幕開け
窓ガラスの向こうに鉛白の青年が立つ。
それを眺める彼には、青年の肌が色を塗った白ではなく、色を奪われた白であるように見えている。やがて彼は気づく——コイツと自分は鏡写しに追従して動くのだから、間違いようもなくどちらの像も自分のものだ、と。彼は、灰白色の壊れた家具が散乱する、無機質な部屋に横たわっていた。上から下まで色味のない透ける肌。布一枚すらまとわずにいる。
(白磁にも似た冷えきった肌だ……。空気が、痛い。服を、着なきゃ)
彼は本を読んでいた。その重さを、柔らかな紙の色を、整然と並ぶ文字を覚えている。それは板紙をノートの表紙に貼り付けただけの、簡単な作りの本。祖母の遺品を整理するなかで偶然見つけた。整理の手を止めて開き、突然悲鳴をあげた心臓の衝撃を最後に、意識を失った。記憶はそこで途切れていた。
暑い盛りだったのに、ここは指先まで凍る冷気がある。彼は脇に置かれていた滑らかな革カバンに指を伸ばした。ひと揃いのスーツと襟の硬い白シャツ、革靴とローブを見つけた。どれも確かな手仕事のあとが窺え、長年着続けたものの肌馴染みの良さを持つ。ジャケットの内ポケットには〈Ellis〉と、特徴的な書体で銀色の刺繍がされている。顔も知らない〈エリス〉の服。彼は不思議と——自分の服だ、と思った。
(残さず肌を出していることは、なんて心細いんだろう)
彼はすっかり厚手の生地に覆われた腕を撫でた。羊毛が空気を蓄える。
(…………。暖かい。作りものみたいな体でも、体温はあるんだ)
彼は深呼吸をして新鮮な空気を頭に送り、彼の部屋を脳裡に浮かべた。引出しのない机、ジャンル分けされた本棚、簡素なベッド、祖母が「ナギサ」と呼びかける声。鮮明に。しかし心象の如きは池に張った氷のように、簡単に割れてしまう。それにいくら明瞭なイメージを浮かべたとて、彼は鉛白の部屋に立ち、空間の余白の大きさを感じていた。本はなく、祖母は死んだ。いまあるものは部屋の壊れた家具、革カバン。カバンには服の他に、紙きれが数枚入っていた。第二黄金比の細長いそれは、点を並べたパターンが印刷されている。原料は植物でも、どうしたって食料にはできない。彼はこの部屋に留まることはできない。
ナギサは窓に映る姿を見つめた。真っ暗闇の外と照明もないのに明るい部屋とのコントラストが、窓を鏡に変える。鏡が、闇に踏み入ろうとするナギサの不安を煽る。いいや、彼は服から不安に気づかない演技のための、少しの勇気を貰った。大丈夫、進んで行ける——そう思った。
「目標、部屋の外に出る。出なきゃいけない」
未知数を前にする彼自身へ聞かせる。
「把手を握って、回す。毎日やってる簡単な仕事だ」
彼は決意を固めて把手を回した。
すると、
ぴし ッパキン
ああ! 扉を包む透明な膜が、崩れ、散った。
粉々に砕け散った細片は密な空気を押し退けて、眩い曲線を描く。曲線はナギサの右手を目指して流れ、〈棒〉を形成した。真新しい鉛筆の倍ほど長く、細く、黒い均質な棒。彼は変化の過程に目を奪われた。現象には決意を砕くに充分な恐怖が含まれていた。全身で感じられるほどに心臓の鼓動が急ぐ……
いや、怖くとも、ナギサは扉の向こうへ行かなくてはならない。
「……置いてけぼりなのは、初めからだ。そうだった」
彼は震える手で棒をしまい、固まった脚を進める。
「外に出るんだ。分かってる、怖気付いちゃいけない」
今度は把手の丸みを、しっかりと掌でなぞる。握力のぜんぶを使って、ゆっくり、ゆっくり、回して、押す。……扉は、きぃ、と安い音を響かせ容易く開いた。——良かった、扉の向こうにも世界は続いている。ただ、出てすぐの路地に光は届かず、水気を多く含む不安定な土の足元があった。左右に細く伸びる路地も緩んでいた。小さな生き物の気配すらなく、音といえば街の喧騒が遠くから聞こえるのみ。密集したあばら家が空を奪い、湿気を溜め、時間を絡めて沈滞している。ところどころ散らばるガラクタが尚更道を狭める。
