第六幕:ナギサの硬い芯 二
マハラルの邸宅はセントエイル区の街並みに調和する建築芸術だ。儀式用の神殿と紹介されて、ナギサに、なんら違和感を湧かせない華々しさを持っていた。焔を思わせる彫像と彫刻で飾られた柱、窓に嵌められたガラス板の歪みの曲線。すべてが上品で、厳かな輝きを備えていた。鉄門を通り抜ける彼は、威容に圧倒された。
「華々しさを、窮屈とは言わないけど、ここは自然と背筋が伸びる」
「いいや、実際窮屈な場所だ。大通りに転がってるあいつを見てみろよ、変」
アーサーは不快感を隠さずに唇を尖らせ、安酒のビンを抱いて眠る中年を指差した。
「……変って言われても、僕、分からないよ」
「あれは浮浪者を演じてるんだ。屋敷に監視が必要なのか」
ノッカーへ乱暴に魔法を打つアーサーを、ナギサは街に響く不機嫌に首を緊張させながら追った。彼は感情表現が豊かで直接的だ。それは華かも知れない。同時に、動物的で恐くも感じさせた。から、ナギサは宥める調子で話しかけた。
「……乞食の真贋、アーサーは見た目で判別できんだね」
「簡単さ。みっともなく酒瓶と転げてるのは同僚だからな。……返事なし、入るぞ」
玄関扉は摩擦を忘れた滑らかな動作で訪問者をホールへ迎えた。扉の奥に現れた、豪華絢爛な外壁装飾と真逆の、いくつかの金の燭台と油絵の肖像で質素に飾られた穏やかに暗い空間。ナギサの緊張もアーサーの苛立ちも、どこか上滑りしてしまった。
ナギサはホールの奥にコナーと、彼よりさらに体格の良いふたりの男が会議しているのを見つけた。……先週の飛行船のプーカと量塊感のある赤い顎髭のヒュー。来客が空間に生んだ警戒がやがて諒解されるまでを過ごす。彼らは自らが儀式の主催であるように構えている。
アーサーは怯む様子もなく、堂々と絨毯の中央を踏みしめ、赤髭の男を鋭く睨みつけた。
しかし顎髭を撫でながら男は、余裕の表情を崩さなかった。彼らの服は細かい意匠に多くの共通点があった。かつ赤髭の男のものがより麗々しくあった。彼がカンパニーにおけるアーサーの上司であることは明らかだ。
「アーサー、お前が来ることは人形職人から聞いていた。丁度良い、仕事に加わりなさい」
「突然現れといて五月蠅ぇな。なんの仕事か聞いてないし、俺も用事があって——」
「お前たちが立ち会った転移門に関係する仕事だ」
転移門、の言葉にアーサーは魅力も感じたらしい。が、ナギサを誘った手前、答えに遅疑逡巡していた。だからナギサは、仕事なら構わない、と彼に眴せした。
「……この屋敷で古い転移門のなにを確認すんのかしらねぇけど、調査に加わるよ」
「他に選択肢はない。ハウエル殿、フィールド殿、我々は先に失礼する」
アーサーは赤髭の男に連れられ、奥へ続く扉の向こうへ消えた。去り際、コナーに頷き、コナーもまた返した。閉まる扉の向こう側の様子は、ホールに響く軽重ふたつの足音でしか分からなかった。彼はまだ納得し切っていない、体重を乗せて床を踏み鳴らす音が重く響いた。残る三人は苛立ちの音が止むのを、無言で待った。
(転移門。僕がそれを知っている、と赤髭の男は知ってるんだ。隠さなかった)
転移と聞いて、ナギサは思い浮かべる場所がふたつあった。ビアトリクス墓地南東のレリーフ。そして世界に迷い込んで最初の白い部屋。あの部屋は強烈に、ナギサの心を染む。彼はどちらにも決して好意や懐旧の情はなかった。が、もういちどあの地点に立ちたい欲求が、彼の頭のどこか片隅に、常に居座っているのも事実だった。
コナーは言葉を考える際のくせで、たてがみを後頭部へ撫でつけた。
「あー、ハウエル殿、申し訳ないが私は師匠の客人を案内する要があります。彼が件の青年でして。探し人は、ウィルクス殿を追って頂きたい。私もすぐに加わるので……」
プーカはナギサの白銀の瞳を見、なにかを納得したようだ。
