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第三幕:死に急ぎと悪魔祓い 三

 慣れない雑踏に疲労した脚が、ナギサを良くない判断に導いた。彼は街の大通りの一本さえろくすっぽ知らない。にも関わらず、おぼろげな方角だけで近道することに決めた。果たして、彼は、散々湿った小径を抜け、ようやく視界が開けたときには背中に密集した建物の群れの周縁。めでたく迷子となった。眼前には、もう収穫を終えた畑が地平線の向こうまで続いていた。


(まったく見当違いの場所だ。これは……きっと進みすぎた)


 遠く、荷馬車をカラカラ引く姿があった。雇い主の畑で採れたものを市場で捌き、街を縦断する運河下流の生魚処理場で積んだ魚と、金を交換して持って帰る、雇われの農業労働者。市場に並ぶ安い食べ物は、近隣で採れたものが多い。


 さて、ナギサは背の低い周縁部の建物の向こう側に、雑木林の、取り分け大きな林檎の老木を探した。その雑木林こそ、彼が倒れていた〈ビアトリクス墓地〉。エリスの家は墓地の雑木林のなかに、ぽつねんと佇み紛れていた。


 しかしどうしたものか、ナギサが、太陽が半分隠れるまで探しても、木の一本さえ発見できなかった。諦めて戻ろうとするも、周縁部の建物はどれも建築途中だったり、進行形で朽ちているボロばかり。この場所に、ヒトは住んでいるのか? これは、家の機能を維持しているのだろうか? これでは、どの隙間を選べば近道を試みた大通りへ戻るのか、検討もつかなかった。


(しまった、本格的に迷子だ)


 ナギサはいよいよ、神か仏か異世界の創造主かに運を任せ、意を決して未開の地区に入ろうと一歩路地に踏み込み——止めた。


 視界の端、まだ収穫を終えていないらしい巨大な葉が土を隠す畑に、蠢く太ったシルエットが動いているのが見えた。振り向くと、葉の影に誰か屈んでいた。


 ナギサは、農夫らしき彼に大通りに至る道を尋ねた。どれほど孤独を綺麗に忘れたことか!


「すみません、すみません! 道を教えていただけますか!」


 ナギサは、畑で腰を丸めたシルエットに手を振り近づいた。


 ……ギラつく歯が見えた。


 建物から長く伸びる影の中に身を屈めて顔は判然としなかった。が、距離が詰まるにつれて、その手に握られている大きな包丁と、刃にこびり付く黒い点がはっきりとした。ナギサはその者が自分に正対し包丁を突き出す様を見た。野生動物の威嚇の如きそれは、彼に、炎の鞭と骨男が刻んだ恐怖を思い出させた。


「あの……道を、教えて……いただけます、か?」


 ナギサは、数歩あとずさった。


 腹をぶよぶよ揺らしながら、その者は影から出た。緩んだ体、土と油にまみれてひしゃげた豚の頭部。着ているものは雑巾の一歩手前。市場や道路で見かけたどの布切れより汚い。……その者は群れを成していた。葉をかき分け、その者に似た姿が、さらに三人もナギサの前に現れた。ひとりは、巨大な葉野菜を握っていた。その者らが夕日を浴びてナギサに誇示する姿は、ヒトのようでありながら、放つオーラは、まったくヒトと異なるものだ。


「——怪物」


 包丁の持ち手が、その者らの肌と強く擦れる音がした。


「ゴアアアアアアァッ!」


 先頭の者がけたたましい咆哮を上げ、包丁を高く掲げた! 陽光を鋭く反射させた包丁は、しかし、陽光のオレンジではない、視神経を焼くような銀色の粒子を放った。包丁はその者の手を離れ空中に浮かんだ。ナギサの胸の中心に切っ先を定めると、まっすぐな線を精密になぞって加速——


 潰れた豚が吠え、鋭い切っ先は、スローモーションでナギサの心臓を捉えた。


(包丁が空を滑る。残り、二メートル、一メートル……)


『聖域の鐘を叩け——魔法(ぜつ)!』


 命令を叫ぶ声が響きわたる。ナギサの知らないなにか、に向けた命令、あるいは以来を。

ナギサの視界は青に染まり、青は途端に体を重く感じさせた。気づけば彼は、胸に切っ先数ミリを埋めた包丁を置き去りにして、立っていた位置から大きく横に吹き飛んだ。視界が猛スピードでスライドし、受け身も取れずに、彼は畑の上を茶色い塊になりながら跳ね回った。


「フランク! もう悪魔だけだ、構わず飛ばせッ!」


 叫んだ魔法使いは、隣で構えていた女性に指示をすると、次の瞬間には転がるナギサを脇に拾い上げ、一本の路地めがけて止まることなく駆けた。


 降り注ぐ土砂の雨の中、魔法使いはナギサを抱えて駆け抜けた。怪物が立つ地面を、燐光に照る石の塔が空へ打ち上げたのだ。青年は、いまのナギサと同じほどの歳に見えた。さほど変わらないはずの重さを、彼は軽々抱えて路地に飛び込み、それを少し固い道に投げ捨てた。