(白い部屋から、黒い街になった)
……より明るくより賑やかな場所を目指してナギサは足を進めた。快く道案内を引き受けてくれそうな、いかにも優しい顔、柔らかい声を求めて。
ナギサは、白い部屋から迷い出た。
いくらか角を曲がり、余裕を持って人とすれ違える道に出た。力なく歩く通行人が居る。彼の背中を追うと、ほとんど壊れたドアを開けた隙間に、倒れるようにして体を捻じ込んだ。ヒンジが歪んでいたのだろう、自然と閉じただけで扉が傾き、装飾の真鍮が落ちた。道脇に座る男がすぐさまにじり寄り、それ上着のポケットに大事そうに滑り込ませる。ぽんと叩いて、また壁にもたれる。
(……早く抜けてしまおう)
ほんの少しだけ足早に、ほんの少しだけ硬められた土の上を歩き始めた。古い、不幸な空気が溜まったこの場所に溶け込むには、ナギサは、不釣り合いな新しさと幸福の中にある。……格好だけを見るのならば。
突き当たりから緩やかな水音がする。待っているのは小川か、水路か。
(タイル貼りの道路が見える。水路も整備されてる。流れに従えば、大勢、人が居るかも)
ナギサは、彼の場違いさを諒解した。男に変な気を起こさせる必要はない。早く姿を消すべきは自分だ——。彼はローブのフードで表情を隠した。男の品定めの視線がフードを貫く。それでも立ち止まってはならないと知っている。見向きもせずに通り過ぎることが最良の拒絶だ、と思った。正解だ。男は不機嫌さを顕にしたが、凄然とナギサを見送った。
水路にたどり着く前に視線は消えた。
……タイルを踏んでからは下流を目指した。道と同じ幅を持つ水路が地面の一階層下を流れ、建物と建物を遠ざける。陽光が水路に鳥影を泳がせ、反射光が道を照らす。不安定に ぱたぱた と鳴るタイルは、ナギサに足首の柔軟さを意識させた。感覚が咲く感覚。ものの輪郭がはっきりと浮く。彼は、視界の真ん中に居座るぼやけた面積の大きさに驚いた。
「鼻が、いつもより長い……」
改めて、別人の体に閉じ込められたことを意識させられた。ウールの銀髪、水銀の血、滑石の指先。細部まで留めた〈ナギサの記憶〉だけが、部屋で本を読んでいた彼の残り香。彼は、突然ナギサの役を外され、エリスの台本を渡された。
「来世って途中から始まることもあるのかな」
それとも——映画の巧妙な舞台装置、中世の町並みを残す西洋の村々、特殊メイク術の粋を尽くした、誰かの酔狂な悪ふざけに巻き込まれたのか? いつか戻してくれるのか。
陽光は白い部屋の恐怖を覆い隠し、ナギサを僅かながら楽観的にする。彼は建物とタイルの境界線をなぞって歩き続けた。前方、建物の隙間には水路をまたぐ短いアーチ橋と頻繁な人の往来が見える。やっと何がしかの話を聞ける——期待を抱いて彼は駆け出し
「――ッ!」
世界が、灰色と朱色だけになった。
渦巻く火の粉が水路を濁ったオレンジに染めた。横道から打ち付ける建物の破片、黒煙、赤い光、こうもり傘を抱えた中年男性がナギサの足を止めた。ナギサはなんとか衝撃に耐え水路への転落は免れた。が、傘の男は水路に沈み、激しく白い泡を吹く。アーチ橋から黒煙の昇る路地を指差し、逃げ出す様子が見える。そして、横道の黒煙の中には、骨に直接肌を貼り付けたシルエットの男が立っている。彼が握るしなやかな炎の曲線が、暗い通路を克明に照らしている。快く道を教えてくれるような人じゃない——その印象を裏付けるように、男は突然の目撃者にむけて煙幕より鞭を大きく振り上げた。
動作を見るより早く、ナギサは全速力で逃げ出していた。論理的思考などない。飲まれそうな恐怖に本能で逃げた。背中越しに轟音と熱とが伝わり、焼けこげた匂いが鼻をつく。彼はそれでも勢いを殺さず、路地からの脱出だけを目指した。
アーチ橋を目前に、スプーンの背のように磨かれたヘルメットの男たちが並ぶ。警官や軍人らしい制服、厳格な出で立ち。
(助かった、誰かが騒ぎを聞きつけて呼んでくれたんだ!)
