第一幕:ビアトリクス墓地での出会い 一
あくびを白く染める寒さに、ナギサは起こされた。体を内側から貫く冷気が肺を満たし、眠気の居場所を奪う。まだ、意識が半分寝ている。窮屈な姿勢で固まった関節が ぎし と鳴る。彼は暗闇に慣れるのを待って背後にもたれた。粗いテクスチュアを背中で感じた。次第に輪郭線が判然とする。土と草の、青く古い匂いがある。
奇妙な石塊の群れに囲まれた場所。石塊の半分は人を模した彫像だった。赤子を抱く女性、羽の生えた獅子頭、笛を掲げる子供……。特に多い意匠は大きな胸像だ。どれも闇のなかで怪しいシルエットを見せつけ、異様な存在感を示す。彫像だけではない。漂う不気味さは全体のもう半分を占める、「I」と「X」を重ねた、雪の結晶型の石柱による、と見るのが正しい気がした。ナギサが背中を預ける石もそれだ。彼の体重など気づかぬ、といった振る舞いをする。
(ああ、どうりで形の良く分かる……)
ナギサの衣服は背中がえぐれ、焦げて穴が空いていた。炎の鞭に焼き切られた。皮膚が直に摩擦を受ける。被害は服だけでなく、カバンにまで及んでいた。中身は無事だ。が、容器の役割はもう果たせない。
ナギサは紙切れを内ポケットに収め、カバンと上着を捨てた。彼のものではない。躊躇した。
(――っ!)
握った右手に痛みが走り、ナギサは思わず顔をしかめた。雲に姿を隠す薄い月明かりにかざすと、傷口が濡れていた。——絆創膏は常備してたはず、と無意識にポケットを漁る。ない。仕方なく焦げたローブを細く裂き、即席の包帯を巻いた。衣服のなんと脆いことか。裁縫セットで修復できないまで、簡単にダメにしてしまった。現在地を知る地図もなしに、包帯のくずを棄て去れば、二度と回収できない気がした。なにもかも準備が足りない。心細く思う。
(……エリスには悪いことを……、あ)
エリス。エリス。エリス。ナギサは、明瞭さを取り戻した思考にハッとさせられた。頭のなかが整理される。顔も知らないエリスが、獣頭や骨男を激しく押しのけ、最も鮮明なイメージを持って話す。——ねぇ君は、僕をどうやって知った?
(彼は〈Ellis〉だ! 異変に動転して、まったく忘れていた!)
ナギサは寒さも忘れてジャケットを裏返し、ようやく覗いた月光で刺繍を照らした。特徴的な書体の刺繍〈Ellis〉。夜の照明のどれより明るい月が、文字を照らす。彼は慌てて周囲を見回した。指先の神経まで想像させる躍動感を持つ男性像。像は月光を筋と筋の谷にまで受け、足元の土台に点々と並ぶくぼみを主張する。土とツタで視認し辛い。彼は夢中で邪魔者を払った。土の下、石塊に刻まれた三段組の文字「Ja___ C_oper/ 17th October 2__9/ 30th Sep___ber 238_」が現れた。
(これは、見たことがある。僕が、見たことあるはずのものだ!)
ナギサは凍った足で、石像群の美しく括れた肉体や、幾何学的造形の柱、それらを支える土台を確かめた。——もっと探し出したい、と。そうして発見したくぼみは、どれも〈どこかにいそうな名前〉を、見覚えある文字で刻みつけているのを見た。
英語。アルファベット。
ナギサの耳に馴染む、祖母の故郷の言葉。英語の教育番組を一緒に聴いたとき、庭を見てどんな花が咲いているのか話すとき、懐かしげに聴かせる海の向こうの音。それを表した文字がナギサの目の前にある。土にまみれた石像の姿は、ここが既に放棄された墓地であることを示し、にも関わらず文字は馴染みのない未来の年代を刻みつける。二千三百、二千四百。これが暦であるのなら、彼は一体、ヒトの現れた時間の、どの時所に目覚めた?
