第三幕:死に急ぎと悪魔祓い 一
午前の終わり、コナーは古めかしい革表紙の本を、目の覚める音で閉じて、頷いた。
「よし、よし。……ナギサ、私は不思議な体験をしているよ。もともと、少しでも話せる状態にはあったものの、こうも柔軟に飲み込むとは。本当に、新生児さながら。この分ならば、学者を集めた研究会の壇上で、話してみるのも面白い」
数回目となる会話の個人授業。祖母によって訓練されたナギサの耳目は、彼が、続く言葉を積む基礎となった。個人授業は彼を、祖父母の間に座って絵本を読んだ、小ぢんまりとしたマンションの一室に引き戻した。あの部屋には、真似た言葉を喜ぶ、間違った言葉の間違え方を考える、優しい聞き手がいた、と彼は覚えている。
授業は、ナギサにとって生命を賭けたものだ。熱の入れようは前世の勉強の比ではない。三ヶ月は厳しくとも、半年、一年と続けた時間が喉に積もる、寡黙な手応えを確信していた。そうだろう、確かに、何処に出ても一人前の話者として振る舞える予感がある。が——
(人前で! 勘弁願いたい。うっかり下手を洩らして、怪しまれるのは避けたい)
ナギサはコナーの提案に乗り気になれなかった。彼にとって授業は、ただ、ノエルたちとの世間話で、言葉に違和感を感じさせなければ目標は果たされる。徹頭徹尾正確な発音を再生する技能は、不特定多数の聴衆を沸かせるためではない、目前の友人のためだ。だから、彼は眉を寄せて言った。
「完璧な発音者に、間違われたいのでは、ないんです」
「そうだったな。久々に生徒を持ち、ひとり舞い上がってしまった。往古、聖典起源の時代、神の加護を受けた泥人形に人格は生まれ始まったのだよ。無意識に、神話に重ねてしまったのだ」
「僕は生きたヒトだのに。……僕はエリスの話し方を、最低限真似することで、コナーさんやノエルがなにも思わなければ良い。それが、目標なんです。……ありがとうございました、もうお昼ですから、コナーさんは、出かけるんでしょう?」
「ああ、用意をせねば。……そうだ、今日は運搬用水路の整備をするそうだから、帰るときは箒小屋を抜けて、馬車路地(彼はこれをミューズと呼んだ)から出なさい。それから、残念だが私が発話に無関心ではいられない! どこの町の生まれか、観察し続ける頭になってしまった。最早、職業病なのだよ」
「ねえ、ウェストコートもシャツも、大きなシワだらけだよ」
ミューズに出るなり、ナギサは呼び止められた。箒小屋の正面は、向かいの馬・箒小屋ではなく、生活のある平家。路地の空気感からずれた、不自然な空間。平家の窓は、火事と見紛うほどの湯気と熱を吐いていた。なかから、滝を浴びたように汗を流すノエルが顔を覗かせていた。腰の締めつけの緩い薄手のエプロンドレスを身に着け、裾を膝上で結んでいた。ブラウスの上から左肩を隠す、シーツを仕立て直したショールが垂れていた。
「ノエル……? その頭の、」
ナギサは早い再会に驚いた。彼女の新しい住居兼仕事場は、彼が思うより近い場所にあったのだ。しかし、それ以上に彼に衝撃を与えたのは、彼女の肩まで切られた亜麻色の髪、そしてヨリアの瞳を暈す、短いヴェールだったのだ。
「一瞬、誰かと。……髪、切ったんですか。腰まであったのに」
「最低限の生活費はないと、奥様に悪いから。来た翌日にはかつら用に売っちゃった。ドレスも古仕事着を直して。ヨリアだから、人目に触れる仕事はしないの。この格好が快適だよ」
道行く女性は、長い髪をヴォリュームたっぷりに結う。胸から尻まで、コルセットで締めつけている。活動的な流行女が短髪にする例を、ナギサは見たことがあった。が、全体の割合で言えば極少数な気がした。それに……ヨリアは一層身体的特徴を隠すべき。公然と容姿を披露すればたちまち非難の目で見られる、と外来者でも理解できたのだ。〈足首〉ですら、露出には相当の勇気が必要なはずだ。
