第五幕:ビアトリクス南東の転移魔法 二
ナギサは地区の名前を知らなかった。が、下流では比較的汚くない街並みだ、と感じた。
墓地の周辺は、霧の季節に入って一等静かだ。不気味な静寂の空気が、ナギサには不審者からの身の安全を保証する〈おまじない〉に感じられた。〈論理的な魔法〉と異なり、確証はないから〈おまじない〉。前世で〈魔法〉と呼ぶ呪術的、神秘的な行いを、異世界で〈魔法〉と呼ぶのは不適格だ。が〈神業〉では、あまりに大袈裟だった。
「馴染みの食べ物のある食堂が見つかる……おまじない」
ナギサは脇を締め、澄んだ拍手をひとつ鳴らした。……否定しない、そして馴染みもない沢山の清いものに願い事をする格好の、真似事。形だけでは怒られるだろうか? 形だけでも前世の雰囲気に近ければ、前世の食べ物を見つけられる気がしたのだ。
しかし、霧の通りに見つけた人混みは、食事処ではなかった。
「追い返した! 治療は!」「おい、包帯足りないぞ」「いま冷やしてる、要らん!」「ただ一匹だが、こんなところにまで……」「周縁部からは、比較的離れた場所なのにな……」
普段の路地では売り買いをする両方の側のヒトが、ひと所に集まり、護衛士の、悪魔祓いの制服を着た男を手当てしていた。腕の火傷に苦しむ男の、悪魔、と呟いた単語が含む憎々しさが、ナギサにも聞こえた。
上流ではまるで聞かない悪魔の出没が、下流の住人の生活を蝕んでいた。
「あの歪んだ怪物、悪魔。この世界のヒトでも、恐ろしいって思うんだ——」
「ナギサ! おーい、ナギサ!」
霧の中から駆け寄って来たのは、聞き覚えのある声だった。
「君ってやつは、神出鬼没だね、アーサー? 悪魔の出た街にその様子は、仕事ではない?」
三つボタンスーツ姿のアーサーが、女性を連れて居た。彼より頭ひとつ背が高く、筋肉の発達したプーカの特徴。彼はその女性の手を引き〈ブランドン〉という名前を紹介した。ナギサには名前の語感が雄々しく響き、実際、黄色いレンズの眼鏡とズボンの格好は遠目に男らしい印象を与えた。不快に思わせる可能性を知っていたから、わざわざ印象を口に出すことはせずに、初学者が習う自己紹介で、彼は頭を下げた。
「お会いできて嬉しいです、ブランドン。デートの日に、災難ですね」
怪我人は運ばれ、集まりは解消されていく。
「違う、仕事だよ。彼女は交易カンパニー入り希望なんで、俺が仕事の紹介を……」
熱心なことに、休日返上の仕事紹介だと言った。下流に宿を借りたブランドンの希望で、下流地域で悪魔祓いの仕事を見せた帰り、偶然別の悪魔出現の報せを受け、駆けつけたらしい。
「同僚は大怪我で済んで、援護も終わり。丁度良い。ブランドン、こいつが友達に会話を教えて貰ってる……なんて言ったらいいかな。記憶喪失の……いや、言語喪失……。……な?」
「『な?』じゃないよ、名前を伝えてくれ。改めまして、ナギサです」
ブランドンはナギサの会釈に応え、右手を差し出した。彼女の手は、ノエルとはまた違った理由で筋張っていた。両掌の指の付け根が木肌のコブに似ている、ものを握るための形だ。
「君がナギサ。噂は聞いているよ。名前も、魔法を失くした者も珍しいからね」
随分と遠慮のない、持っている性質の多くに勢いを感じさせる強い女性。ナギサからブランドンへの第一印象だ。記憶と魔法と色を失って目覚めたこと、アーサーの魔法で酔ったことを話して聞かせた。
ブランドンはナギサの、記憶喪失についても悪魔の出現についても、表面上どこか呑気に振る舞う様子を見、柔い語調で「短い期間で治ることを祈るよ」と頷き、エルシア教徒の〈セクトを切る〉行為をした。そして彼女はおもむろに「チャールズ・スクエア」と呟いた。アーサーが「コナーの話の続きか?」と尋ねると、彼女はまた、肯定の意味で頷いた。
「あの地区の噂を耳にした。ヨリアが『フットマン』だかを勤め始めた家があるのだとか。教会で噂をする、老齢のご婦人を見かけたよ。幸運なヨリアさ、会ってみたいものだ」
「そりゃ珍しい。タンジーか市場以外でヨリアが見られるなんてな」
周囲を見渡すアーサーは、通行人にヨリアがいないことを確かめたのだ。
「あれを気に掛けるブランドンも珍しいがな。どれほど仕事が続くだろうかね」
ナギサは会話を黙って聴きながら、コナー邸の使用人のように卒なく仕事をこなす姿を、話題のフットマンと同じヨリア・シー族のノエルに重ね、器用さに関心するばかりだった。
(フットマン。男のヨリアも、どこかの家に働いているんだ。知らなかった)
「……おや、ナギサは意外でなかったようだね。知り合いにヨリアのフットマンが?」
「え? いえ、知り合いの使用人って、ノエルってメイドだけなので。彼女も魔法が得意ですけど、でもそれは……使用人になる条件だ、とばかり思っていました」
「そうか」
ブランドンは、期待が外れたと肩を落とした。彼女は力の抜けた眼差しで青年ふたりを見比べ、やはり女性には珍しい、真鍮の懐中時計を取り出して時間を確かめた。