 またもナギサは受け身が取れず、粗末な薄板の家に鼻から突っ込んだ。……と思えば、胸ぐらを掴まれ、仰向けにされた。彼は頭を振り過ぎて、脳が狂ったようにさえ感じた。


「お前! なんで魔法を打たないんだ! 街から離れてもない! 『舌』ひとつ唱えれば、あの数の下級悪魔なら一瞬でも怯ませて、逃げられる可能性も出ただろうさ!」


「使えない! 僕は魔法の使い方を知らないし、杖の振り方だって知りはしない。僕は魔法使いじゃないんだ!」


 訳も分からず突然怒鳴られ、ナギサはキッと言い返した。鼻血が噴き出て、ジャケットに赤黒い染みを作ってしまった。服を汚してばかりだ。怒りによって、怪我や血汚れの原因を目前の青年に擦りつけたくなった、ぶれた苛立ちの感情を抱いた。それが、弱い彼自身の精神を自覚するようで、より一層ナギサに腹立たしさを感じさせた。


 青年は眉間に寄せた皺を解かずに怒鳴った。


「『魔法使いじゃない』だと! 資産家の坊ちゃんだって見りゃ分かる! 高尚なご教育をお受けになられました貴族様なら、頼らず、自分で魔法を使って追い返せ馬鹿が! 不用意に悪魔の巣に寄りやがって……乳母に抱かれてた頃からやり直せッ、腑抜け野郎!」


 ナギサは、怒号を理不尽なものと受け止めた。市場で抱えた、魔法への、魔法使いたちへの憤懣が、腹の底から引きずり出され具体化するのを感じた。憤懣が湧くほど、青年に向けた怒りに変わっていった。——君は、なにも知らない癖に。


「仕方ないだろッ! 使えないものは使えないんだ! 魔法も街も、自分のことも知っちゃいない。この見た目でお釣りも数えられない。知識の活用もできやしない! 誰も彼も当たり前みたいに……良かったな、君は幸運だ! 誰でも使える魔法がみんなと同じように使えて! 僕は世界で一番の出来損ないだ! 放っとけよ! 勝手にくたばってやる! 黙って失せろ!」


 ナギサは目を腫らし、胸中に秘めた泥を吐いた。青年は悪くない。ナギサは、魔法使い全員に、魔法のある世界すべてに噛み付きたかった。青年は最後のスイッチを押しただけだ。


 青年は、あまりにも意外なナギサの叫びに戸惑った。黙ってなにかを考え込んだ。そこへ、フランクと呼ばれた女性が、土埃に汚した槍を担いで歩いてきた。


「山羊の下級悪魔は別の巣まで飛ばしたよ、アーサー。あとは縄張りなりミュスト結晶なり争って勝手に潰しあって……ねぇこの子、なんで顔を真っ赤に腫らしてるの?」


 フランクはこの青年アーサーがナギサを担いでいる間に畑で魔法を放ち、山羊の悪魔と呼ぶ襲撃者を吹き飛ばした。彼らは同じ金属の当て物がされた丸い付け襟の服を着て、同じ槍を持っている。カバーで守られた刃は雪の結晶の形——セクトを模していた。


「杖持ってんだから身を守れって言ったら、魔法が使えないってんだよ。滅多にないぜ、そんなのはさ。だから本当かって。いや『無振動症』の存在は知ってっけどさ、あれは生きてる内にひとり現れるかって奇病じゃんか。まさか同時に……ってな」


「どうだろうね。アーサー、この子に『補給魔法』を使えば良い。魔法が使えない……ってことはつまりミュストがないんでしょ? 満杯がつまり空っぽだって言うなら、補給もなにもない」


「ミュストがなきゃ、死体か、空っぽの人形だぜ」


 フランクと呼ばれた女性は槍を構え、石突きをナギサへ向けた。……アーサーは慣れた彼女の動作を制止すると「俺がやる」と言って槍を引き継ぎ、ナギサの額に軽く当てた。


「白いの、大人しくしろよ。お前のとは異質なミュストを注ぐ、しばらく胸がむかつくかも知れんがな、言い出したのはお前だ。文句は受け付けないぞ」


 ナギサはされるがままで、黙って柄に頭をくっ付けた。


『主に感謝し、力凪ぐ時の訪れるよう、調停者の声を聞く——魔力平衡』


 アーサーが呪文を唱えると、ナギサの頭蓋の中に、水が無理やり注ぎ込まれたような圧迫感が広がった。頭痛はない。が、嫌に力が抜けて、身体中の液体がいまにも外へ流れ出ようとする強烈な不快感が内臓を駆け抜けたのだ!


