第三幕:死に急ぎと悪魔祓い 二
国があれば、どこかの都市は首都の機能を帯びる。アルトランドで言えば、古くから種々の特権を持ち、行政機能、貴族層の都市邸宅の集合地区、自立した市民階級の会議場、そして王の邸宅を有するアヴァリスが、首都の振る舞いをするのは、自然な流れだ。
マーロウ・チャーチ市場は、それら行政機能と高級区画が集まるシティ・オブ・セントエイル区の南西にあった。コナー曰く、アルゲン島連合王国下の世界中の物産が集まる場所。市場前の大路では、夜明けからすぐの時間帯、御輿の如き荷車、眠たげな目を擦りながら野菜をえっちらおっちら運ぶ子供、買い物客の列、日銭を稼ぐために何処からともなく現れる花売りが、いくらでも見られる。そして——
「市場前を空けろ! 潰されるぞ!」
「どけっ どけっ お前ら、俺の積荷を駄目にするんじゃねぇ!」
筋骨隆々の大男たちが、旗を振って通行人を追い払った。
街頭掃除の少年たちが「羽ばたき機!」と空を指差した。翼の付け根に銀の環をつけた妙な鉄塊が、羽ばたき音を撒き散らして広場に降りた。それは旧世代の航空機にも関わらず、未だアルトランドで(特に男衆から)根強い人気を誇り、上空の大船団に混ざっては、墜落して修理工を儲けさせる〈非常に優秀〉な機械だ。
ナギサは、数々の飛行船や馬車が、食品・生花を運び込む市場(肉や魚は別の市場がある)で買い物を済ませ、エリス宅へ帰る道すがら、露天商の縄張りで、日用品と安い魚を揃える計画を立てていた。太陽のいちばん高い時間は過ぎ、予想より混雑はしていない。が、それでも麦と蜜と乳の香りの市場は、週末のターミナル駅と見紛うヒトのうねりが確認できた。
すれ違う衣服の皺。カゴを埋める麦。杖を突いて体を支え、台を物色する。様々。生活している。彼らは無意識に忙しく、時間に流され生活を続ける。歩いて、食べて、寝る。
(買い物に手間取っている間に、気づけば市場の真ん中でぺしゃんこにされそう)
エリスの体を預かって数日。コナーに付いて買い物に出た日もあるが、ナギサは魔法のみならず、売買に対して拭いがたい苦手意識を持つに至った。というのも、金額の単位ときたら「ヴィク・レギス・ピグ・ディルティム」と統一されず、この順に高価なことも、また、どれ程のまとまりで交換可なのかも(レギスは二十進法、ピグは十二進法、ディルティムは四進法!)ややこしい。釣銭の出ない払い方を拒む店主たちが、なおさら問題をややこしくした。
ナギサは買い物の計算と増える小銭に、まごつき苛立ちしながら、どうにかカゴバッグの隙間を水の滴る野菜や、熟成された香りを放つチーズで埋めた。少しずつ体積を増す素敵な食材と花が、混雑に喘ぐ彼の救いだ。小銭が増え続ける巾着はいまや、立派な凶器だ。
市場の細い道の中央に、四角い箱が天に向けて聳える。それはよく見れば、ナギサの倍はありそうな大男が、さらにその男を隠す看板でサンドウィッチされているものだ。「自慢の全粒粉パン、焼きたて」と書かれた看板を、具合悪そうに下げた男の横には、確かにパン屋があった。
これはちょうど良い、とカゴを覗いたナギサが目にしたのは、〈青黒く立派なモサモサを生やした〉焼きたてパンだった。泣く泣く諦め、別のパン屋から冷めて硬いパンを買った。
「これ一ピグで足り……ない。なんとまぁ……。はい、ありがとうございます。…………?」
ナギサは買い物に、店員や買い物客たちからの視線が伴うことに気づいた。初めは盗みを警戒したものだと思った。が、そうではないことに気づいた。
(……こっそりと、観察されている)
この世界に来てから、猫頭だの馬頭だのに見慣れたとあって、ナギサは、彼の姿が白銀一色であることをまるで意識しなくなっていた。思い出した。磁器のような白い肌、絹の如き銀髪を揺らす彼は、目立つのだ、と。……ヒソヒソ「白いの」と指差す声が聞こえた。幸いなことに、珍しいものを見たという視線を向けても、すぐ買い物を再開する人々がほとんどだ。から、心情的にはだいぶ助かった。とは言え、居心地の悪さを感じたナギサは、食べ物で満ちたカゴバッグを大事に抱え、市場の出口へ向かった。逃げるように、だ。
