、軸が満たされるまで、吸い上げなきゃいけない……?」
「本当はな。でも今日はもう限界だろうよ、少しずつ慣らそう」
彼はナギサの手から零れた筆型杖を拾った。
「しかし、マハラルさん、彼の回復を待つ間、俺は暇になりましたよ」
「待つだけでは退屈かね? では書類をプレゼントしよう。許可証にサインを頼む」
ナギサは椅子に深く腰掛け、アーサーのペンが紙上を走る音を背景に、マハラルの人形制作の手元を観察した。人形の腹の穴に、目の細かいやすりが滑る。「気分が良くなったらひとつ作業を手伝って貰おう」。そう言った職人は人形の木屑を吹き飛ばし、光る木口を見せた。被せられた蓋は、隙間なく、ぴたりと沈んでいった。
「無音だ」
ナギサは蓋の沈むのに見とれ、呼吸さえ忘れていた。
「あぁ、緊張した。……もう眩暈は、治まりました。……あの、僕はなんの作業を手伝うんですか?」
「いま腹に詰めようとしておる材料のひとつに、強力な魔法効果が掛けられていてな。この魔法を打ち消して貰おうと思っておるんじゃ。なに、難しいことではない。杖をご覧」
煙水晶の軸のなか、ペン先に近い透明の窓を、薄くマスクする液体が溜まっていた。
「これが、僕のミュストを吸い出せた分量、小指の爪の横幅じゃ、まだ半分だ」
「それで充分。お前さんに頼むのは、この、竜の革の、保護魔法を解くことじゃ。胸部の補強に用いるのじゃが、竜の魔法の残るままでは特別の刃物でなければ裁断できぬ。そこでその杖に割り当てた〈魔法の効力を解く魔法〉を秘めた雫を垂らす、ということじゃ」
「垂らす、だけ。……てっきり木工をするとばかり。緊張してました」
「儂が何年掛けて積んだ作業だと思っとる。作業中の人形は触れさせられんよ」
マハラルは確かな強固さを持った、黒く分厚い革材を見せた。
——これが竜の皮膚。ナギサは、竜の首の五色の珠を要求した『竹取物語』を思い浮かべた。あれは達成の叶わない要求だったけれども、アルトランドには竜の生きた印があった。否、竜退治の伝説だけでなく、いまもなのだ。彼は、途方もない寂しさを思い出した。
「ご覧、これは革漉きの刃じゃ」
マハラルは革漉きを竜革に当て、引いた。刃物は動かず、力を込めた腕が震えた。
ナギサにはそれが、見知らぬ竜の偉大さとひとつになって感じられた。不思議で、偉大だ。
「自らを強力に保護する術を、竜は知っておる。死後も効力を持続させるほど強い保護を。これを解かねば、細工はできない」
「……そんな強い魔法を、ただ雫を落とすだけでどうこうしよう、なんて可能なんですか」
「本来は複数の魔法使いと、面倒で回りくどい手間の掛かる多くの工程が必要だな」
でも今回は小さい——アーサーが背中越しに言った。彼らはまたナギサを傍に置いやって話を始めた。人形の工程、竜の革の入手場所、ナギサに備わる、エリスの強い魔法の性質、部外者に理解できるはずのないことについての。
「——記憶や経験はなくとも、ナギサはエリスを引き継いでる。当然素養があるわけだ」
「その通りじゃ、アーサーよ。発動器はエリスなのだから」。マハラルは革を浅い皿に移してナギサに寄越した。「杖ごとに役割を分けるならば、詠唱は必要ない。尻軸を緩め、雫を垂らしてみなさい。竜革が魔法を弱める様子の変化というものは、なかなかに激しく、観察するのも面白い」
「……じゃあ、本当に、やってみます、よ?」
ナギサは尻軸を反時計回りに捻った。
ペン先と芯の接面先端に、銀色の雫が滴れた。雫のなかで銀と透明とが くるくる と踊った。慎重に緩めるナギサの指は、同時に、緊張で震えてもいた。から、雫が踊るのだ。それはスリットを滑り落ち、大きくなった。やがて重力に逆らえない雫は、ペン先を離れて竜皮へ向かうだろう。
「その調子じゃ。もうひとつ、回して御覧」
それまで、姿を見せないでいた虹色の膜を、雫が波立たせた。雫が、通過したのだ。
「竜の魔法じゃ! よくよく反応するものじゃ、これは……!」
ナギサの魔法が、瞬く間に膜の虹を金属質に染めた。煙の如くうねる銀のミュストは、次第に、細胞にも似た分裂を開始した。半分、また半分と進む竜の魔法の分割。行き着くところは空気に溶ける蒸気だった。ナギサの魔法は、確かな効果を持っていた。
「僕の、僕の魔法だ、魔法使いになった……!」
「エリスのミュストを用いて、なんと上手く働く魔法か! 竜の魔法が、泡の如く消える。なんということじゃ、ひとつめの魔法で、こうも親和性が高いとは……効力を持つとは!」
マハラルの声量は、押さえたくとも押さえられない、といった興奮を表していた。
「これもナギサの性質ですか。エリスがこうあることを望んで付け加えた才能なら、流石、としか言い様のない仕事ですよ。マハラルの弟子なだけありますね、今賢者殿は」
アーサーは皿から竜革を取り上げ、表面を撫でた。
その表情が、遠いエリスの仕業に向いているように、ナギサには聞こえた。先に立つ魔法使いたちは、どちらも、エリス、エリス、と繰り返すのだから。——これは、確かに自分の魔法だのに、と彼は強く意識した。彼は、彼がここに居ないものに思えた。外から眺める、彼らの会話劇を眺める、観客、聴衆として在る、と。彼らが話す言葉を、文字に書き起こし、それを眺める役割を持った、と。しかし、エリスの力を借りていることは事実だ、から、ナギサは文句のひとつだって伝える気持ちは起こさなかった。偶然エリスの続きに生まれた、自らをナギサと思い込んでいるエリスだ、と彼自身努めて自己暗示をかけた。
「その感覚を馴染ませなさい。アーサーがとっておきの鍛錬場所を用意したらしいのでな」
マハラルがそう言ったアーサーは、〈とっておき〉の場所に向かいたくて堪らなそうに、握った手をぱたぱたしてみせた。
「お前も絶対驚くよ、約束する。あんな楽しいこと、俺は他にひとつしか知らないんだ」
「……分からないよ。驚くだの楽しいだのと並べても、未熟者の僕に、君は具体的なことをなにひとつ伝えてはくれないじゃないか。僕の魔法の練習で、なにがそんなに面白いんだ」
「来れば分かるさ。ほら上着羽織って。行くぞ!」
「えっ、あっ、ま、マハラルさん、ありがとうございました!」
手を引かれて工房を出るナギサは、去り際、満足げに手を振って見送るマハラルと、アーサーが署名したカンパニーの書類を横目に捉えた。一等目立つ見出しの文字列は、遠くからでも読めた。「禁止魔法区分〈高等人形魔法〉使用許可証」。