「うっ……うあぁ、げぇ……」


 胃を押しつぶす感覚に耐えきれず、ナギサは嘔吐した。アーサーは慌てて魔法を止めたが、それでも内蔵の収縮は治らない。次から次へと中身を吐き出し、ナギサは、終わりの見えない酸味と苦味と痛みに襲われた。


「フランク! 水だ、早く!」


「分かってる! 手当は私がやっておくから、アーサーは彼の髪一本もらって、この子の体自体のミュストを広げるんだ! ……驚いた、わずかの補給で『中毒』なんて」


 ふたりはナギサに楽な姿勢をとらせ、なにかの呪文を唱えて治療に当たった。名前を尋ねられたナギサは「ミュストを広げる」と聞き、掠れた声を絞り出すように「エリス」と名乗った。ナギサであるより、エリスである方が、コナーは分かりやすいだろうと思ったのだ。それを聞いた彼らは、魔法が使えない以上にまだ信じられないことがあるのか、と顔を見合わせた。


「エリス……。なぁ俺、確かに見覚えのある顔なんだよ。この、白いの」


「今賢者殿でしょ、この顔はどう見たって」


「まさかだぜ、フランク。こいつがエリスだと! だったら、低級悪魔の豚なんざ、問題にしないだろう。それに、髪色も肌もまるで違う。いやしかし、本当にエリスだってんなら、コナーが来てくれるぞ。街へ入ってから髪で……。駄目か、無振動だ。手紙だな」


 アーサーはバッグがはち切れんばかりの荷物を背負っていたが、そこに加えて、ボロ雑巾のようになっているナギサを軽々と担いだ。肩に洗濯物のように垂らされたナギサは、朦朧とした頭で彼らの会話を聞いていた。


「コ……、コナーさん、知り合い……?」


「あぁ知り合いだよ。最近、忘却の呪いにかかったかも知れん友人が……って聞いたんだがな、もしかしなくても、お前か」


「つ、杖は、ぶら下げてて……」


「そうだな、確かに街中では必要だ。……最速で手紙飛ばして、どうにかコナーに知らせてやるから、コナーに手当てなり、医者を呼びつけるなりして貰えるだろう。……本当に魔法が使えないなんて、驚いたぜ。しかも今賢者様がな」


「…………」


 すっかり夜だ。が、ガス灯のある通りには、馬車を待つ気配がちらほらあった。下流の街は寂れている——ビアトリクス墓地が下流にあるから知っている。だから、夜でも活発に馬車が走るのは意外だった。確かに、遅くまで働くヒト、夜こそ動くヒトもあろう、と思い直した。


 それらに混ざってアーサーは馬車を探し出し、フランクを見送った。


「アーサー、私は先に戻ってるよ。任務外の急な悪魔祓いも入ったし、汚れも落としたいし。そいつの面倒は任せた。上官へは私から事情を話しとくから」


「指示外の行動だぜ、絶対納得してくれねぇだろ。責任は俺が取るから、親父によろしく」


 フランクは、闇ばかりになりつつある中流域の大通りへ消えた。ナギサはふたりが離れていった車輪の音を聞いていたが、気持ち悪さと揺れる視界の主張があまりに強く、もはや周りの様子を知ることは困難だった。


 アーサーが下ろした荷物を枕にして、ナギサはしばらく歩道に寝ていた。


「……本当にありがとう、助けてくれて。具合の悪いことに、僕迷子だったんだ」


「あのエリスが迷子ね、未だに信じられねぇや。まったく、俺らが悪魔祓い帰りで良かったぜ、少しでも仕事が遅れてたら、なんも抵抗できずに本当に死んでたぜ」


「そうだろうね。その悪魔って、あの潰れた豚みたいな恐ろしいやつに、殺されていたろう。初めて見たよ、悪魔。……記憶がなくなったらしい頃からの初めてなんだけど」


「最近増えてるんだ、ああいった低級の悪魔。たまに街中にも出るから、引っ切りなしに仕事が入って、そりゃもう俺らは稼ぎどきよ、悲しいことにな。ほら、喋ってないで寝とけ。ミュスト中毒も、あの魔法程度だったら、寝てりゃ良くなる。二日酔いと同じさ」


「二日酔いはこんな感じか。お酒飲んだことないから、知らなかった……」


 いよいよ、視界の歪みが限界を超えて、ナギサは話しながら深い睡魔に飲み込まれた。やっと休んでいいのだ、という安堵感だけは、唯一心地よい感覚として、確かだった。


 ほどなくしてナギサは、慌てて駆け付けたコナーによって、彼の家に運ばれた。


 翌日、平日最後の忙しい昼。ナギサは吐き気と倦怠感に苦しめられ、教会の鐘が正午を告げるまで、ほとんど寝たきりで過ごした。窓の外から伝えられる、遠い街の空気感は相変わらず賑やかだった。


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