第五幕:ビアトリクス南東の転移魔法 三
……転々と並ぶ墓を見て、過去に意識を飛ばし過ぎたのが一等悪かったのかも知れない。
ナギサは、現在地を知る術を持っていなかった。本当は、アーサーを案内する責任があったのに。家に帰るにも、元いた道への方角も分からなくなった。彼は家の周辺では見られない形式の墓を眺める為に細道へ進んだことを、後悔した。アーサーの目が冷たく思えた。
「霧が出てるってのに、どうして初めて歩く場所で『案内する』なんて言えたんだ……」
「ごめん、ごめんって。猛省してるよ」
「迷子癖だよ。そうやって『この先周縁部、悪魔の巣注意』の表札を超える訳だ」
「墓地は住宅街の真ん中にあるんだ。街から外れるんじゃないんだから——」
「さっきも街中の被害を見たろう。それに、じゃあこの匂いは一体、なんだろうな?」
霧に阻まれていた視界が、突如、改善された。
目の前には、どどめ色の歪んだ獣頭が、十数頭の群で地面を埋めていた。……悪魔。
「…………」
「シーツ貰うぜ、俺の後ろを動くなよ」
アーサーはそうナギサに厳命し、手前の悪魔に歩み寄った。土で汚れた靴裏を、悪魔の頭頂部に擦り付けた。そうして悪魔が、いまやただの肉塊であることを確認すると、彼はシーツを被せ「来ても良い」と手招いた。
ナギサはアーサーを挟んで悪魔に近寄った。シーツから黒い液体に濡れた腕が見えた。油臭かった。鼻と口を覆うナギサが「これは動かない?」と尋ねると、アーサーは「ああ。それよか、吐きそうなら無理せず吐いとけ」と茂みを指すほどだ。
「…………。いや、大丈夫だ」
「まだ隠れとけ。刃物で殺してるんじゃ、魔法使いの保証はない、盗賊かも分からん」
悪魔、アーサーが下級悪魔と呼ぶそれは、彼が足先で指し示す真新しい靴跡の持ち主に撃退されていた。はみ出た腕を囲む切り傷から流れ出た悪魔の赤黒い体液は、へこんだ靴跡に集まり、黒く、傷んだ肉の匂いの水溜りとなっていた。靴跡は、体重のある人の残したものと、裸足の、極端に扁平足なものの二種類あった。
背後を庇って腕を広げるアーサーに従い、ナギサは恐る恐る、霧の薄くなった墓地を歩いた。足跡を辿り、やがてふたりは、同じくふたり分の影を認めた。アーサーの脚が止まり、ナギサは彼の硬い背中の生地に、鼻をぶつけた。
「っあ、アーサー? どうしたんだ?」
彼は黙って霧の向こうを指差す。ナギサはすくむ足を堪え、前を塞ぐアーサーの体を盾にして、霧の中を確かめた。そこには、地面に敷かれた石タイルに屈む影が待ち構えていた——
「——えっ、コナーさん?」
「ナギサ……にアーサーじゃないか! ……門の鎖を切ったままで、入ってしまったのか」
「エリスの家の近所です。ああ! 大きい靴跡って、コナーさんの足だ! 扁平足なのは、そっちのマハラルさんの人形で……コナーさんこそ、どうしてここに居るんですか」
コナーは「悪魔祓いだ」と彼の脚ほどある鞘に収められた長剣を掲げた。
「アーサーが業務で行うものとはまた別件でね。『カンパニー護衛士、悪魔祓い部の通常業務に回すことはできない』と師匠に頼まれた仕事なんだ……アーサーにバレてしまったが」
彼は人形の足元にまた屈み、地面を調べることを再開した。
アーサーが駆け寄り、地面に敷かれたレリーフの紋様を覗き見た。
「門だ! 仕掛け扉なのか、それともこれ自体転移門なのかは分からんけど、この、古臭い儀式魔法の道具は、別の場所に移動するための門だぜ。なんでそんな大層なモンがあるんだ」
アーサーの言葉に、恐らくは少しの間違いもなかったに違いない。コナーは脱帽し、レリーフの紋様をなぞる指が長く停止していた。
「……君の父上が、君の将来を期待するのも頷ける。その通り、これは、カビ臭い古文書を読まなければ知るはずのない、太古の転移門だ。いま使える者がいるとなれば大騒ぎだろうな」
「これ結構大規模で、転移先が一等正確なやつ! すげぇ! 何処に通じてんの?」
「アヴァリスの旧水路だよ。環境法で整備された現在の水路ではない、太い管を埋めた地下水路だ。大昔、シティ・オブ・アヴァリス区が異国の属州であった頃、有事の避難路が作られたのは、アーサーも知っているだろう。それだ。そして、私やお前のミュスト量での起動は望めない」
コナーはレリーフの溝の土をかき出し終えると、立ち上がって腰を伸ばした。
「良いかね? 転移門は禁止魔法だ。つまり、絶対に口外するな。……ナギサもね」
