第五幕:ビアトリクス南東の転移魔法 一
買い物の度に増える小銭をどうするか。ナギサは名案を思い出した。日の終わり、容器に小銭を残らず注ぐ、それだけだ。満杯になった頃合いを見計らって、銀行で上級の貨幣に変えて貰えば都合が良い。財布は痩せ、小銭を持つが故の細かい買い物も、収まるだろう。
ナギサの今日の授業は、コナーの用事で急遽休みとなった。ナギサは玄関に佇むマハラルの人形を見て、コナーは師匠から仕事を頼まれたのだ、と察した。人形は、晩の飛行船と同じ竜の紋章を下げていた。重大な話に思えた。彼は内容をわざわざ尋ねる無粋なことはせず、話を変えるため「せっかくの暇だから買い物します」、と今朝の名案を聞かせた。
コナーは荷物が面倒でないように、と〈追従トランク〉を貸し出した。追従先をナギサにすると、それは勝手に買い物する彼を追う。荷物を預かろうと気を利かせた御者を、追跡の軌道から外したという理由で打ちのめした以外、非常に優秀な魔法具だった。
……エリスが度々訪れたその店は、彼が持つすべての食器を、同じ窯で焼き、同じ老旦那が売った。老旦那は「今賢者殿はご病気か」とナギサの銀髪を見つめ、得意客が記憶を失くしたと知って「手仕事の理解者は減る一方ですな」と落ち込んだ。
「今賢者殿は、若者には珍しく、装飾美術を愛しておいでだった」
「口当たりが優しいので、その……まだ、好んで使ってます。素焼きの……陶器?」
「炻器、と呼びます。記憶を失くされても興味がおありならば、嬉しいですな」
老旦那はナギサが貯金箱を探していると聞いて、店の奥に姿を消し、ペールブルー地に白のレリーフ飾り、手乗りサイズの〈豚の貯金箱〉を出した。「皿と同じ会社。容積を増す魔法が効いています、ひと月は困らないでしょう」。それは、ナギサの物欲を最大限刺激した。
五ヴィク、と老旦那は言った。金貨五枚。いまの生活費から推測するに、前世であれば一週間の旅行ができたり、日に一冊の文庫小説を買って三ヶ月は本が途切れない金額。……が
「買います!」
……あれほど〈エリスの〉と思った金貨を、ナギサは迷わず渡した。帰るなり椅子に体を預け、棚に置いた青い豚をうっとり眺めていた。どれだけ入るか気になり、手持ちの硬貨をすべて入れてみた。豚は、見かけの容積の四倍はある硬貨を残さず平らげた。彼は魔法の仕業に感動し、より一層うっとり豚を眺めた。——これは生涯手放さない、と誓った。
「凄い魔法、高価な仕事品。これは、良いものだ」
ふと外に視線を移すと、セクト型〈墓石〉が、最も高い位置を通り過ぎた太陽光を浴びていた。昼の庭園墓地。墓地の敷地に家があるのだから、当然の景色と言えば、確かにそうだ。
そもそも、この家が墓石なのだから。
偶然外壁に故人の名前を発見しなければ、ナギサは未だに朽ちた小屋と思っていただろう。
内装は華やか。淡い青の壁を、白い漆喰彫刻と肖像画が装飾し、様式を同じくする調度品が揃えられる。古典再評価期に利用され、そして三百年前に放棄されたビアトリクス墓地の、特にこの屋敷に合う調度品の数々を、エリスは好んで利用していたらしい。
「墓地に住むのは、罰当たりな気がする、けど」
自分の死体を跨がれて、墓の主人は怒らないか、祟るなどと言わないか。〈そういう〉文化圏ではないと分かっても、ナギサは不意に不安になった。そのたびに「ガス・水道を整備したのはエリスだ」と確認し、そして床下の主人に感謝し、生活を再開する。しかし元来生活に充分な二部屋と厨房は確保されていたわけで、三百年以上も床下に眠る主人は、よほどの来客好きで、自分の墓を訪れた人の休憩所とでもしたかったのだろうか、とも思った。
(まあ、僕はエリスに倣おう。感謝してます、だから、どうか夢枕に立たないで)
