第二幕:ノエルのおまじないと魔法世界生活の始まり 三
「…………」
ナギサは彼の我儘を自覚していた。が、世話にはなりたくなかったのだ。……明確に断る返事の形を、欲していた。性質の悪いこの沈黙こそ、彼らをやきもきさせているのだから。
「エリー、どうか私たちに、お前を助けさせてくれ……」
コナーは困惑の声で唸った。彼の願いは最もだ、と弟弟子の抜け殻は思った。
「記憶を戻し、魔法を戻さねば。一刻も早く……師匠!」
やり取りを静聴していたマハラルが、コナーの言葉を遮り、ナギサの前へ ずい と更に体を寄せたから、ナギサは、顔を埋める毛を揺らす巨匠に視界が埋まった。
「あい分かった、『ナギサ』よ。お前さんはナギサと呼ぶことにしよう」
「師匠?」
「コナー、彼は自らをそう定義しておる。硬い芯で。変えられぬよ。……お前さんが自分をナギサと信ずるならば、では、名を改めようじゃないか。新たな友人ナギサよ、よろしく頼むよ」
マハラルから広がる言葉の波は、巨匠が辿り着いた不動の確信を込めていた。深い強弱抑揚を聞かせる、有無を言わさぬ決定の声。低い波長に震える毛の ゆるり とした動き。ナギサは、二回目のナギサとして生きることを許された。
「ナギサよ、儂はお前さんがなにを思ってそんな憂鬱な顔を見せるか分かるがね。しかし、与えられた手札に満足することが肝心じゃ。どんな無理をしようと、いまのお前さんに魔法はなく、介助が必要な体を持つ。明白な事実じゃ」
苦るナギサ。温厚な巨匠は、駄駄を捏ねる幼児を宥める、柔らかな口調で彼を諭した。が、不器用な青年は、頷きはしても、不服なくしゃくしゃした心を動かそうとはしないのだ。マハラルは、彼の声を一等低く包容力のあるものにし、笑顔で寄った毛の陰影を一等深いものにした。
「ハハァ、どれほど『コナーの世話になれ』と聞かせても納得しない? ウム、エリスは長い留守のようじゃ……されば提案しよう。留守のエリスを『君が』助けておやりなさい。つまり、彼の家を管理するのじゃ。家は人が住まねば、実相を欠いた、悪い箱じゃ」
「師匠、そんな!」
提案に異を唱えたのはコナーだ。
「無茶です。魔法も使えず、昨夜からの話じゃ、街の情景も消え去っているんですよ! 杖を新調すれば魔法の調子も治る、という簡単な話ではない! 違う人として身分証明も——」
魔法を覚えず、身分の保証もない身とあれば、日常生活もままならない。ナギサも重々承知の話だ。コナーの主張は、弟弟子への最大級の心配によると、ナギサも分かった。どうしたと言うのだ、魔法がない生活の厳しい心象は変わらない。彼は、弱いが、覚悟を決めていた。
マハラルも毛むくじゃらの向こうで、心配するな、と微笑んでいるように思えた。
「最初の手助けだけはしよう。お前さんもこれは甘んじて受け取るのじゃぞ」
木製の人が、無言で、ナギサの膝に麻袋を乗せた。なかには数十枚の束になった紙切れ。多くの手を渡った匂い。どの紙にも「1REGIS」と印字されている。記憶に似たものがあった。ふくらんだジャケットの内ポケット、第二黄金比の紙と銀色の玉だ。ナギサはそれらを思い出し、テーブルの上に並べ、比べた。大きさといい横に長い形といい、エリスの箱から持ち出したものと同類のものだ。
「……! エリー、それをどこで——」
コナーが目を丸くする。
「これまた、マァマァ! 強い形態変化の魔法の跡じゃ!」
マハラルは束を、木製の人に突かせた。束は風船のように膨らみ、弾けた。束があった場所には「1VICHE」という文字に横顔図案の、紙束が現れた。皺ひとつない刷りたて。形状、図案、帯紙で留めた姿。説明されずとも、紙束の振る舞いは、それが紙幣であることを知らしめた。
