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第七幕:タンジー街と白い部屋 二

 アヴァリス州の下流地区まで、馬車がふたりを運んだ。


 首都の金融地区シティ・オブ・アヴァリス。地上七階ほどの高層集合住宅街。それらを縦断するベイル河。引かれた水路は毛細血管のようにアヴァリスを巡る。道路より一段低い水路に舟が走り、家々の地階へ物品の搬入が可能になっている(コナー邸も同じ造りで、ために地階は使用人が暮らす)。水路の都の、生活のための、在りかた。


 空には魔法を体現した乗り物が飛び交う。高度な魔法や最新の機械に憧れる、街の新参者たちは、空を仰ぎ見、古式建築の間で溜息を漏らす。だがナギサには、身近な街並みが魅力的だった。空は遠く感じた。それよりも食品は市場に、食器は、読書は……と、欲求はどこで満たされるかを徐々に理解し始めた、生きた街が好きだった。ビアトリクス墓地とセントエイル区の往復を続けた。お上りさんは卒業する頃だ。それは、自分は半分市民だ、という街の新参者への視線に含まれた、優越感の表れであることも諒解していた。


 ノエルも、同様の感想を抱いて彼らを見つめていた。


「来たばかりは圧倒されたの、なんでこんな大勢いるんだ、って。観光か仕事探しか……追い出されちゃったか。皆、理想の生活を求めてる。あの人たちは、叶えて欲しいよね」


 ……ノエルは望む魔法具職人になれなかった、と話していた。由緒ある仕事を営む者に、兎の特徴を持つ人は、たったひとりであっても含まれてはいけない。都会人は就きたがらない街の御者すら〈ヨリア・シー〉を受け付けない。彼らはアヴァリスに馴染めない。


 その下町の御者は、渋滞を回避する為にビアトリクス墓地から数本逸れる通りを選んだ。


 露天商の荷車と工業製品を積んだ馬車が長い列を作り、隙間を埋めるようにボロに身を包んだ男女が流れ込む雑踏。工場勤めの非熟練労働者の街。区画名〈タンジー〉。


 町人がただの下流労働者でない、とナギサは即座に気づいた。人混みの頭上に生えた極端に長い耳。住人にはヨリアの特徴を持つ者が大勢いるのだ。彼らは必ずナギサの乗る馬車を、ある者は苛立ち、ある者は憐憫の目で見、建材のはみ出た二階建てに消えた。窓に貼られた求人には「アビー縫製はヨリア歓迎」の文字と、ウサギが手招きする図像。


 あまりの視線の多さに、ナギサは上流域を歩くままの服装で来たことを後悔した。


「服、もう少し選ぶべきだったかな。古着屋で買い物しておけば良かった」


「違うよナギサ、あのヨリアたちは……っうわ!」


 言葉を遮るように、強い揺れと音を伴って馬車が停止した。


「悪魔だ! 悪魔だ!」と叫ぶ群衆が、混乱の壁となって馬車へ押し寄せた。しかし、次の瞬間には「事故だ! 悪魔じゃない! 悪魔じゃない!」そう叫ぶ男が何人も駆けて来た。馬車のすぐそばを、何人もの兎耳が通り過ぎた。馬車はすっかり動かなくなった。


 ノエルはヴェールを摘んで引き下げ逃げるように目元を隠した。肩は強張っていた。馬車を探すまでの、弾むように外出を喜んだ彼女はすっかり居なくなってしまった。


「あぁーダメだお客さん。この先の交差路で露天と六頭立て馬車がぶつかったらしい。しばらく車の類は身動きできねぇ。済まないがここで、降りてくれ」

 御者は帽子を握り、吐き捨てた。

「チキショウ露天商の野郎め!」


 痺れを切らし、荷台を店に商売を始める者まで現れる始末だ。


 ノエルはヴェールを整え、いよいよ顔のすべてを覆ってしまった。


「……歩こう? 急いで通り抜けたい。馬車を拾える通りまで、決して遠くないもの」


「ごめんなさい、急な予定変更で歩かせて。早いところ馬車を見つけましょう」


 路地に下りると一層ヨリアの姿は目立っていた。身長こそ高くないものの、耳を伸ばすと巨躯のケット・シーやプーカを抜いて余りある。街はナギサに、小人になったと錯覚させた。


 路地に面するガラス窓は、窓枠が腐り落ちているものもあった。生活はあるのか? ナギサは疑いたい気持ちになった。動かない人形を着飾って並べた安酒場、安宿。縫製業に貸された二階への階段。あちらこちらに見える、売り物に統一感の感じられない商店の列。


「雑貨屋、ですか。お酒、食器、カバン、杖。なにを売りたいんだ……」


「質屋。いよいよ宿を追い出されたら杖をお金に変えて貰うの。運がよければ、質入れした魔法具を返して貰える、かも。競竜の優勝竜オーナーになれる豪運があれば」

 ノエルは店を確認せずにそう言い、ナギサの上着の袖を引っ張った。

「……ねえ、どうか物色なんてしないで、早く離れましょう」


「え、ええ……。目的地は先ですし、渋滞のなかは疲れますからね」


 しかし、群衆はふたりの勢いを殺ぎ、満足に進ませなかった。看板を持つ男たちはのろのろと歩き、縫製業求人の決まり文句を、足の止まった新参者へ投げている。ノエルに対しても同様だ。不健康に太ったプーカの男が焦る彼女の腕を掴み、ウチの縫製業紹介所なら環境も取引相手の金払いも良い、とまくし立てた。彼は、なんと、遠慮なくヴェールを退けまでした。