そしてナギサは今日も、炎だけでない、照明自体を反射するまで床を磨く。家としての墓地を最良の状態に保つことが、エリス宅の管理人の仕事、唯一の墓参り客、そして未練なく現世に戻るための準備になれば幸いだ。
「次は、家主のシャツも洗濯しないと……あっ」
最近どうも独り言が増えた自覚があった。
ナギサは、ビアトリクス墓地の南東部に立っていた。
豚を撫でていたときは快晴だったのに、墓地の雑木林には霧が立ち込めていた。アヴァリスの都は霧で有名だ。語られ方は「霧に浮かぶ街が幻想的だ」とか、「工場の乱立で肺がやられる」とか。夏終わりの今日の霧は、海から強風で運ばれる季節性のものだ。風が吹けば船を揺らし、霧が出れば手元を隠す。タヴァーンの労働者たちは「沖仲仕が飢える時期だ」と嘆いていた。秋の深まりにつれ気温も下がる。燃料を買えず凍死・餓死する者もでる。が、ナギサはそれらを、どこか小説の話のように感じていた。
ともあれ、霧と強風は共に発生するのだ。
ナギサは洗濯したばかりの真白いシーツが、霧に包まれ、風に煽られ、豪快に飛ばされて南に逃げたのを見ることになってしまった。「雨の匂いがするのに……」。残りを部屋干ししてシーツを追う必要があるとは!
ビアトリクス墓地には石と鉄の囲いがある。だからナギサは、コナーに案内された正方形の敷地が墓地のすべてだと思っていた。実際は北西・南東の正方形ふたつに分かれ、外周より新しい門で北西部と区切られた南東部は、つまりエリスの土地ではない。
シーツは南東の墓石を覆っていた。
白い衣のセクトが手足を広げた人型に見えたので、ナギサはそれを、見たこともないレイスに見間違えた。墓場に幽霊。印象が先立った恐怖は、正体がシーツと分かると消え失せた。
「ああ! 逃げるわ持ち主を驚かせるわ……反抗的なシーツだ、まったく」
南東部にセクト型墓石は少なく、エリスの家に近い、当時の生活を思わせる造形が目立った。故人の胸像、天使(?)像、屋敷、地下墓地……。
ナギサは教会に行かない。街の人々が礼拝に向かう風景を、彼は家族の影響から突き放して見はしない。と言って、馴染むこともない。その意味で、異世界の宗教が見えないエリスの家は、安心感があった。畢竟彼が持てる視線は、〈異邦人〉〈観光客〉のそれなのだ。
「……せっかく、初めて歩く場所だ。廃墓地だって聞いている。霧は濃い。人が居る様子はない。ゆっくり散歩して、雨が降れば帰る。今日は元からその予定。そうだったと考えよう」
墓地の囲いに設けられた門を含む建築の部屋こそ、管理小屋であるはずだ。石造りに縦長の小窓は、きっと三百年前の生活様式を残している。墓地の外と比べれば、アヴァリスは、否、セントラス地域の文化は、長い時間で様変わりしたのだ、と感じさせるものがある。
現在に生きるヒトは、酒場の酒、下世話な噂話、神秘的な過去の気配を忍ばせる神話、歴史的事件を共有する。過去と現在を比べることで「自分は〈現在の〉アルトランド人だ」と知る。
そう考えたとき、ナギサは自分をどこに置けば良いのか分からなくなった。「別世界の東の端の国に住んでいた」を理解できるヒトはいない。「アルトランド人なんです」と名乗れるほど、風土に馴染んでもいない。
(……こう寂しくなるとき、故郷のものが食べたくなるのかな)
好きな料理ではない。自己を育てた地域のものが良い気がした。それが、一等感動できる、と思ったのだ。ナギサは、南東部の石畳を進み、墓地の敷地から下流地域に出た。移民の多い地区が集合する下流なら、求める料理に似たものが、食べられるかも知れないと思った。シーツを抱えた異様な客を、黙って受け入れてくれる、とも。
炻器。日本では信楽焼が最も有名でしょう。「信楽」「炻器」の単語を聞いたことはなくとも、店先に立つタヌキの焼き物をご覧になったこと、誰しも一度はあるんじゃないでしょうか。
淡青地に白レリーフの豚は、ある陶磁器メーカーの看板シリーズそのものの拝借です。