「オヤオヤ、これは大変なことだ。エリスは面白い大問題を残して消えよった」
コナーはたいそう驚いた様子でたてがみをぐしゃぐしゃにした。紙の一枚をつまんで穴が空くほど眺め「どうしてこんなものを持っているのだ」と尋ねた。ナギサは、隠しても上手いこと話が運ぶものではないと思い、エリスが残した木箱から持ち去ったことを伝えた。
「彼が……僕が? 銀の玉と紙束を用意したみたいです。『残さずに持っていくこと』って言っていました。変な指示だと思いました。多分ですけど、この用途って……」
「お前さんの想像する仕様方法で、最上の価値の物じゃ。玉は〈魔法銀〉じゃ、魔法具の材料になる。儂に宛てたものじゃな。しかしこんな量の紙幣を隠しているとはねェ。……ヨシヨシ、儂が代わりに許そう。それを使って、エリスの家に住みなさい」
エリスの知り合いに預けるつもりで取り出したナギサは、面食らった。
「そんな! 僕のお金じゃないんですよ、そんな勝手に減らすなんて、」
「なァに、エリスの払う管理費や給金の類と思って受け取りなさい。それでも気が引けるのならば、本来働く立場ではないが、仕方ない。いずれ仕事を始め、それで生活するようになさい。それで返すならば気も晴れるじゃろう。エリスは居らず、それは間違いなくお前さんの給金じゃ。それに受け取らねば、独り暮らしは自殺に等しい。黙って選ばせることはできぬ」
ナギサはどう応えていいものかわからず、コナーに目配せした。彼は渋々の許可といった表情ではあるが、最終的には師匠の提案に賛同しているように見えた。コナーは魔法で自宅の鍵束を手元に呼び出し、内一本を外してナギサに渡したのだ。「エリス邸の鍵だ」と彼は言った。
「案内しよう。お前も知る場所だよ」
ナギサの我儘は、受け入れられた。
(自立だ)
資産を預かり、それを管理する立場となった。目下の急務は、魔法なしの独り暮らしを安定させることだ。……そしてナギサは、受けた恩を返すタイミングが来た、とも思った。
「僕の……じゃない、エリスの家に、ノエルの部屋を用意することは叶いませんか?」
この申し出は、ノエルにまで悲鳴をあげさせるほど、周囲を驚かせた。
宿代が用意できない、明日の宿も不透明だ。そう話すノエルを、ナギサはどうにか助けたかった。そしてコナーがしたように、部屋を数日でも使わせる、という方法に辿り着いた。悪い問題のある提案だっただろうか? ナギサは怯んだ。使用人まで、彼を驚嘆の視線で見つめたのだから。マハラルの目玉が覗くほどだった。
「イヤァ、それは! 多くの厳しい障害があると思うがね。そもそも、あの家は部屋を貸せる程大きいものではない。住めば納得するじゃろう、間取りからして不可能、と」
マハラルの答えにナギサは落胆した。さらには、ノエルも、そんな突然の申し出を受け取れるものではない、と手をぶんぶん横に振り、どうあっても提案を飲む気はないと構えた。
「私は出来ることをしただけで、それなのに一緒に住む部屋を用意するなんて! いえ、そもそも色々問題があって、だってあなた、ハウスキーパーを雇う感覚もないんでしょう。私、女で、ヨリアで! 安い宿の、平らな床があれば良いんだよ! どうしようもなくなったら感化院とか救貧院とかもあって……」
泥棒を企み安宿の床を取ろうとするノエルが「どうしようもない場合」として施設の名前を挙げ連ねるのだ。路地のガラクタ拾いの男も、救貧院を利用している様子はなかった。救貧院がどれだけ悲惨な場所か知れない。しかし、彼女はそれで良いと言い張り、提案を拒む。