「君が……成る程、話に聞いた通りの白い肌。フィールド殿、そういった事情ならば構いません。彼女は屋敷からは出られない。ならばいずれ見つかることでしょう。お気になさらず」
コナーは、ウィルクスを追って優美な足取りで去るハウエルに向け、事事しく左腕を横方向に広げ頭を下げた。ナギサもぎこちなく動作を真似、扉を閉めるハウエルにお辞儀をした。
「…………。コナーさん、いまの馬……プーカは誰ですか?」
「ハウエル殿は通商省の官僚だ。彼はそのなかでも、主に人形技術や義体流通に関する業務を取り仕切っている、カンパニーとの繋がりが強い部署だ。師匠の知り合いで、私の寄宿学校時代の監督生・最優秀生でもある。いずれ首相になる方だ。……さあ、付いて来なさい」
いよいよ連れられた理由が聞けるだろうか。ナギサは、銀の環を手にコナーを追った。
コナーは屋敷の案内と紹介を兼ね、玄関からみて左右対称に設計された屋敷の、磨かれた階段に足を掛けた。彼らが登る階段の、玄関から見て左は人用、反対は人形用だ、と言った。
「わざわざ、分けるんですか?」
「社会道徳には必要だ。男女を厳然たる区別のもと、部屋から階段、建物ごと別にする場合だってある。お前はこれからいくつかの屋敷を訪れることもあるだろう。覚えておきなさい」
「コナーさんの使用人は、男女構わず、部屋に顔を出します。フォクシーの女性とか」
「私の家は古く部屋数も少ないし、彼女は父にも仕えた古株だ。家の鍵は彼女が管理しているんだよ。鍵も使用人も彼女に任せれば心配ない。優秀な家令さ」
古株、と聞いてナギサは驚いた。彼女の毛並みは若い艶があったから、ヒト換算で二十台半ば程度だと見ていたのだ。案外獣頭でも年齢の区別は難しいことではないのだ、と思い始め、コナーを四十代辺りと見た選別眼が正しかったから、より驚いた。家令は彼より数年若い歳だった。どちらも落ち着いた、しかし冷たくない気質が似ていた。チャールズ・スクェアの空気感だ。
いまのコナーは、手すりを探る手が何度かに一度空気を握り、バランスを崩しているが。
「コナーさんは、大変な用事で来たんですね。僕の用事、取りやめた方が良いですか?」
「気を遣うな。……とは言え師匠次第だが。私たちの用事は、確かに早急な対応が必要だから、互いに進行の邪魔をするかも分からん。書斎に通すから、詳細は師匠から聞いて欲しい」
かくしてナギサは、廊下を飾る他の扉とは明らかに仕上げの違う扉の前に通された。
廊下を進む途中、そしてナギサと別れるいまでもコナーは焦った様子で探し物をしていた。
「ミュストが読み取れないとは……。ナギサ、案内すらもできずに申し訳ないが、私は、もう一度エントランスへ戻る。この書斎の本は自由にして良い。待っていなさい」
言い残し、コナーは廊下を駆けていなくなってしまった。屋敷の慌ただしさが隠れない。
「自由って言われても、文字は精読できないし。……図鑑とか辞典は、あるかな? さて」
分厚い扉は、ナギサの体重を柔らかなヒンジの滑りで吸収し、厳かに開いた。鼻が古紙と油の匂いを捉えた。扉を開けて正面の大机が彼を迎えた。天板は、文字と幾何学模様を組み合わせた複雑な図形、そして種々の物体について説明のなされた書類の束で半分が見えなくなっている。いずれにも流麗な文字で注釈が加えられている。——もう半分に、厳重な革カバーと留め具で厚みが二倍になっている、一冊の本。
書斎のガラス戸の棚には、祖母がしていたように手入れの行き届いた本の数々が並ぶ。個人の書斎と呼ぶより、大図書館の閉架書庫といった表現が的確な別世界。整列する背表紙の振る舞いが部屋に緊張感を加える。数十年熟成されたウィスキー色の天板の大机、机の前からずれた位置の象嵌細工で飾られた椅子。部屋は黙して主人を待ち続けている。
(……あれ?)
