第八幕:ナギサの初めての魔法 一
生姜の香りが満ちている。平生アヴァリスの匂いと言えば、泥と煙と香水を混ぜ、精神に影響しない程度までマイルドにしたもの(アーサーに言わせれば、これでも社会環境対策法で改善された)なのだが。正体は、聖アルバートの祝日に焼かれるジンジャーブレッドだった。祝祭日だから、という昔のアルトランド王の料簡——国中にばら撒いた小麦と生姜でビスケットを焼き、貴賎上下なく腹を満たせ、というイベントが、現在まで続いた。
「いやぁ、聖アルバートが、レプラカーンだ、って聞いたらさ、壊れた片方の木靴を玄関に下げるのは納得だ。でもジンジャーブレッドを焼くのは、どうして? 生姜好きだった?」
河沿いの小舟が集まる小さな停泊所を見渡せる食堂に、ナギサとアーサーは居た。ナギサは看板に下がる木靴の片割れの下で、大きさの区々な人型ビスケットを皿に整列させながら、手紙を書くアーサーに尋ねた。彼は手紙を書く手を緩めず左手で髪を撫で付けた。
「セント・アルバートに行ったのに、天井のフレスコを見なかったのか? 血管まで表現された古典再評価期の傑作だのに、残念なこった。モティーフは聖アルバートの悪竜退治。炎を吐くドラゴンに対抗するため生姜を食って……」
バン! とアーサーは一ヴィス金貨を叩きつけた。金貨には、聖アルバートが槍で魔竜を仕留める図案が刻印されている。
「こうして悪竜を封印した彼を慕い、大昔のアルトランドはエルシア教を受け入れたわけだ。針を槍に見立てて清める習慣も続いてる。お針子でも、敬虔な信徒はやってるぞ」
「あー……ノエルも今朝やってた。仕事で針を使うからか」
「メイドちゃんだっけ? 随分男っぽい名前だよな、ノエルって」
「そうなの? 語感が柔らかいから、気にならなかったよ」
アーサーは札ばさみを文鎮に、次々便箋に筆を走らせた。「そうとも」と言う彼の意識が、果たして会話に向いているのか手紙へ向いているのか、ナギサには分からなかった。
彼らはマハラルの工房近くの食堂で時間を潰そうと決めた。日当たりの良いテラス席が見つかった。そこから一時間はジンジャーブレッドと紅茶を消費しているが、工房から呼ばれる待機時間、彼の手紙を捌く手は休まなかった。仕事の書類、そして恋文。
アーサーの恋慕に対する情熱の如きは、目を見張るものがある、と思った。ナギサはわざわざ友人の艶事に文句を垂れる野暮天ではないが、それでも彼の行状が明らかになれば、ジューンに嫌われはしないか、と冷や冷やしていた(彼らの仲の変化などナギサには関係ないのだから、気に掛ける必要もないのだが)。だのに、聖なる祝日の朝も過ぎた頃、聖歌集を読むナギサの許に、工房の迎えとして現れた彼は、寝不足な様子で案の定女性を連れていたのだ。
「さっき別れたばかりの相手に……筆まめだね」
「残念、これはブランドン宛だ」
「プーカの……だっけ。彼女、振る舞いがマハラルさんの屋敷のプーカに似てる」
「元兵士だからかな。前線で怪我してからは故郷に帰って、花と酒の日々だとさ。フリートランドは酒が有名なんだ。で、これは交易カンパニーの仕事の紹介状」
「女性で兵隊さん、珍しい。君の同僚も女性で、悪魔相手に戦ったよね。ズボンを履いて街に出る女性だ、カンパニーの不思議な環境は、彼女に合っている、と思うよ」
ナギサが見つめる河向こうに、古式建築の趣を色濃く残す交易カンパニーの塔がある。シティ・オブ・アヴァリス区には職人を管理する各カンパニーの本拠地が集合する。それらは女性職人を呼び名で区別するように(特に被服に関する職は厳然たる区別で)男女の棲み分けがなされた。両者は決して交わらない——交易カンパニーという異例を除いて。業務も本拠地も老若男女関係なく共有される。アーサーが連れる女性には、彼の上司まで存在する。
「闊達な方針なのか、それとも実戦力があれば放任されるのか……」
「両方かな。混血とか元兵士が一旗揚げようとするなら、ウチ以上の適所はない」
力の込められた〈混血〉の語。なるほど、タンジー街のヨリア以外に、混血と思しき特徴を見せるものたちを、ナギサは思い返せなかった。まだ承知していない街の姿がある。彼のふたつの目では追いつかない、あるいは、上流の生活では気づかない姿が。
「お前は、さっきから暇そうにしてるじゃないか。新聞か雑誌でも貰って来たらどうだ?」
「お気遣いどうも。でも、君が手紙をしたためる様が面白い。インクの音が爽快だ。それに新聞は、コナーさんの家で、数週間分を漁ったんだよ。悪魔と、拡張政策ばかりさ」
増える悪魔へ対応が必要だ。交易カンパニーは、悪魔祓いは、街中に淀む市民の注目を集めていた。数日分の新聞はどれも、彼らの勇敢な活躍を無数に載せていた。ナギサが目的とした水路事件の続報はなかった。が、街が悪魔によって被った損害は、探さずとも見つけられるだろう。対比される交易カンパニーの活躍も。勇敢さ・力強さ、正義の顔として。
ビスケットを噛み砕き、勇敢なアーサーは手紙最後のピリオドを打った。
「文字書き終わり! 早くマハラルの手紙来ないかな。ナギサもいよいよ魔法とご対面だ」
……実は密かに待ちくたびれていたナギサは、肩を解すアーサーに倣って伸びをした。
「ンー……。用事が終わって暇と言うなら、君に、聞かせなきゃいけない話が——ッ痛あ!」
招待状の淵が額に刺さったのは、丁度背筋を伸ばしきった、そのタイミングだった。




