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第六幕:ナギサの硬い芯 四

 ……シナモンの香り。


 ナギサが我に帰ったのは、見覚えのあるカウンターと、シナモンの効いたりんごジュースを前にしてのことだった。濡れたズボンの冷たさ、不快感が、彼を徐々に目覚めさせた。


「呆れた! アーサはあなたのこと『危なっかしくて目が話せない』って言ってたけど、本当だわ! だって、ただでさえ石膏みたいな顔を、本物のレイスみたいにもっと白くしてフラフラ歩くんだから。自分を自分と判別できないまで泥酔してるんだと思った!」


 マーシャは空のバケツを持ってナギサの隣に立っていた。バケツの中身の半分は店の前の石畳が、もう半分はナギサのズボンが吸っている。彼女は人通りの少ない時間に窓を拭こうとしたのだが、前の見えないナギサが真っ直ぐ突っ込んできたのだ。


「本当にごめんなさい……」


「ズボンもひったひたにして! 一体どうして前を見なくて、大丈夫でいられるのか、分からないわ! ……怪我がないだけ良かった。もうお昼なんだから、なにかお腹に入れて、帰ったら真っ先に着替えるのよ! 風邪引かないことね! ……前見て帰るのよ!」


 台風のような説教だ。マーシャは一通り怒鳴り終えると空のグラスを持って厨房奥へ消えた。


 ガシャガシャと泡立て器をボウルにぶつける音がカウンターに響く。相当ご立腹だ、カウンターに突っ伏すナギサは、耳が痛かった。


「……店長さん、お昼食べたいです」


「聖アルバートの祝日の練習で、君にお怒りの娘が焼いたジンジャー・ブレッドがあるよ。三ピグ半。落ち着きたいときは美味しい紅茶と砂糖をお腹に入れるんだ。酒ならなお良し」


「紅茶下さい。この店の紅茶ですから、絶対美味しい」


「当然。君、やけに少食だから、少なめに盛るからね。足りなければ言いなさい」


 銀メッキの銅貨が置かれたのを待って、店長は魔法銀の指輪を弾いた。肌が衝撃を和らげた鈍い音と燐光。店長の魔法が、焼きたてのジンジャー・ブレッド(パンではなくビスケット状の焼き菓子。生姜の香り)と輪切りのレモンを添えた紅茶を作り出した。


「……何度見ても慣れないです。魔法で料理を生み出すなんて」


「いや、魔法で出したんじゃない」

 店長は魔法銀の指輪でカップソーサーを弾いた。

「ほらね? 料理に不可欠な『食べられる』という機能は魔法では付与できない。魔法は運んだだけで、これは正真正銘腕に縒をかけて焼いたのさ。美味いぞ! ……君は記憶を失くしたらしいがね、大事なことだから、これは忘れてはいけないよ」


 魔法製の贋金が暴かれるように、魔法の食品も正体を暴かれる。古着屋が話したことだ。


 魔法の基層、上流から下流まで余さず知られた知識。……ナギサは、あの少女を怒らせた原因は、魔法について彼が余りにも無知だったからではないか、と仮定した。


(飲めない魔法の水を飲んで……なんて、とんでもなく失礼だったのかな)


 ……同時に、魔法が使えることが何故醜く思えたのか、ナギサは落ち着いて俯瞰した。基礎が崩れたのだ。アヴァリスに迷い込んだ時点で、彼はエリスとナギサの性質を合わせ持った。来世を生きた時間が生後二週間の赤子に等しい彼が、天才の外見と、釣り合うはずもない。


 果たして、ナギサは外見に応じた。魔法が使えなくとも済むことは前世の基礎に立ち、生活を成り立たせた。騙し騙し十数年分行きた青年を演じていた。……演じられてしまったのだ! 魔法がなくとも、道具で充分にアルトランド人の真似事ができてしまった。だのに——


(そうか。魔法が羨ましい訳じゃない、ふとした瞬間に、魔法の現れを意識してしまわないヒトたちが羨ましいんだ)


 だのに魔法はナギサの生活に割り込んだ——私を意識しろ、と。前世の基礎はもはや彼に役立ちはしない。彼はコナーの言葉で世間話を、エリスの食器で食事を楽しめれば、現世を受け入れられた。ただ、魔法だけは、前世のナギサから変わらずにいることは〈不自然〉なのだ!


(畢竟、僕は魔法から逃げたいだけだったんだ)


 異世界から目を背けたい。初日からナギサは変わらなかった。目前の店も焼き菓子も、〈異世界の〉と形容すると途端に遠のいた。前世のナギサが現世で食事するのは、不自然に思えた。


「……君はなかなか情緒不安定だな。食事の魔法では及びそうにない」


 店の空気はナギサと対照的だ。店長はご機嫌な鼻歌交じりでグラスを棚に並べ、給仕には人形が働いていた。客の少ない平日昼過ぎは、彼だけで充分仕事をまかなっていた。グラスを持ち上げる細緻な動作は、店の静けさに調和していた。不調和なのはナギサだけで、それを感じるのもナギサだけだ。


 ……その人形は突然動きを止め、銀の粒子も消えた。例えばそれは、機械の電池切れに見えるが、店長が駆けつけ、スタッキングされた椅子を退ける、ただそれだけで動き出した。