書類の一枚まで調和の保たれた在り様で、椅子だけ乱暴に放られている、ように見えた。あるべき位置から離れた違和感。ナギサは違和感の正体を突き止めるために机の反対へ回った。
「あっ! ……あぁ、分かりました」
即座に手で口を覆った。机の下には膝を抱えて丸くなった少女がいたのだ! 彼女は懇願の表情で口に人差し指を当て〈黙って〉のポーズを見せていた。彼女の意図を諒解して、彼はすぐに廊下の足音に耳を澄ませた。
「……大丈夫、屋敷のヒトは、離れたようです。僕以外いません」
少女は心底疑った顔で耳をそばだてたが、やがて物音ひとつ聞こえないことを知ると、一応信用してあげても良いか、と窪みから這い出てきた。肩にヴォリュームのあるドレス。スカートの裾を ぼすぼす と叩いて埃を落とし、胸を撫で下ろした。
「ねえお嬢さん、多分、家の方が探してますよ」
「知っていますわ。捕まえられると思っちゃった。あなた真っ白だから陶器人形に見えたんですもの。人形だと話が通じないし、ハウエルだと問答無用で捕縛魔法ですから、あなたで助かりました! ここの使用人にしては裾上げ跡が目立つけれど。……あ、庭師ね!」
少女は小声で、ずっと書斎に隠れていたことを話した。その話し方は会話の授業を行うコナーのように演技じみていた。突然屋敷に部屋を用意された彼女は、人形ばかりの屋敷で、なにをするでもなく時間を持て余していたと言う。「以前は頼めばおとぎ話を聞かせてくれるお世話係りが控えていたのに、人形ってばもう……」と本棚の背表紙を撫でた。
木に彫りつけたれただけの、人形の顔を思い出した。
「人形は、確かに一言も話しませんね」
「そう。だから自分で読もうと思ったけど、私の興味を引く本は僅かばかり。暇なの。ねぇ真っ白な使用人さん、お願いです、少しの間で良いから面白いお話を聞かせて下さいます?」
「手短にすむ面白いお話? 難しい、突然なご要望です。なにをお聞かせすれば良いか。そうだなあ、『三匹の子豚が家を建てるお話』とかどうだろう。聞きます?」
少女は、フーのプーのブー! と息を吹いた。
「じゃあ『父王を塩に例えて怒らせた姫が、追い出されるお話』は?」
少女は、生肉に塩がなくてはならないくらい大切、とおじぎを見せた。彼女はナギサの知る、話そうとした物語を良く知っていた。そうして、古い童話の引き出しをひっくり返して悩むナギサに「別に私、もう子供でないのだから」と穏やかに言ったのだ。
「そうですけど、思いつく面白くて短い話って、おとぎ話以外なくて」
多くの昔話は、この世界にも似た筋書きの別の話があるのだ。そうであるならば——、ナギサは新しい物語を話そうと決めた。彼の脳裡に浮かんだのは、兎だ。
「それじゃあ『ピーター・ラビット』。僕にとって、最近、馴染みのある話なんですけど」
少女は、誕生日と夏休みとクリスマスが一緒に訪れた子供の顔で瞳を輝かせた。
「よし、聞いたことないみたいですね、じゃあ『ピーター・ラビット』を——」
「ある! 『ピーター・ラビット』は聞いたことある! ピーター・ラビット、上着と靴を取り返すのよ。お父様は知らないって仰います! けど! 私は確かにお父様に読み聞かせて頂いたの、覚えているわ。夢かと思った! あぁ! 夢じゃない! 本当にあるお話なのね!」
少女は細い足をバタバタさせ、興奮した様子で物語を暗唱し始めた。
ナギサを引き込むのは一瞬だった。彼女が嬉しそうに話す物語は、確かに彼の知る物語に相違ない。そして、そのことは白い異世界人に、この世界の言葉はどこの言葉か、強く再提示した。言葉も物語も、存在するはずのない世界。しかし彼女は語って聞かせた。
ふたつ。
ひとつは、寄宿学校にパブリック〜のルビをふっていますが、正しくはないこと。
もうひとつ。Helen Beatrix Potterは『ピーター・ラビット』の作者。本屋には、3冊セットで箱に入ったものも置かれています。ナギサの話す、馴染みのある、とは彼女の名前の区画に住んでいるということです。




