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第六幕:ナギサの硬い芯 一

 林檎の老大木を巡るタープの下で、白シャツが等間隔に踊る。死の床に異質な、生きた気配が漂っている。カラの編みカゴ。濁った水の張っている桶。道具がヒトの存在を示す。「明日は一日中晴れだ」。家主は、市場で沖仲仕(おきなかせ)がそう話しているのを聞いた。


 ナギサはタープの環を抜け、朝早く訪ねて来たアーサーを、林檎の小屋に招いた。アーサーは荒々しい自然派の壁を目の当たりにするまで、住居があると信じ切っていなかったのだ。


「君、一昨日には、南東部で会ったじゃないか」


「実際の生活を見るのは初めてなんでな」


 労働者が都市に流入し、埋葬される社会層が郊外へ居を移すにつれて、ビアトリクス墓地は人々に役割を忘れられた。三百年もの昔から門と鉄柵により閉ざされた街の空洞。中流と下流の境界を示すことが、唯一仕事として与えられた。密かにエリスの家があることを除いては。


「魔法が本当に機能しているのか……僕、北の門を観察していたんだ。僕が前に立つと開くのに、あの門は、驚いたことに、墓地を覗く通行人を一向に通さないんだね?」


「結界は効いてるんだな。結構。悪魔にだって通られやしないさ」


「そうだと良い。それで、もっと多くを望めるのなら、強風で飛ばされた洗濯物を、墓地の淵で受け止めてくれれば良いんだ。悪魔の巣に、寄らないで済むからね」


 ……地上は今日も、薄い霧が出ていた。そういう季節だ。


 悪魔と霧は関係ない。しかし頭のなかで関連づけてしまったら、もうナギサにとって霧は悪魔の気配に思えた。関連で記憶される気配。彼にとって、エリスの気配は炻器と高級な調度品だった。ナギサの白い顔はエリスそのままの状態ではないから、鏡に映る姿が、彼にエリスを想起させることはなかった。


 ナギサは考えた——であれば、僕の気配は、世界のどこにあるのだろう、と。彼の持ち物は生活を助けるが、彼が揃えたのではなく、エリスが残したのだから。


「……道具のおかげか、静かで、快適だよ。文明的なことにガスも水道も引いてある」


 朽ちかけの家に似合わない優秀な設備だった。「管理小屋に必要なのかな」と独り言を漏らすと、アーサーは「お前が必要にしてるじゃんか」と洗濯物の列を見た。


「洗濯もだし、玄関横で濡れたブリキと帆布の珍妙なオブジェ。ありゃなんだ。芸術?」


「シャワー」

 ナギサはブリキのジョウロをテントから持ち出した。

「布は撥水加工。だって空のやつ、時間ごとに表情を変えては、シャツを濡らして逃げるんだ。水浴び中に降ると、浄水と雨水のどちらを浴びてるのやら」


 ジョウロのシャワーは、なによりも水浴びを欲したナギサの試行錯誤の結果だ。水垢離さながらの気分だが、彼には寒さよりも流水を浴びられないことが大問題に思えた。これがなければ水差しと湯を張った桶、適度な大きさのタオルを用意して全身を拭うことになるが、大変に面倒臭かった。それに、親しんだ機能の道具は彼にとって精神安定でもある。


「コナーさんの家の先進性! 古い家を改装して、浴槽とシャワーを取り付けるなんて」


「水浴びに随分なご執心だな。エリスだって別に、体を拭うだけだった訳じゃないだろう」


「魔法で足りたんだろうね」。ナギサは腰に下げた〈飾り〉の杖を叩いた。「もうこの家は充分君を驚かせよ。用があって来たんだろう? 屋根を直す途中だけど、奥の部屋を使おう」