ナギサは、どうすれば彼女を助ける方法の、正解が見つけられるか、逡巡した。
(ノエルを放って路地の彼見たくなっても……嫌だ)
……唸るナギサを見て、助け舟を出したのは、やはりマハラルだった。
「気になっていたのだがね、ヨリアのお嬢さん? 君の首飾りには見覚えがある」
ノエルはロケットを指にかけ、装飾をマハラルに見せた。
「これ、ですか? これは自分で作ったものです。……私、女ヨリアなんですよ。ご存知でしょう、ヨリアと取引する酔狂な工房なんて、滅多にあるものじゃないこと……」
「そうじゃな。イヤ、イヤ。儂が言いたいのは、ものそれ自体を見たのではなく、その首飾りの装飾法を知っている、と言うことじゃ。と、言うのも、それは儂の知り合いの技法、延いては儂自身の技法。……思い当たるかね?」
マハラルが話す〈知り合い〉について彼女はしばらく記憶を遡り、どうやらひとりの思いあたる者に辿り着いたらしい。「初めて仕事を教わった方から、作り方を教えて頂きました」。彼女はロケットを硬く握りしめた。ナギサの右手を保護する魔法を発した、糸の如く細い銀で編むロケット——彼女の技術が込められた魔法具を。
マハラルは毛むくじゃらを懐かしそうに揺らした。
「とすれば儂は、縁のある者をみすみす辛い場所に置いてやる、などと選択できるわけも無い。心配せんで良い。お前さんの住む場所、最上とは言えないじゃろう。しかし、下流に身をまかせるより良い結果を生む場所に、心当たりがある。正確には儂ではなくコナーがな」
使用人から外套を受け取りながら、コナーはノエルに向き合った。
「先生の言う心当たり、とはこの区画に住むご婦人のところだ。家庭教師をしていた教養人の女性で、私も世話になった。少々気難しいところもあるが悪い方じゃない。しかし……」
獅子の額に皺を寄せ、彼は一呼吸置いた。
「……彼女は若い頃に、旦那を亡くしているんだ。君に、説明は要るまいね?」
「…………」
ナギサは、ノエルが何故悲しそうに俯くのか分からなかった。もしや彼女は、安宿・救貧院を転々とする不安定な暮らしを選んだのか、と気を揉んだ。しかし果たして彼女は、マハラルやコナーの提案を受け入れたようだった。
「お話、聞いて頂けるでしょうか」
「私から頼めば、理由を聞かず断ることはしないだろう。それに、ヨリアの立場も知りたい、と話す聡明な女性だ。エリーを治療したことを話せば、快く部屋を貰えるかも分からん。急な訪問で彼女には悪いが、外套も手元にあるのだから、エリー、じゃなかった、ナギサ……は師匠に任せて頼みを入れようか」
彼が従者たちとノエルを連れて出ていった様子を見て、ナギサは一安心した。
部屋には、ナギサとマハラルが取り残された。
ナギサは緊張から、ずっと拳に力を込め続けていた。拳をマハラルが解かせたときには、掌に爪跡が深々残っていた。ナギサは表面上、充分に取り乱していたが、精神的にはより一層荒れ模様だった。昨日今日で、一生分の涙を流した気がした。おっけ晴れて泣き喚く経験は、幼児期ですら果たしてあっただろうか、と。彼は前世を思い返し、自分は結構我慢強い性質を持っていたのだと驚いた。だのに、いちど感情の堰が外れたら、数え切れないほどの涙の原因が勢あって雪崩れ、目は充血し、ほほは擦りすぎて赤く腫れた。
マハラルはそんなナギサを暖炉前に案内した。彼が傍の木製の人をコツコツと叩くと、その木製の人は銀色の粒子を発し、カバンの中の乱れた杖に手も触れず、整列させた。
「ナギサよ、人形は初めて見るかね?」
マハラルは〈人形〉を小突いて鳴らした。空洞の音だ。