ナギサは苛立ちを覚えた。人々の言葉を聞き、物々のやり取りを見れば、永い時間不変であった営みのなかに自分は在る、と感じられる。が〈ヒト〉を振る舞うなかには獣頭がある。炎の鞭を操るものがある。翼もなしに空を飛ぶものがある。遂に彼は、ひとつ仮説を導いた——僕は、違う世界に放り込まれた、と。
(地球の現在以外。それとも、切り離された別世界? まさか……)
ナギサは墓石の間をふらふら彷徨った。逃げたい。どこに? 活動する街を思い出すだとぞぞ髪立つ。安らげる場所を求めている。砂漠で乾いた喉が水を求めるより強く。せめてヒトの空気感のない、例えば、どんな場所でも変わらぬ植込みで良い。……彼が、眩しく光る銀色の玉を発見したのは、そうして逃げようと向かった墓石の終点だった。寂しく佇む石柱の唯一の装飾。月明かりを何倍にも増幅し、幻想的な銀色。刻まれた文字が、ジャケットに縫い付けられた書体と一致する。
〈Ellis Fons-Dolham〉
(エリス、フォンス、ドラム……ダラム? エリスの墓標……)
ナギサは真新しい石柱に、何故か引き寄せられた。自由な意思ではなく、周囲の超然とした力が促すように。一歩。また一歩。彼は飾りの銀色の玉に指を乗せた。 カチ と、不意に墓石と棒が触れた。神経の震えるのを感じた。(……! 石に、ヒビが——)。静寂を破り、墓石が派手に、頷くように崩れる。
「っうわ!」
埃と破片が飛び散り、ジャケットが輪を掛けて粉っぽくなった。瓦礫の中で銀色の玉が明滅している。あっけにとられたナギサが眺める砂煙のなか、瓦礫を押しのけ、靴が収められる程度の木箱が口を開けた。革紐で留められた、白い部屋から持ち出した紙切れの束と、「エリスに」という指示書きが残されている。
(僕はエリス。僕に宛てたもの、かな——)
自分以外のエリスを、ナギサは知らなかった。だから彼は、悩んだ末に銀色の玉と紙束をジャケットの内ポケットに差し込んだ。左胸が不自然に膨らみ、彼は着心地悪そうに服を整え——
「こんな遅くに、何をしているの?」
突然、声が降る。
「!」ナギサは、月以外の淡い照明に気づき、体ごと振り向いた。
若い女性がカンテラでナギサを照らしていた。十八か、十九か、ナギサからは自分と近い歳の頃に思えた。彼女は崩れた墓石と彼に慎重に近づき、空箱に添えられた彼の右手を覗きこむ。カンテラの、ミルク色の柔らかい炎。伸ばしっぱなしの亜麻色の髪。木靴が石を叩く音。死の気配の墓場に、ぼんやり、明るい印象が添えられた。
「怪我してるのもあなただ。血の匂いがして、様子を見に来たの」
カンテラの女性の、鼻奥で響く柔らかな声。痩せたシルエットの印象を程よく和らげるショール。手は届かないが、灯りと温もりを分け合う境界の距離。彼女の立ち居振る舞いは、来訪者が現れたざわつきをナギサに感じさせず、自然に背後に立っていた。——世界で初めて話し合える相手を見つけた、と思った。
「あの、」
女性が、ナギサの手を指す。
「“は、はい! 何で……あっ!”」
伝わらない言葉が思わず溢れた。彼女はなにを叫ばれたのかと目を丸くしている。違う言葉だと、ナギサは重々承知していた。が、話し相手のいる嬉しさが勝ると、湧き出る言葉をこらえられなかった。彼はルール違反を暴かれた心持ちで、落ち着きを忘れた。「あ、ご、ごめん、なさい。そ、その……」。弁解は相手を放したくない焦りから、しどろもどろになった。
ようやく「あの、なにを……言おうとしたんですか?」と、ナギサのまとまった言葉を聞いた女性は、銀の青年の言葉の理解できなかったことが、勘違いだった? という表情を見せた。そして彼女は、こう返した。「……ええ、傷の手当てをしましょうか、って」。彼女は距離を詰めて屈み、彼に右手を出させた。亜麻色のぺたっとした前髪から、紫の瞳が覗いた。
ミルク色の光を揺らす鮮やかなライラックの虹彩を、ナギサは初めて見た。
「ねぇ、杖を貸してくれますか? 治療するから」
彼女は瞳を隠す位置で、手をひらひらさせた。
「……杖、ですか。……あっ、この棒! はい、どうぞ」
ナギサは我に帰り、慌てて杖を渡した。紫色に見惚れ、彼女の声を随分と遠くから聞いた気がした。焦りから、言われるがまま従った。前髪を手櫛でほぐした彼女の、指の柔らかな仕草を視線が勝手に追いかけた。傷をおおう布を解き、杖先を添える動作の、隅々までに神秘を感じた。 ふっ と浅い呼吸、亜麻色の髪の揺れるのを、彼は見ていた。
『主を賛美し——雫が不浄を流すよう、御国の薬師の名に祈ります 治癒』
詩歌の祈り。杖から溢れる燐光。光が凝縮して雫を作る様に、ナギサは釘付けにされた。