通りがけ、花屋の店主が、乱れた商品を並べるために杖を振った。燐光を浴びた花束は、大きいものから小さいものまで、隙間なく整頓された。独りでに、触れられずに。その杖は、そこらに落ちていた枯れ枝を拾ったような、歪な形だ。
(あぁ、また。また、薄ら暗い、掴むと逃げる怖さ)
黒く粘っこく、胸につかえる感触。振り払うように、ナギサは歩幅を大きく広げた。
……マーロウ・チャーチ市場を出ても、買い物客はどこでだって見ることができた。
コナーから聞いていたように、いくつかの通りは、露天商たちによって随分狭められていた。様々な種類の食品屋、金物屋、安本屋、古着屋……。「なにもない、売ります」という、空き缶をひとつだけ置く店(後に物乞いだと知った)。店だけではない。どうやら、散見される人々の集まりは、楽器の演奏やバラッド歌い、兵隊のモノマネ、魔法を使った曲芸といった見世物の見物客だ。運河の下流に暮らす、日雇い労働者層の多いためか、露天商も見物客も、洒落てはいるが決して清潔とは言えなかった。皆、グレーや土色、擦れ汚れを念頭に置いた安い布の古着を着ていた。露天商の中に、ボロ服を引き取るカゴを持つ者があった。
ナギサは露店の商品から、理想の形態、理想の色合いのブリキジョウロを探す片手間に、人気のある見世物を見物した。バラッド歌いは、童話調に仕上げた物語を歌っていた。兵隊ごっこは背負った子供をなにかの代わりに、大袈裟な口上を叫んでみせた。口元で海模様に光る杖が、彼らの拡声器として振る舞った。が、人混みの歓声と喧騒が音の波を吸収し、ナギサにまでは、ハッキリと届かないのだ。彼は諦めて、次の人だかりへ移った。
突然、観衆を撥ね退けて、痩せた男が転がり出てきた。いや、それはヒトではなく、袋にゴミをつめた人形だ。人形は立ち上がり、観衆の中央で拳を構える男プーカを襲い——次の瞬間には人形の頭だけが、歩道の端まで吹き飛んだ。プーカは観衆の要求に応じ、鋭いパンチを人形の顔面に見舞った。観衆は割れんばかりの拍手を男に浴びせた。
人形は壊れる度に銀の液を散らし、体を再構成する。関節が合わさるたび、なかの砂埃が溢れる。塵芥を詰めたサンドバッグ人形。殴られる彼。彼が銀色の魔法を発動するほどに、拳骨で手を腫らすプーカは金を貰えるのだ。彼らは、観衆の望む通りに振舞っていた。
楽器弾きにしろ、喧嘩にしろ、観衆は様々な要求を叫んではお捻りを投げる。ナギサはそれらを観察するたび、どこからか突き刺さる白銀への好奇の目と、必ず使われている魔法に心臓を締め付けられた。居心地が悪くなり、観衆と押し合い圧し合いどうにか抜け出し、まだ見つからないジョウロを必死に求めた。通りから逃げたかった。
そしてナギサは、露天商ですらない、長い棒に商品をくくって練り歩く、金物修理の呼売り商人から、ようやくジョウロの理想形を購入できた。教わった古着商へ向かうことができるのだ。
(なんで、くさくさするのを止められないんだろう。早く……帰りたい)
重い荷物のせいで走れないのがもどかしかった。もっとも、走ったところで見知った家に帰るまでの時間が、果たして短縮されるかは定かではないが。
……渋い顔で向かったアイアトン・ヒル地区にある通りには、大人がふたりくらい簡単に入れそうな、巨大なカゴに布を山盛りにする古着屋があった。元から老猿に似た外見を、尚更歳を取らせたスプリガンの店である、とナギサはすぐに分かった。彼もまた露天商だ。が、数頭の馬と小型の飛行船を所有し、身なりも商品もそれなりに綺麗なものを揃えていた。他の露天商より数段上の暮らしぶりが窺えた。それは、ナギサを見たときの余裕のある視線からも分かることだ。