彼女は視線に気づき、赤面して裾を解いた。
「そうしたら、暑いんじゃないんですか?」
「だ、だってナギサから見えるの、忘れてて……。ごめんね、仕事をくれた恩人に、私、なんてものを見せてるんだろ……。……あの、ありがとう、お礼が言いたかったの」
ノエルは部屋の中央で「ほら」と右手を真横に伸ばし、全身で、無事を示して見せた。スカートの裾が ふわ と空気で弾んだ。そうして、彼女は不意に真面目な顔をした。
「呼び止めたのは私だけど、本当はこんな格好の、女ヨリアの側に居ちゃ、ダメだよ? あなたに悪い噂が立つもの。私はこの服が合理的で気に入ってるけど。……だから、用事のときは、休みの日にこっそり来てね?」
彼女は人差し指を、秘密にして、と艶のある唇に当てた。
その仕草に頷いて応えようとして、ナギサは、ふと動作を止めた。彼女と会うのに毎度こそこそと隠れるのは、それが悪い性質だと周囲に証明してしまうようで、不愉快に思ったのだ。
「……僕は、後ろ指さされても構わない、です。ノエルは大切な友達だから、堂々と来ます。」
「変なの。どうなっても知らないよ?」
彼女は屈んでスカートの裾を持ち上げ、膝下でもう一度固く結んだ。そうして悪戯っぽく微笑んで結び目を整えると、窓から身を乗り出し、顔を ぐっ と近づけた。
「び……っくりした」
頭ひとつ分ほどの距離に近づいた。ナギサが驚いたときに体を固めてしまう性質でなければ、きっと彼は飛び退いただろう。——緊張と照れで浅くなった呼吸が、悟られないだろうか? 彼は、気取られないよう、伏し目がちにノエルを見た。
「ふふ、ごめんね。驚かせちゃった。……禁則を破るの、こういう気持ちなんだね。思うに、仕事場だけなら、きっとこの髪が大正解だよ。動きやすくて首元に風が当たるから、涼しくしていられるの。あんなのがあるし」
ノエルは部屋奥の鉄の窯を指差した。表面をアイロンが覆う。石炭を食べ、熱を吹く。彼女はロケットを指で弾いて鳴らした。音に反応した盥の水が回転し、洗濯板が服を擦り付ける。彼女は魔法駆動の、半自動洗濯機を作ってみせた。
……ロケットの金属音に、ナギサの背筋は緊張して伸びた。嫌な汗が首を伝った。初め、窯の熱かと勘違いした。が、すぐに暑さと怖さの区別がついた。緊張の原因は、炎の鞭を思わせるからだ。あの横路地を思い出す。ナギサは、ふい と背後の箒小屋を一瞥し、心を落ち着けた。
「…………。……てっきり馬・箒小屋の向かいも、馬小屋だとばかり。僕、ここに家があるの、知りませんでした。ノエルは、ここに住んでるんですね?」
「坂の地形だから、半地階にフラット(ここでは、大きい家の半地下のみを別の世帯の空間として切り分けている)を挟んでるみたい。奥様みたいな単身者向けの、階段のない家」
ノエルは窓からより身を乗り出し、横と背後に連続する家の並びを見た。ぐっ と距離が近づき、熱の伝わって顔の赤くなったナギサの、顔を見られずに安堵した表情に、ノエルは気づかず話を続けた。
「私が家事を任されているの。お掃除もお洗濯も。お料理だけは奥様がなさるけど」
「住み込み、ですか。……ノエルの右手、使用人の仕事、きっと大変なんですよね」
彼女の細い手は赤く、皮膚が剥がれた場所に、いくつか包帯が巻いてあった。小屋の中は湯を沸かしているし、服やシーツが山を連ねる。洗濯用の薬瓶が、窓からの光を部屋に広げる。
「そんな顔をしないの。大変じゃない仕事なんて、ないよ。……大丈夫。奥様は私にも優しく気遣って下さるから。無理にでも置いて頂いてるから、働かないと、ね。さあ! 続きをしないと怒られちゃう。ナギサのシャツ、襟の糊付けしましょうか? 糊代は頂きますけど」