転移魔法がなぜ禁止か。コナーは話さなかった。しかし理由がどうあれ、率先して魔法の話題を出したいとも思えないし、〈禁止〉をわざわざそれを破る好奇心旺盛な性格も持ち合わせていない。だからナギサは指示の通り、忘れず、口外しない約束を守るつもりだった。
アーサーは事物の重大性を知るようで、神妙な表情を崩さずに人形を睨んでいた。
人形は、リトマス試験紙のような、場所によって色の見え方の変化する帯を首から下げている。コナーの指示を受け、木製の彼はレリーフに伸ばした帯を右手で繰り、色の変化の仕方を確かめては、反対の手で黙々と記録を残していた。
コナーは肉塊を隠すシーツの近くで足を止めた。
「そうだ、アーサー。この転移門なんだがね。悪魔祓いを必要としたことからも判然としているが、どうも、彼らの通り道に使われている。最近、悪魔祓いで下流の街には来たかね?」
「今日もだ。……え? 悪魔が出せる少ないミュストで、使えるじゃん、転移門」
「考えてみるんだ。縄張り意識の強さによって住人を襲い、同族内ですら殺しあう悪魔が、どうして転移門を前に集合し、協力して儀式魔法を起動させようなどと協調性を発揮できる? 不可解だ」
……ナギサからは、ふたりだけの言語があるように思えた。魔法のことや悪魔のことを話していて、それは例えば映画や小説の娯楽作品を読めば、決して馴染みないものではないが、彼らの速度については行けなかった。
「悪魔、のこれは、なにか非常事態、なんですか?」
ナギサは、薄霧と肉の匂いのなかで調査するコナーを邪魔しない小さい声で問うた。
「一番考えたくない非常事態だ」
アーサーが答えた。彼は積み上げられた悪魔の体液で黒く染まった石タイルに、短い杖を向けた。杖に被せられたキャップを外し、尻軸をゆっくりと回す。銀色の雫がタイルに落ちる。雫は、点から面に広がった。
「…………、銀色になった」
ナギサも覗き込んだ石タイルは、おどろおどろしい赤黒から、銀のタイルへと変身した。肉肉しい気配は消え去った。体液が発するタンパク質と脂の激臭は、金属臭が代わってしまった。
「コナー、こりゃあんたの手には負えないし、つまり俺なんか絶対に処理できない。これは交易カンパニーだとか、下手すりゃもっと上が出る必要がある話だ。俺でも分かる」
「その通り。だから口外しないで欲しいのだ。耳の早い貴族たちが全員紳士であるとは思えない。まして市民や、ペンの力を信じる者たちが、全員紳士である筈もない。彼らに知れ渡れば制作者を逃すことにつながり、混乱が広がってしまう」
魔法使いふたりは、ますます彼らの言語で話した。ナギサは授業のコナーとはまるで違う人物が、彼の体を借りて目の前で話しているように聞こえた。魔法使いを、ミステリー小説の探偵と助手に重ねて見た。名探偵も、魔法じみた推理力を発揮していた。ナギサは、自分は事件を目撃してしまった〈通りすがりA〉の役を演じているように錯覚したのだった。
「あの……悪魔って、銀色の血を流すんですね」
「否。悪魔の体液は赤黒い、お前も、ここに来るまで見たはずだろう。あの赤い色が、こいつらの体を循環する血だ。こいつらもまた、赤い体液を持って生きていた」
「…………『いた』?」
「悪魔は近しい血縁以上の集団を作らない。束ねるためには、命令を聞く機構を埋め込む作業が必要だ」
コナーは首を横に振った。
「人形は、命令を素直に聞き入れるだろう?」
「悪魔、で作った——」
アーサーは同意して頷いた。
「悪魔がなにも言わずに襲ってくるのは、ナギサも身をもって知ったろ」
「……うん。確かに、あれに囲まれることを、想像すると、絶望するしかなかろうね」
「人を絶望させたい奴が居るのさ。……悪いな、帰るよ。マハラルには悪いけど、俺には報告を持って帰る義務がある。転移門を伏せたとしても、せめて悪魔人形についてだけはな」
彼は最後にナギサに向け、「安全のためにも、南東部には寄るな」と言い残して、銀色の血液に塗れたシーツを回収し、再び濃くなりつつある霧に溶けた。
……畢竟外食ももてなしも取りやめとなった。小銭は増えず豚の出番はお預けとなり、ナギサは、訳のわからない秘密を抱えた。自炊しようにも、肉を食す気にはなれなかった。空腹も感じず、食事の必要もないように思えた。鼻の奥の、脂の臭いの気配が消えない。あの後に見た墓地の彫刻のどれもが、形を記憶に留めていない。部屋干しで湿気が酷く、風のせいで建具が煩く……ナギサは、酷く寝苦しい夜を過ごすことになった。
可愛い貯金箱の豚を、今夜は、眺めても楽しくないような気がした。