木製の自動人形はカバンを抱え、くるりと背中を向けた。木肌や節がそのままの無骨な人形が去る。木の足を、木の階段にゴツゴツと響かせて降りて行く。ナギサはその様子を、暖炉の熱で緊張が和らいだ目で観察していた。
「あれは、マハラルさんの、助手、ではないんですね。人形なら……やっぱり木製で、生きていないんだ。なんか、関節に物が挟まった動きですから」
「あの人形はな。服がなければ簡単に判別できる。人形は接合部だらけじゃからな。生体に付けるか自律させるかの違いで、機能は義体と似通っておる。……しかし人形は儂の助手じゃ。不自然で硬い動作じゃろう。お前さんも同じ。どうも話しづらそうに構え、肩に力がこもったまま。糸で吊るされた演者の劇を見ている気分じゃよ。お前さんは『生きてはおらん』のじゃ」
マハラルは、杖を使わず、マッチを擦って火を起こした。火種らしい火種を、暖炉に投げ込む動作は、魔法の世界から浮いていた。薬の塗られていない持ち手は、すぐに黒くなった。
ナギサは役割を終え、早々に黒い炭になった木の棒を じっ と見つめた。
「儂は杖職人にも拘らず杖が苦手でな。じゃからマッチや炭といったものを気に入って用いる。杖も持ち歩くがね。それは持っているだけで、印として役立つからじゃ。魔法は、人形が担ってくれるんじゃよ。」
マハラルが懐から取り出した糸を、エリスの杖に繋げるのを、ナギサは観察した。そして、その完成品を受け取った。「腰にぶら下げておきなさい」。巨匠に促され、彼は幾分くたったベルト穴に杖を下げた。外見だけは、一端の魔法使いの振る舞いだろうか?
「エリスが魔法銀をお前さんに寄こした理由が儂には分かる。それが正しいと確かめるまで、お前さん、しばらくの間コナーに言葉を教えてもらいなさい」
「言葉、とは、つまり、話し方を教わるんですか? コナーさんは、子供たちに、学校で教えていたりするんですか?」
「子供……、ひよっこには教えているがね。魔法はね、最初は言葉が肝心じゃ。つまり、言葉を話し、自ら聞き、想像する。見ることの叶わぬ精霊の神秘を想起するためには、現象を正しく捉えることが大切じゃ。生き物には声があり、ミュストがあり、魔法がある。言葉は必須ではないが基礎じゃ。彼はそれを研究しておる。教え方が一流であることは儂が保証しよう。彼ならば半年ほどで、いや、君の耳が優れて聴き分けよく、君の舌が優れて回るならば、三ヶ月あれば、どんな大魔法使いも舌を巻くような発音にして貰えよう。どうかね?」
ナギサは、マハラルとコナーに助けられすぎて、今更ひとつ項目が増えたとて、もう返す恩に見合ったことの大変さは変わらないだろう、と思えた。だから、ナギサは、いたずらを思いついた子供のように毛むくじゃらをクイと笑わせるマハラルに、ありがとうございます、と微笑む。半分は、作った笑顔でもあるが。
「……気掛かりならば授業料としてエールの一杯でも奢ってやりなさい。ナギサよ、生活が快適なものになるかどうかは、お前さん次第。良くやりたまえ」
老人はそれを看破してなお、ナギサを励ます。
「魔法を知らないからこそ、お前さんはコナーの助けを断ったのじゃろう。『謎』『得体の知れない』……そこにこそ人は不安を見出だす。お前さんにとって酷じゃったのは、目覚めてすぐに検査されなかったことじゃ。記憶は魔法の力を見て純粋さを失い、魔法を知らない己に対する不明瞭な重圧を抱いてしまった。……のかも知れん。焦らず、少しずつ魔法を知ってお行き」
「……独り暮らしですから、気ままにやります。エリスの家、狭いんでしょう?」
「狭い。そして古く、さらに汚い」
「魔法や、記憶喪失より、怖い事実です。全力で掃除しなきゃ、いけないですね」