非常時に対し反射的に逃げることを選んだ体に感謝した。ナギサは迷わず男たちに駆け寄る。助けて、襲われたんだ——。必死で唱える。しかし、彼らはナギサの期待を裏切った。骨男の仲間などでは断じてない。彼らは追うもの追われるものだ、と振り返れば分かる。炎よりも格段のショックを与えられた理由は、ヘルメットに包まれた彼らの顔が……見間違えるはずがない、その頭は〈たてがみを押さえつけたライオン、しなやかな筋肉の巨躯を持つ馬〉といった、獣の特徴を堂々と示していたからだ! 太陽は彼らの顔を明るませた。
血管が縮み、酸素と体温が失われる。これは、底のない恐怖だ。ナギサは速度を増して制服男たちに向かった。制服男たちは明らかに後ろの骨男を指差しているし、後ろは後ろで、焦げた傘男を置いて細路地を逃走している。青年はすでに、彼らの揉め事の外にいる。しかしナギサは冷静ではなかった。彼が抱えられる感情の限度はとうに超えていた。二足歩行の猛獣を勢いのままはね退け、逃げる集団に体を捩じ込む。なにを目指しているのか、ここはどこか。拒絶しても風景が目に入る。目の前に現れるものを必死で払い、痺れても足は止められない。こんな世界を、正面から見たいと思えない。
誰かを突き飛ばした。
それは、ペンキの文字がぐるぐる切り替わる看板にサンドウィッチされた犬頭の大男、小学校低学年くらいで丸い体の老猿、荷台に乗せられたキャベツを前に叫ぶ、ナギサを片手で投げ飛ばせそうな女性。
景色に耐えられず、ナギサは逃げ続ける。
大通りの中央、馬車の群れのなか〈あるべき姿〉の馬が行く場所。御者たちは誰もが指揮棒を振ることによって、牽引される馬車の幌を操る。道脇の荷車の持ち主は、拍手だけで荷台に露店を咲かせる。ナギサにぶつかった狐頭はバランスを崩し、甲高い奇声をあげながら、跨がる箒と共に秩序なく打ち上がる。地面に影を落としていたのは鳥だけではなかった。数えきれないほどの箒、それに跨がる人々。……いくつもの、輪に通された飛行船の大船団!
どれもが知らない。誰もが恐ろしい。周囲を見るたびに震えが大きくなった。恐怖! 底なしの恐怖だ! どうしてこんな目に遭っているのか、彼には、答えがまるで分からなかった。
世界はナギサの心臓を、孤独と恐怖で突き刺した。
ナギサは馬車の前に飛び出した。馬のわななき、御者の罵声、客の悲鳴。彼はそんなことに構わず、視界をふさぐ涙を片方ずつぬぐいながら走り続ける。道がどこまで伸びているのか、分からない。それでも大通りの真ん中を掻き分ける。いよいよ、彼は自分が何を考えているのかさえ受け止められなくなった。
(もう嫌だ、帰りたい、もう嫌だ!)
知らない街が、ナギサを囲んで嬲る。
走り続けた脚は終にもつれ、草むらに身を投げ出した。どこで切ったか、割れた右手の甲が血で濡れているらしい。背中がひどく痛み、空気は肌を引き裂くように寒いというのに、ねっとりした暑さに支配されている。幸か不幸か、気づけば誰も周りに居らず……声が遠い。誰にも見られたくない。ナギサはピクリとも体を揺らさず目を閉じる。疲れ果て、とろんとした思考に、この世界で最初に見た人の顔が浮かぶ。金具をポケットに詰め込んでいた彼の目には、わずかな不幸と、人並みの欲望と、重い不満が湛えられていた。彼のボロボロのジャケットは、あの湿った裏路地によく似ていた。
(起き上がりたくない。きっと……あの裏路地のようなひどい格好だ。いまの僕だったら、あの人だって吸い込まれそうな、残酷な視線を向けたりはしないだろう)
動物頭、骨男、金具を拾う姿。彼らの記憶を反芻し、やがて、ナギサの意識は消えた。
描き始めました。拙い文章ですが、どうぞ良しなにお願いします。