 アーサーは立ち枯れた木に杖を向けた。


「見とけ——、『主の名に平衡の現れを求める——製材』……んで、『総身掲げる求道者の傘——天井出でよ』! ……どうだ?」


 魔法の光を吸い込んだ枯木は木ブロックに姿を変えた。アーサーの振る杖に連動して地を這う量塊。真新しい部分が三百歳の壁に被さる。乱暴な建築でも、雨の心配はないのだ。


「……魔法が羨ましいよ、便利にしてさ。さて、屋根の分、余った布はどうしようかな」


「洗濯場所が増やせるな。ほら、朝食代わりのココア・バーと飲み込むための水。なか入ってまずは朝食にしようぜ。今日は朝飯も食わずに家を出てきたんだ」


「それ口のなかで溶けないやつだろ。ウチに来たんだから、ちゃんと食べて行きなよ」


 家で最も光のあるキッチンに、アーサーを通した。日中ずっと同じ光度の北窓が明るめる作業台と炭火レンジ。ナギサはレンジの熱でジリジリ温めた琺瑯鍋から、焦がさないよう煮込んだシチューを皿に盛った。ラダー・タヴァーンの他にも美味しい店はあるらしい。が、外食は財布が冷えるし、舌に合う保証はない。畢竟自炊が手っ取り早い。


「火勢の調節が難しくて! 何度玉ネギを炭に変えたか」


「毎日市場に行くんだってな。食事に大層困って……美味ぇな! あれ、こりゃ美味いわ。使用人要らねぇじゃん。全然困ってないじゃんか。毎朝こんな美味いの食ってんのかよ!」


 アーサーの右手が忙しくスプーンを動かし、ナギサが彼の皿をテーブルに置くころまでに、皿の半分を食べた。ナギサはそれを、何故か非日常に感じた。心臓がじわじわと温まる気がして、照れ臭かった。


「夕飯の残りで、こんな、喜んで貰えるなんてね」


「いやぁー美味いわ。また食いに来るから、門開けてな?」


「ウチは食堂じゃないぞ。まあ、構わないけどさ、独りも寂しいし」


 炭火レンジや冷蔵箱……魔法なしの生活を補助する為、レトロニムに該当する道具の数々が雑然としたエリス邸を構成する。冷蔵箱にはくず肉だの芽キャベツだの、市場で安く売られている食材が詰め込まれている。アーサーはそれを、並の使用人のような生活、と評した。信じたくない速度で減るエリスの貯蓄が並を支える。魔法なしでは数日も並の生活ができない。財布に優しくない世界だ。例えば、冷蔵箱のための氷塊や燃料の木炭を手配するだけでも、ナギサの小心な性分は悲鳴をあげた。氷の割れる音が、不安と寂寥を掻きたてた。


「……エリスは魔法で、冷蔵箱用の氷を、作ったんだろうね。驚くべきことさ」


 しかしアーサーはむしろ、冷蔵箱の排水槽に溜まった水をうっちゃるナギサに感心していた。


「お前も驚異的なんだがな。魔法が巧みだって、こんな美味いもんは作れないし」


「褒められるのは、悪くないね。これで感動して頂けるとあれば、今度は女性もどうぞ」


「誰だろう。ローズ、マティルダ……、いやブランドン?」


 ナギサは女性の名前をつらつらと挙げられても、誰の顔も浮かばず「何人連れるつもりさ」と呆れるばかりだった。アーサーは「ブランドンは会っただろ。ローズは北の……」と紹介しだしたが「やっぱりひとりでいらっしゃい」と続きを遮った。ナギサは、ジューンのつもりで提案したのだ。女性を数えて指を全部折ったアーサーに辟易しながら、ナギサは、はて、彼の用事はなんだったのか、と本題を思い出した。


「なぁ、危うく忘れるとこだった。食べ終えたら、訪ねて来た理由、教えてくれるかい?」


「あ……満足して帰るところだった。魔法を羨ましがるお前に、って預かったんだ」


 アーサーは最後の羊肉を頬張りながら、手首が通せるほどの銀色の環を取り出した。表面を微細な幾何学模様のライン。飛行船や箒の房を囲む円と同質のもの。彼はナギサに、それを触るよう促した。


 ナギサは芋を口で溶かしながら環を両手で包んだ。ノエルのロケットに似た、ミュストの流れが内臓を揺らすような気がした。血流、呼吸、電気信号。共振するが、しかし環は彼女の魔法具と異なる、肌に吸い付く固有の流れを彼に与えた。


「……へえー、押し返さないやつも、あるんだ」


「押し返さない! 決定だ、食べ終わったら出かけるぞ!」

 アーサーは上着と帽子を身につけた。

「なにキョトンとしてんだ。ナギサも来るんだぞ? 先週前を通った、職人肌な貴族様のお屋敷さ。その環はお前のミュストだぜ。俺は案内を頼まれたんだ」


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