「参った、また邪魔したらしい。娘と違って、どうしても挙動が覚えられないんだ。こうやって人形の邪魔をしては、マーシャに怒られる」

 彼は照れた様子で眉毛をなぞった。


 人形の動きを覚える必要があるのか、とナギサは動かない木製の表情を睨んだ。


「……魔法で、ぜんぶ勝手に動くわけじゃないんですか? 使用人の代理にできるくらいだから、放っといても、静かに仕事を終わらせる、便利な機械なんだ、とばかり」


「俺もそう思っていたよ。あれが家に来た日は『もう毎朝髭のために鏡を見なくていい』と手放しで喜んだ。でも彼は命令通りに動くだけだ。俺らが便利なように命令して、実は自分たちの動きを邪魔してしまってな、要領の良い娘たちに怒られる。その度に自分の動きを見直すんだが……若者のように上手くは矯正できないんだよ、なぁ、旦那方」


 カウンター近くの常連客たちは頷いた。彼らは口々に、仕事場で材木を落とさせたとか、事務書類を捨てさせてしまったといった失敗を語って聞かせた。五個のグラスを指に、二本のボトルを腕に固定した男性客は、軽快な足取りで店を縫った。人形は彼を避けないのだ。


(意外。街はもっと……人形を使い熟しているんだと思ってた)


 ナギサは誤解していた。魔法や人形があればヒトは考える必要がなくなるのだ、と。そうではない。魔法だって反省の連続だ。魔法具は、自然と生活に馴染むものではないのだ。


 店長が追加のジンジャー・ブレッドを皿に乗せた。


「この間と同じく、君は魔法や人形の話となると身構えるんだね。人形が怖いのかい?」


「人形も、魔法も。……僕、魔法への恐怖を、解消できたと思ってたんです。でも単純ではなかったみたいで、また怖くなった。とんだ方向音痴です、一生魔法が怖いままかも知れない」


 ナギサに自覚はない。が、彼を外から見れば、粘着質な劣等感を背負ったままなのだ。


 店長が「俺も人形は怖いよ」と笑った。


「怖いがね、なんとか克服しないと、俺は娘たちに怒られてしまうわけだ。反省しないと、怒られた原因が違ったり、的外れな考えを持ったりして、また娘たちを怒らせてしまう。娘に叱られるのはどこか嬉しくもあるんだが、それじゃならんのさ。俺は人だし、父親だからね」


「…………。僕、魔法の記憶がないから、アーサーたちに遅れているって感じて。どうにか魔法じゃない方法で溝を埋めたかった。だから、いざ魔法を使うとなると脚が竦むんです」


「自分の問題が、自分で見えているじゃないか。治したいなら向き合うしかない」

 最後のグラスが光の塊となった。

「……コナーさんは君を『生まれ直した』と言った。子供は皆、試行錯誤を重ね上手くいって満足して、また痛い怖い思いをして反省して……それを繰り返しながら自由に育ってくれれば、大人は嬉しい。沢山試して、考えてごらん。若いんだから」


 酒瓶片手に顔を見せる常連客が、ナギサの肩を叩いて励ました。


「噂のマネキンはお前か! 食事まで忘れたなんて残念なことになってねぇか? なぁに、また覚えればいいんだよ。まずはエールの味(アルコール)を舌に染み込ませるところからだね」

「お前ぇ、この子にフィールドの旦那くらい呑ますつもりか。やめとけやめとけ、危ねぇ」

「俺の息子は親方になったんだ。十年続けた仕事を辞めて、必死に勉強して若いのを追い抜いてさ。いきなり別世界に飛び込んで縫い針の魔法を覚えて……いまや一流のテーラーさ!」

「娘は箒で事故やって一時期乗れなかったんだが、箒用ズボンが流行ったからって目の色変えてさ。気づけば飛行士だ。ズボン履いてんのは違和感あっけど、まぁ、頑張ったもんだよ」


 店長と周りの客たちの会話は、記憶喪失のマネキンの話から子供の話に移ってしまった。どこそこの工場長に嫁いだとか、カンパニーから資格をもらって一人前の親方になったとか、歳を重ねた親バカたちの暖かい子供自慢がパブを彩る。彼らの空気感が、そのままパブの空気感と一体になっている。彼らはきっと、それを意識してはいないだろうが。


 そして皆口にした。「魔法は、人形は難しい」と。彼らもきっと、変化する基礎に対応しようと試行錯誤しているのだ。


 ……生まれ直したエリスの体でなにをするのか。ナギサはそれを探しながら店を後にした。耳に残った店長の鼻歌を口ずさみ馬車の行き来する大路を進んだ。アヴァリスの街は、前世から聞いた言葉を使う街の人々の会話が止まない。ナギサは、それを拙くとも使えるからこそ、知らない単語や言い回しを見つける度、置き去りにされた寂しさを感じた。


(もう黒白つける時機だ。おばあちゃんに貰った話し方やエリスが持っていた魔法を、僕も扱えるように……。あるいは、異世界にとって僕は架空のヒトだと明白になるように)


 スクェアの立派な噴水脇に、ナギサは腰を落ち着けた。耳にずっと残る鼻歌は、太陽にかざした環状発動機(アニュラー・オルガン)の輝きに、似た響きを持っていた。何色も混ざらない純粋な銀が、彼のシンボルのように思えた。


「……エリスを探さなきゃいけない。し、あの部屋、初めて、この世界を見た白い部屋に行かなきゃいけない。……あの部屋に『転移門』があるかを確かめるんだ」


 白銀の青年は吹き上がる噴水のしぶきに包まれ、銀の腕輪に誓った。


 ナギサは、自分に硬い芯があるように思えた。魔法も流暢な言語もない、『ピーター・ラビット』を知る、前世の時点で凝縮された部分。魔法と縁が切れても、魔法に性質を合わせても、共通する硬い芯、ナギサの気配を。


 明日からエリスを追いかける。……ナギサはそう決めた。


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