「奥様に怒られますよ。それに僕、これから洋服と日用品の買い物に行くんです。アイロンも、もちろん用意するつもりなんですけど……洗濯糊ですか、盲点でした。襟は固めないと」
ナギサは、コナーからもらった買い物のメモを取り出し、洗濯糊を加えた。メモには、コナーが用意すべきだろう、と考えたものが並んでいる。どう使うのか想像もつかない道具は、斜線で消してしまったが。唯一彼が書き加えたのはジョウロだが、これは特に重要で、エリスの家にはシャワーが付いていなかったので、わざわざちょうど良い温度に沸かした湯を入れ、それを浴びる面倒のための道具が必要だった。エリスはどうしていたのか、とコナーに尋ねると「魔法で済む」と言われた。……特定の魔法の未習得者向けに、ある程度彼にとって馴染みの道具(例えば照明に使うマッチや燃料は良い例だろう)が売っている。しかし、それらはつまり、魔法の代わりにお金を使う、ということだ。
「困りました。僕は、随分と、生活費がかさみそうです」
ナギサが住み始めたのは〈魔法が大の得意な〉エリスの家であり、一方ナギサは魔法の一切合切が使えない。マハラルやコナーによれば、いま魔法を習得するのは無理な体質だ、という結論すら出ているので、これは諦めるしかなかった。
畢竟ナギサが生活に求めるすべては、〈動力から〉購入の必要がある。水、石炭……。エリスは慎ましく暮らせば一年は優に食べられる額を残したのだが、いつまで維持できるか。突然の大病など罹れば、保険加入などないのだから、たちまち、目も当てられない惨事となるだろう。
ノエルはロケットを手首に掛け、ナギサの目の前で揺らした。
「どうして、あなたは魔法が使えないんでしょうね? それに、魔法が使われるのを見て、怯えたようにするから。私が魔法を使おうとすると……ほら、目がちょっと怖い」
「……そんなに、怖がって見えますか。杖を振る様子は、もう毎日見ています。コナーさんもあの部屋にお勤めの使用人さんたちも、日常的に魔法を使っていますから」
「魔法に対してはもちろん。ただ、初めて会った夜より、もっと、なにか別のことを嫌がってるみたい。迷子みたいな、物を失くしたみたいな、そんな顔。……私は思い当たることがあって、喉元まで出かかってるんだけど。うーん、漠然として捉えどころがないなぁ」
「思い出したら、教えてください。お仕事の続き、するんでしょう?」
「え、……あっ! あああ、持ち手まで焼けちゃう——」
ナギサは部屋の奥でオレンジ色になったアイロンを指さした。彼女が大慌てでロケットを一振りすると、アイロンたちは一斉に適温まで熱を放出し、白シャツの上を滑り始める。
(……確かに、墓地で倒れていたときより、消毒してもらった朝より、いまの方が怖いかも知れない。襲われたときは、そりゃ別格だけど。……どうしてだろう?)
散々考えても、答えは出て来ない。
……切り立った丘の上に見える教会の鐘が正午を告げた。美しい、説得力のある教会だ、と感じさせられる。透明な鐘の音を合図に、街の人々は予定を組む。街の時間・空間の象徴なのだ。
本当はもっと早くに買い物に出かけるはずだった。ナギサは、ミューズに面した異質な家並みから立ち去り、市場へと急いだ。これから担いで家に運び込む生活用品の量を、憂鬱に思った。
路地裏の住宅事情は、果たして「Flat」で正しいのでしょうか。両隣の家と壁で連続しているため、「Terraced House」と呼べそうです。が、そもそも大きな屋敷を縦に切り分け、階層ごとにも分けたようなイメージでもって私は書き始めたのですから、やはり「Flat」なのかもしれません。
住宅事情も、異世界と日本とでは、大きく異なるはずなのです。




