第七幕:タンジー街と白い部屋 三
「お前さんら、この先は駄目だぜ」
しかし、目的はあっけなく阻まれた。宙を漂う網がナギサの足を止めた。水路で網を泳がせる男たちが、看板を超えて進入しようとする彼を引き止めたのだ。男たちは、工場から特別の仕事で、焼けた男の落としものを探している拾い物業者、と名乗った。
「人形貸商の旦那だからよ、人形の部品が沈んじゃいねぇかってな。この先行けるのも人形しかいねぇ。俺らだって、五分かそこら、水路を突っついたら一時間は休むんだ」
「奥にいる人形から、今日中にサンプルを回収したいんだが、無理かねぇ……。あんたら別に人形工場のやつじゃないだろ。野次馬なら早めに帰ったほうが身の為だ。ここにいちゃ命がいくらあっても足らんよ。俺らもまた作業中断さ」
彼らは、土気色の顔色に、ナギサの唇に似た灰色がかった唇をしていた。……ノエルの顔色も、やや血色が悪く変化していた。離れなければ高濃度のミュストに当てられ、手当の難しい中毒症状を起こすだろう。きっと、ナギサが味わった苦痛では済まない。作業員が言うように数分だけでも高濃度地帯に留まることは命に関わるのだ。
瞬きも辛そうなノエルの手を引いて、ナギサは食堂へ戻った。作業の男たちも追って店に入ってきた。皆揃って目頭を抑え、急激に体を蝕む疲労を鎮めていた。ナギサは人数分の水(メニューにはしっかり「アヴァリス州産上流水……無料」とある)を注文し、荒い息遣いに苦しむ彼女らの背中をさすった。
「……ナギサ、あなたはなんともないの?」
「うーん、僕は別に。この間ので耐性できたのかも」
「溜め込める、ミュスト量が他人より多いのね……。でも、行かないで、どうか部屋を探そうなんて考えないでね……。…………。本当にごめん。動けなくなるなんて……」
呼吸も、水を飲むにも、ノエルは辛そうだった。ヴェールから漏れた右目が、濡れていた。
……弱り切った彼女に寄り添っているべきだ、と分かっていながら、ナギサは白い部屋に近づける機会を逃せないのだ、と胸が疼いていた。
「……僕、部屋に近づいてみます。今日が最後なんです、危なければ戻りますから!」
彼女に引き留められて考え直すことになる前に、ナギサは店の扉を開け、飛び出した。
不安定なタイルに変わりはない。ただ、ナギサは、辿る記憶より道幅は狭いような気がした。上流を知ったからなのか。それとも、街の生活感がまるで失われた寂しい印象からか。白い部屋の後に続く湿った路地の感触を、彼は丁寧に遡って呼び起こした。炎の鞭を握る男の横道を過ぎ、通行止めの看板を過ぎ、浮いたタイルを過ぎ、金具の取れた扉を過ぎ……彼は遂に、初めて会った男が座っていた壁を見つけた。
(裸の男がいる)
ナギサと向き合う彼の体は ギイギイ と軋んでいた。人ではない。球体関節部を剥き出しにした木製の人形だ。付箋のような紙片を持って少しずつ場所を変え、掲げていた。ビアトリクス墓地南東で見たマハラルの人形と、同じ動作。移動するたび紙片を交換し、交換するたび紙片は灰色に染まる。彼は、ナギサには興味を向けず、彼の仕事を淡々とこなしている。水路を攫っていた作業員が話す〈サンプルを持つ工場の人形〉だ。
ナギサは人形を置き去りにして急いだ。
雨の降りやすい天気のせいか、細路地はぬかるんだまま。革靴に泥が付着した。
靴跡を泥に残して歩くと、ナギサは、先ほどと同型の人形が倒れている路地を見つけた。紙片を摘まんだまま、人形はピクリとも動かない。白い部屋。先ほどの人形と同型の彼らは、白い部屋を前に機能停止していた。
ナギサは彼らの手から紙片を回収し、ジャケットの内ポケットに詰めた。……造花のゼラニウムがボロボロに朽ちていることに気づいた。魔法製のゼラニウムは、濃密なミュストで形を留められなかった。魔法製のものがミュストから干渉された結果の現象。
(造花はもちろん、安い人形じゃ耐えられないんだ。相当危険な場所なのか。……調べるだけ調べて、早いところ帰ろう。僕だって、いつまで無事でいられるだろうか)
人形は倒れたばかりだ、塗装がひび割れに侵食される様子が見える。じわじわと全身を蝕む亀裂から、砕片がボロボロと泥に落ちている。濃いミュストは、その空間の魔力に耐えきれない魔法製の塗装を、容赦無く劣化させる。
(……急ごう)
異世界で初めて捻った把手を撫でた。初めて踏んだ床は足を受け止め微かにたわみ、ナギサの体重を受けて沈んだ。白い壁、白い天井、白い扉、白い壊れた椅子、机、照明、塗りつぶされた張り紙。部屋は完全な白としてあった。時間と切り離された雰囲気を残していた。白い体を寝かせた場所だ。深呼吸をすると、粘性のある空気が肺に雪崩れ込んだ。今まで呼吸していた気体とまるで異なる、密で、拡散しにくい性質。
(なにもない……なにもなかった。この部屋には)
ナギサは床に、扁平足の裸足の跡を見つけた。ぬかるんだ道からもたらされた泥が、足裏の形に乾燥していた。検査の為に足を踏み入れた人形が、機能停止する前の足跡だろうか?
部屋のなかにそれ以外の変化はなかった。転移魔法も。コナーが調査していたレリーフに似たものはもちろん、空間に突然できた裂け目も、ピンク色のドアもない。白い部屋に黒い服のナギサ。乾いた泥の薄い土色。彼が新しく残した濃い土色。三つの色だけ。
「この部屋は、別のどんな世界にも繋がってない」
畢竟エリスは体とカバン以外を持ち込まなかった。ナギサは意識以外を持ち込まなかった。来世が始まったのが、偶然白い部屋だっただけだ。魔法で故意に呼ばれたのではない。転移は原理の理解できない偶然。前世と現世に連続性はないのだ。
「……ノエルは、大丈夫かな」
白い部屋への興味が急速に失われた。ナギサは、前世の気配を失ってしまった。把手を握っても膜は弾けない。人形も動かない。部屋には彼の前世と現世を繋げる魔法はない。部屋はただ、アヴァリスの一部分だ。
(僕は無意識に、白い部屋を、僕の部屋と、繋げていたんだ)
そう理解させられた瞬間、ナギサの脳裡に残っていた「自分の部屋」という心象風景が崩れた。代わって心を染むのは、銀の石の街アヴァリス、林檎に埋もれる青い部屋、食堂に残して来たノエル。不必要に彼女に心配させてしまった。
ナギサは人形の残骸を置いて路地を引き返した。歩く人形を通り過ぎた。彼の塗装も朽ち始めていた。焼けたタイルを踏んだ。目地が脆く砂になっていた。どれもミュストの影響か。感じ取れる中毒症状はない。濃いミュストの毒は、彼には効力を働かせなかったのだ。