「どうだい、すぐにでも登録して……おおっと、嬢ちゃんヨリアだ! タンジーの噂を聞いて来たんだな。ウチはヨリアも条件が良い。別嬪さんだし知り合いに仕事部屋を頼んでも——」


「離して!」


 ノエルは不快感を顕にして、顔を寄せたプーカを突き飛ばした。プーカはいきり立ち「昼兎が」「交雑種が」と吐き捨てる。が、彼女は杖を突き付けてそれを黙らせた。下唇を噛み、肩を震わせ……赫然と声を荒げた彼女を、ナギサは初めて見た。


「……行きましょう!」


 ノエルは急にナギサの手を握り、彼を引きずって人混みを掻き分け、進んだ。ナギサが初めてアヴァリスの姿を突き付けられた日のように、行列に割り入り、突き飛ばしながら。通行人たちは野放図に進むヨリアへ文句をぶつけるが、耳を貸さずに渋滞を駆けた。


「待って! ねえ、ねえってば!」


 ナギサの制止にも応答せず、結局彼女はタンジー街の端まで彼を運んだ。交差路手前には、曇ったガラス窓の安食堂が油の匂いを道に撒いていた。グラス分で充分と言わんばかりの、スタンディングの板切れのテーブル。数人の客が、窮屈に酒を飲んでいる。


「ノエル、もうお昼過ぎてますし、軽食を取りましょう?」


 ……返事はなかった。が、ナギサは沈黙を無理やり肯定と捉え、店の扉を開けた。


 カウンター後ろにガラス戸棚があった。棚から、コルセットの装飾が見えるけばけばしいドレスと、華美な化粧と偽物のアクセサリーで飾られた、五体の女性型の人形が店内を見下ろしていた。どれも街行く多くの女性より綺麗にされていた。


 ナギサは、店中が彼女らの監視下に置かれているようで、どうにも居心地悪く感じた。逃げるように、枯れた観葉植物で多少は人形の視線が遮られる、窓際のテーブルを選んだ。


 軽食と紅茶、ふたり分で五ピグ。さして待たずに供された白身魚のフライは、やたらと塩の利いた潰しイモが添えてあった。ナギサは〈淑女サイズ〉を頼んだのだが山盛りだった。皿に余分な油を吸う新聞が敷かれていた。黒茶、の呼び方が適切に思える雑味の強い紅茶は、砂糖の香りしかしなかった。


「雑味と砂糖で、訳が分からない甘みだ……。ノエルは、大丈夫ですか?」


 それでも甘さのおかげか、ノエルの棘のある雰囲気は鳴りを潜めた。彼女は紅茶を飲んで一息つくと(苦味に吐き出しそうになるのを堪え)、硬く結んでいた口を解いた。


「ごめんなさい。勝手に付いてきた挙句、取り乱して、しかも全力で走るなんて、はしたない真似を……。気づいたでしょうけど、タンジーって半ヨリアの街で、縫製業者の街だよ」


「野暮だと分かっています、でも尋ねさせて。……ノエルは、ここが嫌い?」


「嫌いじゃないよ。感謝してる。……でもナギサには来て欲しくなかった。タンスを漁られている気分になるの。ヨリアの私が晒される。ヨリアは私をヒューだと言うのに、ここを見たあなたは、きっと、私をヒューではないって思うから」


 話を聞いていた少ない客が訝しがる——この女はヨリアか? 昼食に五ピグ払える金をどこで手に入れた? と。ヨリアの多い地区にも関わらずに。前払いだから、当然ノエルは立派な客だ。しかしノエルを指差して呟く店員がいる、〈昼兎〉と。


「……晩まで針を動かして、週四リギス半の給金。必死で貧果に群がるヨリアを昼兔って呼ぶんだよ。本来、昼食に五ピグも払えない……私は、あり得ない幸せ者の、半ヒューなんだよ」


 ノエルは向かいの二階建てを真っ直ぐ見つめていた。


 向かいも、似た作りの食堂だった。窓越しに飾られた人形が並んでいた。二階の窓には従業員らしき垂れ耳の女ヨリアが身を乗り出し、こちらを、正確にはノエルを見ている。充血した瞳、はだけた服、ぱりぱりの髪。しかし素地は綺麗だろうと思わせる化粧の女ヨリアは、窓に並ぶ人形のひとつとよく似た顔だ。彼女はノエルの姿を満足するまで眺めると、乾いた笑顔で手を振り、灯のない二階に消えた。