「三時になる。私は、ここでカンパニーに戻ろうと思うのだがどうだろう。アーサーも友人と会ったのだからな。月に数回の貴重な休日を、仕事関係ですべて潰したくはないだろう?」
「お気遣い感謝するよ。でも、貴女はどうやって帰るつもりかな?」
「君より魔法ができる、と忘れてもらっては困る」
ブランドンは杖から眩い燐光を放った。飛行タクシーを呼ぶ、生活のための魔法だ。軌跡を辿り、小型羽ばたき機が翼と銀色の環を唸らせて下降する。些細な魔法だ。前世で、タクシーを呼ぶ動作の流れと変わらないような。それを、彼女は当たり前に使用した。
「なに、伊達に魔術を鍛えていないよ。遥か上空でさえ、信号を届けよう。ふたりこそ、移動の足が必要ではないのかい? よろしければ、もう一台呼ぶが」
「いんや」
アーサーは追加の足を断った。
「霧が好きなんだ。それに、ナギサの家は近いはずだしさ。……運賃は、カンパニーに俺の名前で請求してくれて構わない。気をつけて」
「そうか。アーサー、また明日、本部で会おう。霧の日の移動はくれぐれも気をつけたまえ」
塗装の剥げた扉を閉め、羽ばたき機は数秒で霧に消えた。
ナギサは、操縦士たちが視界ゼロの霧の街に飛行船を浮かべることを、不思議に思った。普段、道を埋める街の馬車は運行を止めた。それとも、高所をものともしない豪胆な空の魔法使いは、恐怖を楽しんでこそ航行、とでも思っているのだろうか?
アーサーは、見えない羽ばたき機を眺めるナギサの、無言の問いに答えた。
「この時期、上空よりむしろ、風で冷えた地面が冷たいんだ。霧の都アヴァリスは、箒で上空から街を見下ろすと、雲に浮かぶ浮遊都市さ。垂直に移動するぶんには、衝突もない」
「へぇー」
ナギサは客人を通した南門に、鍵のない鎖を巻きつけた。門の鍵は朽ち果てていた。門の下に落ちていた赤い塊が鍵の役割を果たしていたのは、果たして何年前までだっただろう。
アーサーはその塊を蹴飛ばし、霧の向こうから、かつん、と音が返るのを聞いていた。
「……なぁ、ナギサ。ビアトリクス墓地の南東は『開かず』じゃないんだな」
「北西だって、いつでも門は開いてるよ。開かずって、初めて聞いたよ、そんなの」
「ずっと開いてるんじゃないぞ!」
彼はナギサの話が信じられない表情をした。
「ここは『開かずの墓地』って呼ばれてんだぜ。エリス今賢者殿が結界魔法を掛けたから、許可者以外を門は通さなくなったんだ。南東の鍵も、本当は腐っちゃいないはずだのにな」
北西部の門は毎日授業で出入りするナギサを、透明の門番のように送り迎えする。彼はそれを、羽ばたき機のような古いオートマタや、自動ドアを作る魔法だと思っていた。まさか、ヒトを寄せ付けないとは思いも寄らないことだ。
「確かに、墓地には僕以外誰も、入ってこない。散歩には良さそうだけど」
「悪魔とかの心配じゃねぇんだ? 安全な結界に引き篭って、呑気だぜまったく」
「うーん、魔法ひとつで、随分と便利にするものだ、と思う。けど、心配するなら、僕はむしろその結界のことだ。僕まで追い出しは、しないだろうか。僕は許可を得ていないのに」
得体の知れないものに対する信頼は、あまり、ナギサのなかには育たなかった。現在信頼している魔法の道具といえば、硬貨を実際に詰め込んだ炻器の貯金箱だけだ。羽ばたき機だの飛行船だのは、どうも落ちそうでいけない。箒などもっての外だ。
「仕組みっつっても、基本的には、呪文唱えて杖振りゃ魔法の効力は必ず出るんだがね」
「でも、僕は北西でヒトと出会った」
「じゃあ、効力も弱まったのか。お前がいなくとも、俺も入れたかもな」
北西部のエリスの墓前で、彼は何故ノエルと出会えたのか。エリスか、コナーか、どちらかの友人ならば、許可を与えられていそうなものだ。が、どちらとも知り合いでないノエルは、魔法が弾く対象に含まれるはずだった。
「……やっぱり、戸締りは必要だ」
ナギサはシーツを抱え直した。
「今日はさ、風に盗まれたこれを、追いかけて来たんだ。家の鍵を閉めてない、早いところ帰りたい」
「まぁ、お前が信用ならんのなら仕方ない。案内してよ。土産はココアバーしかないが」
アーサーが取り出した赤茶の延べ棒は、彼の言う通りココアの香りがした。すでに性質の予想はついたナギサが「なにそれ」と鼻を寄せると、アーサーは「噛んで、牛乳で飲み込む。腹のなかでココアになる」と言った。ココア粉末を圧縮した塊だ。
ナギサは「食ってみ」と渡された砕片の口溶けの悪さに閉口しながら、霧の細道を進んだ。
装飾過多でグロテスクな墓石たちは、アーサーの説明を得、ナギサに、再び信仰の世界を案内した。天使像はやはり天使像だった。地下墓地もやはり地下墓地だった。三百年前のアヴァリスの市民は、この美術様式に生まれ、装飾に包まれて死後を過ごした。ビアトリクス墓地はそういう墓だ。