「買うのか、売るのか、どっちだ?」
「後ろにある、その襟の丸いシャツを下さい。十リギス程で足りますか?」
古着屋の店主は、釣り銭用の小銭が足らんのだがね、と言いながら、あの墓石のような雪の結晶モティーフのペンダントを取り出し、ナギサが差し出した紙幣を擦った。発された燐光に、彼は目を細めた。そして、容姿から想像できない速さで、紙幣を眼球数センチの距離まで寄せた。
「……本物じゃねぇか、こりゃ驚いた。白いの、お前のおかげで、どうやら俺はしばらく浴びるように酒が飲めるってもんだ。買う物の数や質によっちゃあ、馬車を補強できる」
店主は紙幣を仰々しく受け取り、すでに商売を切り上げた後に飲む酒樽に思いを馳せていた。
「そのペンダントは、なんですか?」
「白いの、『セクト』を知らねェのか。悠々自適な生活の坊ちゃんかと思ったが、あれか、植民時代の砂糖畑の息子とかだったか。セクトはこうやって身につけて神に祈るんだ」
「紙幣に当てていたのは、お祈りではないでしょ」
「贋金じゃねェか調べたのさ。セクトはどんな安物だろうと大抵魔法銀だ、ミュストで揺れ続けてる。異質な波は魔法で作った化けの皮をひん剥くのさ。これがあれば誰もズルしようとは思わんな。神様ありがとう! 今日も無事に売り上げを数えられる!」
古着商はまるで自分の研究発表のように、得意げに知識を披露しながら釣り銭を用意した。また魔法か、と思った。もう重々身にしみたことだ、この街は魔法で動いているのだ。マッチを擦って火を起こし、水を汲んで洗濯をする姿は滑稽に映るだろう。
「便利な魔法ですね。……お金の足りる範囲で、後ろのズボンが欲しいんですけど」
「俺の後ろは今朝入荷した『仕立屋の発注ミス』物だ。シャツでも外套でも靴でも、好きに見繕っていきな。ただ、このズボンは子供用だぞ、あんたが着るのか?」
「百年着古したような木綿のツナギは、どうしても勘弁願いたくて」
「…………?」
古着商が許す限りで、ナギサはほとんど新品のシャツや、粗いウールのジャケットを選べた。子供用ズボンは、なにも幼児に仮装しようなどと言った目的ではない。ズボンの下でも収まりが良い、喉から手が出るほど求めた〈下着〉に適する衣服だからだ。革のブーツもあり、ハンカチで幅を調節すれば問題なく履けた。
店主は「靴の手入れが必要だろう」と品出し中のまるまる太った女フォクシーにペトロラタムクリームを用意させた。これは、ナギサにとって嬉しいプレゼントだ。彼女によれば、そのクリームは肌の保護も可能だ、と言うのだから。
「この瓶のクリーム、美容品なんですか」
「万能じゃ無いよ、アタシみたいなフォクシーや、ケット・シーは毛が邪魔で! お客さん化粧するのかい? 色男だね。だったらこれもあげるよ、随分と買い物してくれたからね」
ナギサはさらに、カカオバターを混ぜてあるクリームまで手渡された。
店主は売った商品の一覧を作り、さらには大量の荷物を飛行線で送り届ける、と申し出た。
一瞬、小さく湧いた不快感から、断ろうかとも考えたナギサだったが、店主の「長く店を続ける秘訣」という言葉に甘え、また、限界までくたびれた足腰と、原因不明の苛立ちを天秤にかけた結果——帰り道で、荷物に潰されるのは御免こうむる、と店主を頼った。
(ようやく、買い物が終わった。あと数十分で、日没……)
ナギサは自宅に向けて飛び去る荷物を眺めながら、人酔いした足取りで古着屋を後にした。
……この世界も、陽光は西に消えていく。
コナーの紹介による買い物は、ナギサにとって慣れない〈街の普通の生活〉に身を置く訓練だった。パイントの量が分からず僅かな牛乳しか買えなかったり、小銭でポケットが破れそうになったりしたが、こう言った問題にまで馴染む練習が必要だった、と彼自身感じているのだ。