「……彼女、知り合いですか?」


「ヨリアはね、同族のミュストを判別できるの。怖いね」

 ノエルは乾いた唇を紅茶で濡らした。

「向かいの二階は、もうお針子部屋じゃないの、職長が破産したから。……ヨリアって生活が大変なんだよ? 真面目に働いて昼兔だし、そうでもしなければ三月兎なんだから」


 三月兎。ナギサは『不思議の国のアリス』を浮かべた。〈帽子屋〉と並び気質の良くない状態の比喩として用いられる、と聞いた。学生になって教わったことだ。こちらでも、さして意味に大きな違いがあるとは思わなかった。


 ……窓の前を過ぎる労働者で、耳を持つものは皆、紫の瞳でノエルを見つけた。「血の濃いヨリアは同族のミュストを嗅ぎ取る」と彼女は言った。路地で浴びた視線はナギサではなく、同族のノエルに向いていたのだ。


 食堂外の席を陣取る中年男たちも、彼女を一瞥し、溜息と共に正面を向き直した。彼らは粗末な板を持ち、紫煙をくゆらす。「また悪魔が出たと思ったぜ」と噂話の声が聞こえる。輸入品のミシンの広告看板。縫製業の街には、軽快な針の音が走っていた。


「このおじさんたちは……外は喫煙席?」


「煙草吸いたいの? 私は気にしないで良いよ」


「いえ、吸いたいんじゃなくて。ミシンを食堂に売ろうと言うんじゃないですよね」


「広告屋さんだから。預かった広告を看板に括って宣伝をする仕事。週三リギス。工場に勤めたりするともう少し貰えて、週に七とか八とか。……ここはずっと広告屋の縄張りだよ」


 広告屋たちは、空のカップを啜り続けている。


(不味いパン一斤が、一ピグ。燃料に部屋に……七リギスでも厳しい。だって、僕の週あたりの食費が四リギス弱だ。……質屋か。お金に変える物を探して、街や墓地を漁るのか)


 工場労働者、屋台、呼売り、靴磨きの少年、何でも屋の女。コナーやアーサー、そしてナギサが暮らすアヴァリスの隙間を埋めるものが下流に溜まる。その隙間を埋めるのが、この街ではヨリアの役割だ。広告屋であり、お針子であり、街路掃除、煙突掃除、拾い屋、乞食、スリ、稼ぎ時まで街に降りない二階の住人。小事業者は安い賃金で働いてくれるヨリアに、夜中まで針を持たせる。ミシンを導入した仕事場に負けないように。しかしミシンを事業者へ宣伝するのもヨリアだ。ミシンが売れても売れなくても、ヨリアは食いぶちを逃し、街に流れ出る。


 新聞には手紙の代筆やタイピストの募集、文通するだけの仕事まである。読み書きの能と豊富な語彙力が前提の下流で比較的高給な仕事。ご丁寧に二箇所「ヨリアお断り」。皿に残された油まみれの求人広告を、ノエルは眺めていた。


 ナギサは満腹感が落ち着くまでの時間、街を観察していた。食堂から十数メートル、渋滞の先頭の壊れた露店が交差路に横たわっていた。散った積荷を箒で運び出している。さらに目線を動かすと、水路に沿った一本の脇道。網を抱えた男たちが踏み鳴らす割れタイル。黒く、溶けて剥げた水路脇の不安定な……


「あッ! 見つけた!」


 叩きつけたテーブルが激しく鳴った。数人の客は腹立たしげに大声と雑音の主を睨んだ。


「吃驚した。あなた、突然どうしたの」


「あの水路横を僕は歩いてたんです! 探していた部屋がある区画! あそこで目が覚めたんです。てっきり、もっと下流にあると思ってました。ここだったんだ! あった! ビアトリクス墓地から、こんなに近い場所にあるなんて!」


「工場用に延長した水路だね。でもあの水路、いまはこうだよ?」


 ノエルの指差した油まみれの新聞に、水路から引き揚げられた黒焦げの男を写した、粗い写真記事があった。「貸し人形屋、襲撃! 身なりの良い逃亡者一名が目撃されたが、警察はそれも被害者だと話す。事件との関係は不明だが、その十数分前から、地区には高濃度のミュストが流出していた。依然立ち入り困難。状況の改善、環境浄化の続報が望まれる」と。


 ノエルは皿を磨く店員に記事について尋ねた。彼は油まみれのそれと同じ日付、二週前の新聞を見せた。警察へ相談したが、増える悪魔被害が優先され、下流地区の(建築法違反な)住宅地ということで対応は後回しにされる。工場が労働者を引き留める為、人よりは高濃度のミュストに耐えられる人形を確認作業に投入し、調査をしている——そう言った。


「人も居られない? でも僕、本当に、その場に居たんですよ」


「ミュストって密になると散りにくい性質があるから、ナギサが目を覚ました部屋って言うのは、ミュスト溜まりの範囲から免れたのかも知れないね」


「一度、立ち入り禁止の札を見て良いですか?」


 ちらつくエリスの影に、ナギサは、前のめりにならずには居られなかった。「立ち入り禁止を超えるのは駄目。約束ね」と、眉を寄せるノエルを伴い、割れタイルの上を歩いた。前世と現世の分岐点のような気がした。白い部屋が脳裡に浮かぶ。あの場所に居たい、と。


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